07:whydunit - B
「おや、ジーン、何か心当たりでも?」
心当たり、と言われるとものすごく語弊がある気もするが、それでも、私が思い出していたのは、遥か遠い日々である、山奥の修道院の生活だった。当時のことを正確に思い返そうとすると、どうしても苦いものが喉の奥に引っかかるような感覚に陥る。当時の記憶が悪しきものというわけではない。修行は決して楽ではなかったが、それでもかけがえのない日々であったと思っている。
そうだ、私が、私のあり方が、あの場にそぐわなかったというだけで。その事実を突きつけられた日のことを、未だに忘れられずにいるだけで。
だが、それはあくまで私個人の記憶であり、問題だ。だから、軽く首を振って一旦他所に追いやって、トレヴァーの問いかけに答える。
「心当たり、というほどではない。ただ、幼い頃に師とした話を思い出していた」
「いやー、ジーンの小さい頃って全く想像できないんですけど」
「一応、私も人並みに二十五年生きてるんだがな?」
「いや、俺もアーサーの言うことはわかる気がするな。何かジーンって、俺らが出会った頃から既に完成されてた感じがしてさ……」
オズまでそういうことを言うのか。あとトレヴァー、奥でくすくす笑うのはやめていただきたい、顔を隠してもさすがに笑ってるのは誤魔化せていないぞ。
幾度目かになる脱線――元よりこの主題自体が単なる与太話でしかないが――を経て、話を引き戻す。
「とにかく、師に伺ったことがあるんだ。肉体の内側に存在しながら魂魄に触れている脳、それ自体は一体物質界と魂魄界どちらに属するものなのかと」
「一般的に、肉体の五感をもって知覚できるものは、全て物質界のものと考えていいはずだ。脳は確かに魂魄と繋がる器官ではあるが、目に見えて、この事件のように手に取ることすらできる」
オズの言葉は素晴らしく簡潔だ。感情を交える必要のない問答に関しては、彼の右に出るものはいない、そう思わせるだけの力のある言葉だと思う。感情を交えた瞬間に性根の善良さがことごとく足を引っ張るところも含めて、彼の美徳だと思う。
「そうだな、私も今ならそう答える。だが、師は、答えあぐねた。彼が一般的な見解を持たなかったとは思わない。ただ、その一方で、我々、女神ミスティアを崇める者にとっては……」
我々。そうは言ったが、私は女神を語るには値しない咎人だ。
血塗られた両手を見下ろす。実際に血に赤く染まっているわけではないが、己の意志で女神に背を向けることを選び、引鉄に手をかけ続けている手は、酷く白々と談話室のシャンデリアに照らされている。
――赦しなどいらないのです、女神ミスティア。私の望みはこの戦が一日も早く終わること、ただそれだけなのです。
何度も、何度も何度も何度も繰り返した言葉を魂魄の内側で今日も唱えながら、一方で唇は勝手に言葉を紡いで行く。
「……脳とは、魂魄界から物質界に映し出される魂魄の影が、形を取ったものだ。生物の肉体を構成する器官の中でも触れてはならない、神秘の領域であるとされている」
私の言葉に対し、アーサーは「うーん」と長椅子の肘置きに体重をかけて、下がり気味の眉を更に寄せる。
「何だかよくわからない話ですね。つまり、魂魄そのものってわけじゃあないけど、物質とも言い切れないと?」
「女神ミスティアの教えは、多様に解釈できるものも多いからな。師が答えあぐねた、脳を含めた生物の在り方に関する教義もその一つだと思っている。とはいえ、今から女神の御言葉について説いていたら夜が来るどころか朝になるだろうが、いいか?」
「よくねーです。要点のみよろしくお願いします」
「師との対話で私が思ったことは一つ。脳と魂魄とは、全く同一ではないが、極めて近しい存在であるということだ。……だから、例えば脳を奪うとは、魂魄を奪うことに繋がるのではないか、と」
私は修道僧崩れであり、もちろん脳の専門家でもないから、結局のところこれは単なる想像、仮定、思考の遊びにすぎない。しかし、オズは「そうだな」と無精髭の浮いた顎を一撫ですると、長椅子の背越しに私を見やる。
「ジーンの言っていることも、現在明らかになっている理論上、的外れとは言いがたい」
「そう、なのか?」
「脳は魂魄そのものじゃない。魂魄からの信号を肉体に反映し、肉体の刺激を魂魄に反映させる肉体上の器官だ。ただ、これはあくまで机上の理論だが、仮に人間の脳を全く同一の機能を持つ器官――つまり別の脳に置き換えたとしても、本来の魂魄との接続ができないと言われている。もしくは、交換された後の脳が過去に接続していた魂魄と接続する可能性が高い、と」
「……各個人の脳は、それぞれが生まれ持った魂魄としか結びつかないってこと?」
トレヴァーは興味津々といった様子で身を乗り出す。それでも窓際から一歩も動かないのは、多分、未だにオズに近寄りたくないからなんだろう。その態度に露骨に傷ついた表情をしながらも、オズは小さく顎を引く。
「おそらく。とはいえ、俺の知る限り脳の移植は成功例が無い。単純に脳という器官が極めて複雑で未だ全容が明らかになっていない、ということもあるが、ジーンの言うとおり、脳という器官は神秘的であり、これを暴くのは禁忌を伴う」
「オズまで、そんな宗教家みたいなことを言うんです?」
アーサーが不思議そうな顔をするし、私もオズに「神秘」や「禁忌」という言葉は似合わないと思う。オズ自身がどこか神秘的な存在ではあるけれど、彼自身の言葉は事実と理論、そして演算に基づいているものだと考えている。
オズも自分がそう思われていることは百も承知なのだろう、ほんの淡く、見慣れている人間にしかそうとわからない苦笑を浮かべて、軽く首をすくめてみせる。
「俺は女神ミスティアの加護を信じる立場にはいないが、女神ミスティアの信奉者でなくとも、そうだな、何となく『脳を暴く』って聞くと、いい気分じゃないとは思わないか? 背筋がぞわっとしないか?」
「……まあ、確かに、誰かに自分の脳味噌弄くられたら、って思うとぞわっとはしますわ。身体全体をバラされる、ってよりもよっぽど『オレ』自身を冒涜されてるような気分になる」
「そう、この事件が酷く猟奇的に感じられるのも、奪われているのが『脳』だからだ。例えば腕とか足だとか、心臓や肺なら、猟奇的ではあるがそれでも感じ方は違うだろう。脳を奪う。それは、ジーンやアーサーの言うとおり、人格や感情、思考を司る魂魄の拠り所を奪うこと、ひいては『自己』そのものを奪うことに繋がるんだ」
だからこそ、女神もこれを神秘の器官と定義して、触れることを禁忌としているのだろうし、女神の信奉者でなくとも禁忌、ないし嫌悪を抱くのだろう、とオズは淡々とのたまう。
それきり、談話室に沈黙が落ちた。他の三人――なおゲイルは気持ちよさそうに眠っている――が何を考えているのかはわからないが、私はどうしても消えた脳の持ち主に思いを馳せずにはいられなかった。
それぞれの脳の持ち主には、当然、女神から賜った魂魄があったはずで。今、その魂魄はきちんと女神の御許に還ることができたのだろうか、と。それとも、今もなお魂魄界を苦痛に満ちた記憶を抱えたまま彷徨っているのだろうか。
そんな、決して私には知りえることのないことを考えていたその時、不意に押し殺した笑い声が耳についた。三対の視線を浴びた笑い声の主、トレヴァーは「ああ、ごめんごめん」と細長い指を持つ手を振って、それでも口元の笑みは消さないままに言う。
「なら、この犯人は、確かめたかったのかな、って思ってさ」
私はつい、どういうことだ、と問いを投げかけていた。私はこの場にいる三人ほど頭の働きがよくないこともあって、どうも、あるべき過程を飛ばして結論だけを突きつけてくるように聞こえることが多い。
トレヴァーは、そんな私の言葉に別段嫌な顔一つせず、ただ、糸のような目をこちらに向けて言う。
「さっきオズは言っていただろう? 机上の空論だって」
「空論だとは言ってないぞ」
「でも、現実にそれを試した人間はいない、ってことになっているよね」
オズもトレヴァーも「いない」と言い切らない理由くらいは、流石に私にもわかる。それがどれだけ禁忌に触れていようとも、我々が知らないだけでそのような「証明」を行った人間がいないとは言い切れないのだ。
「だから、未だ仮説でしかないそれを証明するために人の脳を奪った。できれば完全な形で。ただ、生きたまま脳を取り出すのは流石に無理だったから、殺害した後の脳を手に入れた……、とかどうかな? 案外『何故』としてはよくできてると思うけど」
「けれど、証明してどうなる?」
オズはとんとんと長椅子の背を指先で叩きながら言う。先ほどと同じ問いかけだ。果たして、それだけの危険を犯してまで証明する価値があると、犯人は信じていたのか。それに対し、トレヴァーは「どうだろうね」と嘯きながらも、つい、と視線を長椅子で眠るゲイルに移す。
「証明すること自体に意味がある――、そう信じていないとも言い切れないよ。君とゲイルが『青空』の存在を証明しようとしているのと変わらないんじゃないかい?」
む、とオズは眉を寄せて険しい表情になる。流石に、自分達の「夢」を猟奇殺人者の狂気と比較されるのは不愉快であったとみえる。
それでも、誰もたどり着いていない領域に到達しようという試み、それ自体はもはや人間の本能のようなものともいえるのかもしれない。事実、トレヴァーの言葉の通り、「青空」という存在すらも定かではない景色を見るために
そこで、うつむきがちに二人のやり取りを黙って聞いていたアーサーが顔を上げる。
「でも、これ、オズの話が正しくて、かつ死者の脳を他人に移植することが可能だとすれば、その脳が劣化ないし破壊されない限り、脳の持ち主の魂魄が、他者の肉体を操るってことですよね。それって……、十二分に利用価値はありますよね」
「そうだねえ。単なる『成り代わり』としても十分有効だろうし、優秀な魂魄の持ち主を――それこそ、オズのようなごく稀に現れる魂魄に依存する特殊能力者を、その脳自体が死なない限りは『維持』できる」
永遠に、とまではいかないけれど、肉体の劣化や破損での魂魄の死は逃れられる、ということか。
オズは指の動きを止め、アーサーとトレヴァーの話をじっと聞いていた。おそらくは、それらの言葉を処理しているのだろう。果たして、それが可能なのか。確率がどれだけ低くても、実行の価値のある「実験」なのかどうか。トレヴァーの言葉が絶えたところで、オズは乾いた唇を軽く舐めてから、口を開く。
「とはいえ、脳は繊細な器官だ。基本的には肉体が死んだ時点で脳も機能を停止するものだぞ。心肺が停止した状態で脳のみを生かす技術は確立していないはずだ」
「そのくらいはオレだってわかってますよ。だから、まあ、あくまで可能性の話ですよ。ただ、人間の脳を含めた全身を蒸発させて、機関鎧に詰め込むことで魂魄を維持する例は既に向こうの『
「……『戦乙女』、か」
そう、我々が常に向き合い続けている魄霧汚染による人体の蒸発を人為的に起こし、機関鎧にかつて肉体であった魄霧をめぐらせることで巨大な人型の鎧を動かすのが帝国の汎用人型兵器『戦乙女』の仕組みだ。
とはいえ、『戦乙女』はかつて己の肉体であった魄霧が機関鎧から少しでも漏れ出してしまえば大気中の魄霧と溶け合ってしまい、即座に自我を喪失する。事実、そうして「死んだ」彼女たちを私は何度も目にしている。機関仕掛けの鎧を、我々の手で穿つことで。
彼女たちの在り方を、私は理解できない。理解できないけれど、否定もできずにいる。授けられた肉体を自ら捨てること、そうすることでまさしく自らの全てを戦いに捧げること。それ自体がまるで理解できなくとも、彼女たちの望みは、私と変わらないのだろうから。
つまりは、二国間の戦争に勝利し、この泥沼の戦いを終結させることだ。
目的は同じ、けれど属する陣営が違うだけの、話。
そして、彼女ら『戦乙女』や、我ら霧航士という過剰なまでの力を持つ者が造られた理由も、二国間の戦争が背景にあり、もしくは……。
「アーサー」
「あ? 何です?」
「先ほど、私は言ったよな。我々が守らんとしている首都でこのような事件が起きているのはやりきれない、と。だが」
もしかすると、我々が勝てないからこそ起こった事件、とは考えられないか?
霧航士隊はよくやっている、と思う。幾度かの『戦乙女』との対決でも、今のところはこちらが押していると言っていい。だが、どれだけ我々が健闘したとしても、二国間での戦況がよくなっているようには感じられない。
そうすると、必然的に新たな戦略と戦術が求められてくる。そして、それらに必要となる新たな技術が求められる。時代の中で
そして、事件の形を取ってはいるが、実際にはこの事件によって奪われた脳すらも、この停滞した空気を打破するための、新たな技術の開発の礎として捧げられたものなのではないか、と――。
ぱん、と。よく響く音で、私の思考は遮られる。その音色を生み出したのは、トレヴァーの両の掌だった。彼の表情は、あからさまに飽きと不興の色を隠していなかった。
「この話、ここらでやめないかい? ボクも調子に乗って色々喋ったけど、ボクらに推理は向いてないし、まず与えられた情報が少なすぎるって、これ。ゲームとして成立してない」
「ですね。ジーンも、あくまで単なる与太話なんだから、そう馬鹿真面目に考えることじゃねーですよ」
アーサーもこれで話は終わりだ、とばかりに新聞を折りたたむ。それから、淡い色の瞳をこちらに向けて、へらりと笑ってみせるのだ。
「……そもそも、オレたち一人ひとりにできることは、本当に高が知れてるんです。一騎当千の霧航士様であっても、くそったれな事件を解決できるわけじゃあない。何せ、既に起こってしまった事件相手じゃ翅翼艇は通用しねーんですから」
アーサーの言葉は乱暴ではあったが、それでも、私の胸の内を正しく読みきっていた。本当に、アーサーの目は誤魔化せない。それを言ったら、ジーンがわかりやすいだけだ、とアーサーは笑うだろうけれど。
だから、そろそろ話が終わると見てゲイルを叩き起こすオズを横目に、意識して微笑む。どれだけ上手く笑えたかは、正直、わからないが。
「ああ。どれだけ考えても仕方ないことは、あるな」
――そう、そうだ。
「我々は、霧航士であって、探偵ではないのだから」
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