いんふぇるの、或いは私と律子さんの話

睦月ジューゴ

地獄は脳髄にこそあり

ああ……こんにちは、先生。いつもお世話になっております。おかげさまで相当良くなりまして、ええ、ええ、大丈夫です。温度は熱いですが、それでも私は元気です、本当に……ご迷惑を……。

 話、ははあ、話ですか。私めの話のいったい何が……いえ、そんな時もあるでしょう。矮小な人間の戯言に耳を傾けたい時が。丁度私も暇を持て余しておりましてね、なれば先生の暇を潰す為に一肌脱ごうじゃあありませんか。

 そうですね、ふむ……話……私の生い立ちをつらつらと話しても良いですがね、それもつまらない……じゃあ、私の「これ」の話でもしましょうか。これですよ、これ。ここからね、赤い糸のつながった……そんな顔をしないでください、先生はうぶだなァ……ただの色の話ですよ。まあまあ、ここは一つ聞いてください。

 律子さんはね、それはそれは美しいんですよ。緩やかな曲線を描く身体、すらっと伸びた足の細くて白いところ、それに私の全てを受け止めてくれる……良い女だ……ああ、先生、煙草持ってませんか。持ってないかァ……いえね、良い女の話をする時は煙草を吸いながらと決めていましてね。無いか……まあ良いでしょう……。律子さんは優しいんです、とても……。あんな良い女はいませんよ……。

 律子さんと私が出会ったのは、もう何年前になりますかねぇ。十……いやもっと……? よく覚えちゃありませんが、とにかく私たちの付き合いは長くてね、一目惚れでした……あの時住んでいたS市のM家具店でね、たまたまの出会いでした……人が恋に落ちる瞬間、ご存じですか? ストーンとね、落ちるんです、文字通り。英国でも「ふぉおりんらぶ」と言うんでしょう?わたしゃ異国語には明るくないんですがね……どこの国でも、人間は恋に落ちるものなんだ……私も、きっと先生もそうなのでしょうなァ。

 とにかく私はそこで律子さんに恋に落ちました。運命……そんな安っぽい言葉を使いたくはない……でも運命でしたよ、あれは……。一目見て、私は律子さんと共に生きることを決めました。多分、律子さんもそう思ってくれている……律子……ああ、すみません、のすたるじぃに浸っていては話が進みませんねェ。律子さんと出会って、すぐ私たちは結ばれました。私の住む家はあまり広いもんじゃありません、狭苦しい六畳の一間、台所はついているけれど風呂と厠は共同、でも幸せでした。私が居て、律子さんがいる。それだけで充分なんですよ……。なに、先生にも惚れた女が出来ればわかります。そんな幸せな日々が続いたある時、来てしまったのですよ……何が……M氏がね……忌々しいなァ……。

 M氏は学生時代の友人……いや……友人だなんてもんじゃあない……ともかく、学友でした。厚かましい性質でね、ガキ大将みたいなもんだった、私は……お恥ずかしい限りですが、虎の威を借りていましてね。卒業してからぷっつりと連絡が途絶えていたのですが……何故今になって私のところに来たんでしょうなァ……ともかく彼は私の家を訪ねると、一言、こう言いました。

「金貸してくれや」

 突然の申し出でした。私は生憎持ち合わせがありませんでね……仮にあったとしても、この態度じゃあ貸す気になどなれませんが……丁重にお断りさせていただきました。そもそも、おべっかを使っていたとはいえ、それは学生の頃の話ですんでね、M氏に従う言われなんてありゃしません。しかしM氏は学生の頃の傍若無人もそのままに、私の家に上がり込みました。やめて、やめてくれ。私が止めるのも聞かずに、M氏は部屋をぐるり一周見渡し、にたりと私に笑いかけます。

「こんなガラクタばかり集められるんだ、金くらい持っているだろう」

 違う、違うのです。私は必死に否定しました。私の大切な律子さん、律子さんたちはガラクタなんかじゃあない。やめてくれ、とおびえきって震えた声で、私はM氏を拒絶しました。その様子がおかしかったのか、M氏は呵々と笑い、その醜く膨れ上がった体をどっしりと律子さんに預けました。

「なんだァ、たかが椅子じゃあないか」

 私はその瞬間かっとなって、M氏を突き飛ばすと、律子さんを持ち上げ、彼女で思い切りM氏を殴りつけました。ええ、一度目は何が起こったかわかりませんでした。反射でした。その後、むくむくと怒りが沸き上がってきました。私の律子さんを愚弄したから……たかが椅子だなんて……私の全てなんだ……私はもう一度、律子さんでM氏を殴りました。M氏は豚がしめられる時みたいな悲鳴を上げました。律子さんは豚を打ち据えた衝撃で軋むような悲鳴を上げました。私はもう訳が分からなくて、胸がいっぱいになって、悲鳴を上げました。私はもう一度、律子さんで豚を殴りました。豚はふごふごと潰れた鼻で息をしました。律子さんは華奢な足がへし折れて一本どこか遠くへ飛んでいました。私は身の内にたぎる憎しみでもう一度叫び声を上げながら豚に律子さんを叩きつけました。いつまでそうしていたかは知りません、次に我に返った時はすでにもう、ここに居ましたから……。

 ははは……私が出来る話はこんなもんですかねぇ……。ねぇ先生……私の家は遠方の親戚が引き払ったそうですねぇ。私をここに入れたのも彼らだそうで。ああ、全部聞きましたよ。私のものは全てなくなってしまったとか。律子……律子さんは証拠品として警察が持っているんでしょう?裁判が終わったらきっと律子さんは燃やされます。もう終わりです。私は終わりなんですよ。今日もね、地獄の火が私を焦がしているのです。私の律子さんが燃やされる。だから私の身体も燃やされる。あなたも燃やされる。世界が燃やされる。ああ、律子さん、私の、私の律子さんはどこでしょう、どこに、熱い、どこ、ここは、ここ、どこ、律子さん、熱い、律子、りつこ、りつ、り、り、り、律子ォォォ、オオォォォォ……。

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いんふぇるの、或いは私と律子さんの話 睦月ジューゴ @eeesperancaaa

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