「オッケー!」は演技者の勲章
待合用ベンチが縦に三つ、横に二つ、計六つ並んだ場所でそれは起こった。
駅員や鉄道公安? 警官? の役の人が、柄の悪い中年男性の役の人を取り押さえている。
そう、ひったくり……いや置き引き……ひょっとしてスリ……かも?
なにせエキストラ中は眼鏡を外しているからよくわからない。
『ハァイ! オッケー!』
どうやらこれも背景の一部なのか?
ここで再び助監督さんが拡声器を持って説明する。
『え~事件が起こっていますので、近くを歩いている人は知らんぷりせず、顔を向けたり立ち止まったりしてください(苦笑)』
私はその現場からかなり距離が離れているところを歩く役だったので、あえてする必要はなかったが、確かに近くで犯罪が起これば野次馬根性がむくむくと顔を出すだろう。
ほんの少し前まで東京のイメージは『冷たい』『人情がない』などと揶揄され、何か事件があっても周りの人間は知らぬ存ぜぬが当たり前だった。
それが今ではすぐさま現場にスマホのカメラを向け、撮った写真や動画をSNSへ送信する。
どちらがどうとかはここでは述べない。
話がそれた。
そして我ら一般人も現場の空気に慣れ、スタッフさんから特に指摘がなくなると、いよいよ本番がやってくる。
『では本番いきまぁす!』
『本番!』
『本番!』
『本番!』
本番。それは嵐の前の静けさ。
本番。その言葉はすべてを止める神の調べ。
本番。それはすべての始まり。
社会という荒波にもみくちゃにされた俺の魂でさえ、心なしかブルってやがる。
へっへ……。この空気、この緊張こそ撮影よ!
だが、プロのエキストラさん、そしてスタッフさんの緊張具合は素人の俺様の比ではないだろう。
ここで初めてみる超兵器、いや、撮影道具だろうか?
ハンド
ドライアイスか?
いや、真っ白ではなく、ちょっと青白い煙っぽい?
調べてみると撮影用の道具で『スモークマシン』と呼ばれているやつだ。
ちなみにお値段はだいたい数万円。
多少改良してあるのか、煙の出るところに掃除機のホースみたいなのを取り付けてある。
煙の元はアルコールの一種であるグリコールと水をおおよそ半々に混ぜた液体。
そういえばヴァーチャルアイドルのライブを行ったライブハウスや、アニメソングのライブを行った日本武道館、横浜アリーナ、そしてさいたまスーパーアリーナでもこんな煙が会場に充満していたな。
あの煙のおかげでレーザーがより映し出されるとか?
同じモノかどうかわからないが、おそらく撮影現場での役割はほこりっぽさの演出と、煙によって遠くの方がぼやける為、遠近をつけやすいと言ったところか?
ドラマのエンドクレジットで『効果』と出てくるが、この人がその役目なのだろうか?
だが今は一月下旬。幸いにもお天気は快晴であったが、北風さんがもっとも元気になる時期でもある。
さらにここはオートレース場の屋外車券売り場。
屋根はあるが、車券売場の窓口以外の三方は開け放しである。
なおかつ、柱はあるが、どこにいても風を遮る場所がない。
着物の下は半袖半裾の変態さん姿の私にとって、冷たい風が五臓六腑に染み渡るのである。
おまけに私の着物の裾がめくれ上がり、あやうく、すね毛の生えた生足をさらけ出してしまうところである。イヤァ~~ン。
……話を戻すと、そんな北風さんの前には、人間が作ったちゃちい煙なんぞ旅人さんが着込んだ服よりも、たやすく吹き飛ばしてしまう。
そんな訳で、せっかく撒いた煙もきれいさっぱり彼方へと流され、スタッフさんたちの間に苦笑が漏れる。
なるほど、屋外撮影とは天気はもとより、風との戦いでもあったか。
やがて風が収まったのを見計らって、再び本番の掛け声とスモークが撮影現場に満たされる。
『では本番いきまぁす!』
『本番!』
『本番!』
『本番!』
再び緊張の空気と呼吸音が現場に満たされる。
『用意ぃ! スタート!』
人が行き交い、喧噪に満たされる上野駅。
かくいう私も波のように押し寄せる人の間を縫い、未だ見えぬ人生の目的地へと歩を進める。
行き着く先は楽園か、はたまた人生の墓場か。
そして、ベンチのあたりから鳴り響く警笛と、野獣のような男たちの怒鳴り声が駅構内に轟く。
かくいう俺様も、遠い場所にいながら軽く視線を向ける
『ハァイ! カットォ!』
『オッケーです』
おお! と心の中で一人、感嘆の吐息を漏らす俺。
オッケー。それは俳優の証。主役からエキストラまで平等に授けられる勲章である。
再び、助監督さんの拡声器で、我らエキストラが呼び集められる。
『○○さんがおみえになりましたので、皆様にご挨拶をされたいと』
そう、番組ホームページ。そしてオープニングに名前が出てくる出演者の登場である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます