崩れる季節

岡野めぐみ

兄と弟

 列車から、傷んだアスファルトのホームへ降り立つ。

 私以外を吐き出すことなく走り去ったくすんだ赤い二両編成を視線だけで見送り、正面を見る。

 海。がらんとさみしい線路の向こうは海だった。

 灰色の空のもとめいっぱい広がり、所せましと白波を立てる海は、青というよりはむしろ黒に近い。

 コートのポケットに手を突っ込み、首にぐるぐると巻き付けたマフラーのなかに鼻の下までうずめて海に背を向け、薄汚れたコンクリートの駅舎を通り抜ける。

 駅舎と道路の間には中途半端なアスファルトの空間があった。その中央に蘇鉄の樹が三本ほど埋め込まれているあたり、ここはロータリーなのかもしれない。

 風でせわしなく動き、ざわざわと音を立てる蘇鉄の青黒い葉を眺めるうち、車が一台入ってきた。

 目の前で停まった白い軽四の運転席には見知った顔がいた。弟だ。

 助手席に乗り込み、やあ、と短く声をかける。

 弟は困ったように笑んだ。

「まさか来るとは思わなかった」

 ひどい言い草だが、特に気にはとめない。

 私が捨てて逃げた家に縛られる弟は何せ不自由だ。

「まさか呼びつけられるとは思っていなかったよ」

 私がシートベルトをさっさと締めるなり、車は走り出した。

 申し訳程度のロータリーを抜け、歩道も満足にない片側一車線の道を行く。

 前にも後ろにも車はいない。 左手にはそぞろな街並み。その向こうに時々見える黒い海。

「何かあったのか」

「兄貴こそ」

「何で呼びつけたんだよ」

「呼ばなきゃならないと思ったからだよ」

 飾り気のない車内に飲みかけのまま冷たくなったコーヒーのにおいが漂っていることにふと気づく。嫌いなにおいだ。

 今度は鼻までマフラーにうずめる。

 それでにおいは断ち切れたが、今度は暑くなってきた。

 そもそも身体が冷えていたせいか耐えられないほどではなかったが、それでも一言言いたくて、暑い、と小さく訴える。

「そりゃあそうしてたら暑いだろう」

 弟は声を立てて笑った。

「だいたいもうそろそろマフラーもコートもいらなくなる頃なのに」

「は?」

 何を言っているんだ? と顔をしかめ、弟の方を見る。

 と、その向こうの窓の外の濃い桃色に目を奪われた。

 視界に入ったのはほんの一瞬。あっという間に流れていった方向を未練がましく見つめて口を開く。

「山躑躅? なあ、今の山躑躅じゃあなかったか?」

「ああ、だってもう桜は散りかけだしな」

「桜? 散りかけって?」

「散りかけてるじゃあないか」

 見ればいい、という視線の先を追い、前を見る。

 右手には小学校。今進む道の両脇には桜並木。

 平凡な染井吉野だろう木々の広く張った枝は白と赤と緑が入り混じっている。

 いつの間に咲いて、いつの間に散ったというのか。

 列車から降り、あの寒々しい海を見たのはほんの四、五分前ではなかったか。

 桜が散り、山躑躅が咲き、そして、あれは? あそこに見える家の庭先の花は芙蓉ではないか?

 秋桜に鶏頭の花、山には山茶花に藪椿。ああ、そして、紅葉が終わりもしないのに、とても狂い咲きとは思えない山桜が――

「何だ! どうなっているんだ!」

 マフラーに顔をうずめ、叫ぶ。

 どうして季節が崩れている。

 ほんの短い時間に廻る季節、それどころか重なってすらいる。

「たぶん、生き急ぎすぎたんだよ」

 運転席の弟が言った。冷え冷えとした声だった。

「全部置き去りにしていっただろう。走り抜けただろう。そうやって時間を切り詰めて捨てた、その代償じゃあないか?」

 顔を上げ、弟の方を見る。

 運転席の窓の向こうには葉を落とした木々の群れ。そのなかに鬼百合の花がいくつもあった。

「お前が、見せているのか」

「まさか。兄貴に何がどう見えているのか俺にはわからん」

 この崩れた季節は、私だけに見えているというのか。

 本当に? あの生垣の梔子の白い花は私にしか見えていないのか?

「電話口で訊いただろ。兄貴はいったいどこにいるんだと」

 思い出す。

 何日か前の夜に電話をかけてきた弟は、 母方の祖母が便りがないのを心配しているからかけてみた、と言っていた。

 そうしてお定まりのようにたまには帰ってこいと言う弟に、私は言った――春になれば仕事も落ち着くだろうから、その時にな。

 ――春になれば? って、兄貴、今どこにいるんだよ。

 ――どこって、そりゃ職場だよ。

 ――海外進出でもしたのか?

 ――いいや、今その話を詰めているところだ。

 ――日本にいるのか?

 ――いくらかは現地に派遣しているが、まだ計画段階だからな。私はこっちだよ。

 ――国内か?

 ――ああ、日本だよ。そう言っているじゃあないか。

 忙しいのにいったい何なんだと吐きそうになった悪態を、においも味も最悪な冷えたコーヒーとともに飲み込んでいると、春とは言わずに一度戻ってこい! と荒らげられた声が鼓膜をついた。

 見てくれこそ厳ついが言葉少なでおとなしい弟とはまるで別人のようだった。面食らっているうちに、とにかくいいから戻ってこい、兄貴、と今度は聞きなれた調子で言った。

 その時は、薄情な兄を呼びつけなければならないくらい思い詰めることがあったのだろうかと、ふと思った。

 まあそれならば、と通話を切ったあと、そのままぼんやりとチケットを予約した。

 次の木曜ならば翌日の早朝戻るようにすれば何とかなる、と曜日しか見ていなかったと今更ながらに思う。

 今日は何月何日の木曜日なのだろう。

「戻せるのか」

 この崩れた季節は。

「戻せるわけないだろう」

 そのうち慣れると弟は言った。

「現に兄貴は今日の今日まで気づかなかった。それがいい証拠だよ」

 いつの頃からか、私は人間ではない何かになってしまっていたのかもしれない。

 瞼を閉じ、改めてマフラーに顔をうずめる。

 戻らないのか、もう、何もかも。季節はずっと崩れたまま。

「しばらく寝る」

 次、目が覚めても、私の季節は崩れたままだとしても、湿ってしまった目と声はきっと乾くだろう。

 そして、私はまた何も見ず、崩れた季節を走り抜けて、圧縮した時間を殺して生きるのだ。

「おやすみ、今だけはよい夢を」

 とてもそうは思っていない声で弟は言い、私はそれでも、ありがとう、と言った。

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