第15節「ブラック企業社員が風邪を引いて会社を休んだある日」

「なんだ、奈由歌ちゃんか。灯理ちゃんが良かったなぁ」


 安アパートの一室のドアを開けると、味元さんは開口一番そう漏らした。


 おもむろに眼鏡を取って拭き始める。パジャマ姿に、ボサボサ頭に眼鏡。第一印象はモサっとしたオタクという感じだったが、眼鏡の下から現れた瞳は、意外にもつぶらでキラキラしていた。


「あんた、さすがにその言いぐさは失礼だろ」


 年上の人にも臆さず、焔はまず言うべきことを言った。


「よいよい。病人が何を言おうが無礼講ぶれいこうじゃ」


 一方で、奈由歌は寛大に構えている。


「君は?」

久美くみ焔です。最近復興部に入りました」

「奈由歌ちゃんの彼氏?」

「んなわけねーじゃろ」

「んなわけないっス」


 そこで、味元さんは咳き込んだ。本当に体調が悪いようである。


「ゴメンゴメン。来てくれてありがとうね。もう、おかゆを自分で作るパワーすらなくて」


 よろよろと部屋の中に戻っていく味元さんについて、焔と奈由歌も中に入っていく。


 部屋の中は控えめに言っても小汚く、雑然としている。


 台所を抜けた奥の一室に布団を敷いて味元さんは寝ているようだが、テーブルの上には食べ終えたカップ麺の容器が重なっているし、ジュースの空き缶も何本も置いてある。


 部屋を横断する洗濯紐に無造作にタオルや肌着が干され、壁にはアニメのタペストリーが貼ってある。床に無造作に置かれた大きいデスクトップPCの上には、美少女キャラのフィギュアが置いてある。


「人間、限界があると思うんだ」


 布団の上に腰を下ろすと、味元さんは奈由歌を真正面から見据えた。


「会社、辞めたい」


 聞けば、ソフトウェア開発会社勤務で、震災後にS市の勤務になって引っ越してきたという。


 業務は激務で、朝早い時間から日付が変わる頃まで会社。最後に休みを取ったのはいつだったか記憶が怪しく、おまけに最近は残業代がちゃんと払われるのか不安も出てきたそうな。


「しんどいのう」


 奈由歌は味元さんの正面に正座している。


 焔も最初こそ「ダメだこの人」と思ったものの、心の底からの愚痴を聞いているうちに、味元さんに同情的になってきていた。


 とはいえ、この国の労働環境が悪化している問題は、焔に一朝一夕でどうにかできるものでもない。


「俺、お粥作りますよ」


 せめてできることをと、台所に向かう。


 焔なりに考えてみても、震災後のS市の経済は、味元さんみたいな人が回してくれてるとも言える。こちらはまだ税金も納めていない身の上、感謝する立場だ。


「もう、ゲームやって過ごしたい」

「アジモト、最近ログイン時間減ってるもんな~」

「え、そういう知り合いなのか?」


 米を研ぎながら、隣の部屋の二人の会話に混じる。


「フレンドじゃ。魔獣ガンガルが襲来した際には共に戦い、協力戦ランキング千位以内に入った仲じゃ」

「へー。スマホゲーやらないから、よく分からねぇ」

「奈由歌ちゃん。僕はもう現実に疲れた。VR技術がもっと発達して、剣と魔法の世界に行けないものかな?」

「あたしらが生きてる間には、何とかなるんじゃないか~」


 会話を聴いていると、どうやら味元さんは、ゲームの中だとけっこう凄い人らしい。


「それに祈が言ってた。ベーシックインカムって制度が整備されて、一日中ゲームしててもオーケーな世の中になるかもってな」

「それ、イイな~、早くそうならないかな~」

「それ、外国の投票で否決されたんじゃなかったっけ? 俺はちょっと疑問だな。なんか、努力とかしなくなりそう」


 焔が粥を炊く鍋を眺めながら感想を述べると。


「あうっ。努力。おうっ。努力。もう、努力を求められるのはたくさんだ。上司、コロス」


 味元さんは布団の上で、浜に打ち上げられたオットセイのように体をビクビクさせた。


「ヨシヨシ。アジモト、重症だな~」


 奈由歌は味元さんのお腹をポンポンと叩いた。


「まったく、ホムラ!」

「ええ? 俺のせい?」


 定番の卵粥にするべく、卵を割ってとく。


「安心しろ、アジモト。ベーシックインカムとかなくても、あたし、ゲームばっかしてたし」

「ナユカちゃんはプレイ時間かけて強くなるタイプだよね」

「金はないからな~」


 ゲームに時間をかけていたという奈由歌の話を聞いて。


「しばらく学校行ってなかった俺が言うのもなんだけど、勉強する時間とかも大事なんじゃないか」


 焔の場合、まったく勉強をしていないわけではなかった。両義りょうぎ先生に世話になっていた期間を始め、自習は続けていた。それゆえに、学校に復帰した今も、さほど勉強の遅れは感じていなかった。


「でもわたし、分数も分からないぞ」

「ええ。さすがにそれはなくね? 四分の一+四分の二は?」

「四分の三じゃ」

「なんだできるじゃん」


 すると、オットセイ状態からは立ち直り始めた味元さんが今度は出題した。

「六分の一+三分の二は?」

「あう~」


 今度は奈由歌が横たわり、波に打ち上げられたアザラシのようにその場でゴロゴロした。


「ええ? どういうこと」

「通分からできなくなったんだ」


 味元さんは冷静に分析すると、奈由歌の頭をポンポンと叩いた。


「なんかちょっと元気出てきたな。お粥くらいなら食べられそう」


 そう言って、焔が盆に乗せて持ってきた卵粥に口をつける。お昼には少し早いという時間帯であったが、卵粥は三人分作った。


「ほれ」


 横たわっていた奈由歌を軽くチョップすると、アザラシは蘇生した。


「うむ。ごはん、食べられる。オーケーじゃ」


 しばし、三人で黙々と粥を口に運んだ後。


「ごちそうさま」


 味元さんが手を合わせる。焔たちが部屋に訪れた時よりも元気になってきた気がする。


「ア・ジ・モ・ト」


 奈由歌が媚びた声色で、ウィンクをしてみせた。


「奈由歌ちゃん、何、そのキャラ?」

「わたしのことも、タ・ベ・ル?」


 奈由歌は横たわると、甘い吐息をこぼして、胸元のボタンを一つだけ外してみせる。


「わたしね、いま、乳首に絆創膏貼ってるの」

「お、大人をからかっちゃダメだよ」

「剥がしてみたくない? いてみたくない?」

「だ、だめだって」

「お口で。ペリペリって。そんなに顔を近づけたら、どうなるの? んん? なぁに? 絆創膏の下から何が見えるの? 薄いピンクの、何が見えるの? ペロペロしちゃう? お兄ちゃん? 実はね、わたし、ショーツの下にも……」

「はい、そこまで~」


 発動しかけた奈由歌のエロ結界は、奈由歌の手が味元さんの股間に伸びかけた所で、焔によって遮られた。焔は奈由歌を引きずり起こす。


「あう~。おぅ~」


 味元さんは、今度はめすを巡ってボスセイウチに挑んだんだけど(セイウチは、ボスセイウチが複数の雌を従えるハーレム社会である)、敗北したヒエラルキー下位のセイウチのように、ゴロゴロともんどりうって転がった。


「じゃあ、俺たち、この辺りで失礼します」

「うむ。アジモト、けっこう元気になってきたしな~」

「元気になる方向が違かっただろ、ボケ」


 辛辣しんらつな焔だったが、味元さんの方は布団に寝転んだまま、こちらを振り返らずにサムズアップしてみせた。


「奈由歌ちゃん、焔君、色々ありがとうね」


 散らかった玄関でシューズを履きながら、奈由歌はおいとまする挨拶がてら返した。


「アジモト、養生しとけよ」

「お前、あーゆうのどこで覚えるんだよ」

「同人誌じゃ」

「リアルでやっちゃダメだろ」

「手でしてあげるあたりまではセーフじゃないか?」

「アウトだ、アウト!」


 復興部への帰り道、道行く人々から見ると、かなりデコボコに映る焔と奈由歌という男女の会話は。


「だがな、ホムラ。男も女も、性欲がたかぶると元気になる。こんな社会でも、エロは死んでないじゃろ?」

「なに? そこまで考えてんのか?」

「いや、あんまり考えてないな」


 奈由歌は黄色の右瞳と、緑色の左瞳で、冬の空気になってきたS市の街並みを、立体的に見るように目を細めると。


「ネット友達のおじーちゃんが、仔牛が生まれるって言うんで、北海道に行ってきたんだけどな~」


 そういえば、そんなことを言っていた。ザ・北の大地か。焔はまだ訪れたことがなかった。


「生まれてすぐは、いかな牛とて立てなかった。お母さん牛は子供牛から離れないでいる。ちょっとすると仔牛は立とうとする。お母さん牛は、側にいる。キラキラしてる。えっちなことする。新しい生命いのちが生まれる。尊い」

「そこ。牛も人も一緒かよ」


 口にした焔自身、頭を巡らせると混乱してくる。いや、原理的にはもしや一緒、だろうか?


「ま。とりあえず、“復活”依頼、一件落着じゃ」


 寒風が彼女のツインテールをなびかせ、スカートをはためかせる。ドヤ顔する奈由歌の横顔を見て、焔が気づいたのは、この奈由歌という少女は。


 おかしいヤツという印象は変わらないのだけれど。


(なんか、こっちが楽になるな)


 通分ができなくて、ゴミ捨て場で寝てたりしていても、生まれてくる生命と、生まれてきた生命に、まるっと全部肯定する眼差しを向け続けている。空見そらみ奈由歌ナユカは、そんな少女である。


「奈由歌」

「うん?」

「俺、マンガの作画、頑張るよ」


 銀髪の天使は、微笑みを返した。


「エロいシーンとか、特にな~」

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