その九
さて、日は既に沈み、今日もまた夜がやってきた。
「……寒」
今宵は提灯を下げることもなく、辰馬が歩いている。吾作が襲われた場所よりも少し、空屋敷からは距離をおいた裏道だ。
おそらく、次に『血吸妖』が現れるとすればこのあたりだろう。
「……」
視線だけを周囲に巡らせながら、腰の刀に軽く手をやる。
朝、冷たくなった吾作を迎えに来た彼の妻と子どもたちは、それはそれは酷いことになっていた。二度と動かない彼にすがり、大声を上げて泣きわめく。それはそうだろう……昨晩まで、そのようなことになるなんて誰も考えていなかったはずだから。
かわいい子の顔を見るために早く店を出たことが仇となり、二度とその子に会えなくなるなんて。
昼間、辰馬が様子を伺った空屋敷はすっかりぼろぼろになっていた。血を流す木が生きていた頃はその祟りを恐れ、近づく者はなかったらしいがそれが折れた今、こっそりそこを住処にしている何者かがいるらしい。人か、妖かは分からないけれど。
それでいいのだろう。木の怨念は今や、動き回る別の何かに移っているのだから。ただそれが、人の血を吸い尽くす妖であるだけだ。
「お兄さん、夜更けに不用心だねえ」
「っ!」
不意に背後から声をかけられて、悲鳴を上げそうになって辰馬は必死に口を閉じる。それから恐る恐る振り返り、そこにある顔を見て軽く目を見張った。
「……吾作さん?」
「おや、どこかでお会いしましたかな」
「え、いえ……」
慌てて頭を振った辰馬の前に立っていたのは、間違いなく吾作だった。しかし、彼は妖に血を吸われて死んだはずではなかったか。
ただ、少なくとも目の前に吾作の顔をした男が立っているのは事実で、だから辰馬は「知り合いに似ていたものですから。すみません」と取り繕うように頭を軽く下げた。
「まあいい。ここらで会ったのも何かの縁ですし、どうです? 一杯」
「ああ、いいですね」
吾作の顔をした男にそう誘われて、辰馬は頷く。寒い夜は熱燗に限る、とまでは言わないが、断る意味もない。それに。
「おやあ。あなた、妖斬りですか? それとも化け同心?」
すぐ隣にやってきた男が、何に気づいたのかにいと目を細めたから。
「はっ!」
「おやおや」
とっさに辰馬が放った蹴りを、男は音もなく飛んでかわす。ほんの少し後ろに下がったところに、辰馬は態勢を立て直して飛びかかった。
「お前か、『血吸妖』!」
「はい、その通りで」
肩を掴んで押さえ込んだ辰馬の下で、男はねっとりとした笑みを浮かべた。両目が真っ赤に光り、吾作とよく似たものだった顔が歪んでいく。
「血を吸った相手の姿になるのか……」
「らしゅうございますねえ。おかげさまで、食事ごとに身体が変わってなかなか慣れません、よっ!」
「ぐっ!」
一瞬気が緩んだのか、辰馬の腹に男の拳が打ち込まれる。意識が飛びかけた辰馬の身体から力が抜け、男の上に覆いかぶさる形になった。
「ちょうどよろしゅうございますねえ。ここでこのまま、いただくとしましょうか」
男が口を尖らせると、その口がぬうと伸びて葦の茎のように細い管を形作る。あまり長くはないその先端が、辰馬の首筋を軽く叩いた。血の管を探しているらしい。
「……そうやって、吸ったのか……」
「ひゅひゅひゅひゅひゅ」
口が管になったせいか、男は声で答えずに風のような笑いだけを返してくる。
そうしてぷつり、と管の先が皮膚を軽く刺した。
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