その三
さて。
うるさくなる、とお角が言ったことが現実になったのは、翌日の朝であった。
「あんたあ! 結局朝まで飲み明かしてたのかい、頭張り飛ばすだけじゃ足りないようだねえ!」
「うわああああ、勘弁してくれお角ぃ!」
すこーん、と威勢のいい音がする。昨晩お角とお加奈の入った戸から転がるように飛び出してきたのは、亭主の平吉であった。ただでさえ酔って赤い顔面に二の字の赤い跡がついているから、お角の一撃をまともに顔面にくらったものと推測される。
長屋の住人たちが面白そうににやにやと覗き込んでいる中、井戸端で顔を洗っていた辰馬が少し微笑んで声をかけた。
「ああ、平吉さんご無事でしたか。よかったよかった」
「よよよよくねえよ、相川様!」
これ見てくれよ、と自分の顔を指差しながら答える平吉に、辰馬は肩をすくめる。露骨に酒の匂いがプンプンする息を吐きかけられたのだから、まあ当然といえば当然だろう。
それでも辰馬はあまり表情を変えることなく、濡れた顔と手を手ぬぐいで拭きながら危惧していたことを口にした。
「いや、だって最近物騒な妖が出るっていうじゃないですか。お店で飲んでて無事だったんですから、良かったです」
「うっ」
「相川様はお優しいねえ。でも、こっちは日々の暮らしがかかってるんですよ」
「相川様、お父っつあんを甘やかしちゃいけませんよ。またお財布の中身、すっからかんになって帰ってきちゃったんですから!」
下駄で殴ろうと亭主の後を追いかけて出てきたお角、その母親を止めようとしたお加奈が、辰馬に気づいて口を挟んできた。ただ、お角は彼の言っている意味が分かったのか、ばつの悪そうな顔になって手にはめている下駄を持て余している。当の平吉も、困った顔をして地べたに座り込んだ。
朝まで飲み明かし、財布の中を綺麗にしてしまうような亭主だけれども、妖の餌食になって死なれるのは勘弁だ。もちろん、辻斬りだの押し込みだのに出会ってしまっても勘弁だが。
「……あ」
妖の話になって、ふと平吉が目を見張った。何だ、と人々の視線が集中するなかで彼は、恐る恐る口を開く。
「俺は朝まで飲んでたんだけど、吾作のやつが途中で家帰るって出てったんだ」
「吾作さんって、確か大工仲間の」
「ありゃあ。平吉っつぁん、あんた止めなかったのかい」
長屋の住人たちが平吉に声をかけた。
知らない名前ではない。平吉の仕事仲間は時々彼の家を訪れることもあるし、その関係でご近所さんである辰馬も幾人かは知っている。その中でも吾作は子煩悩で、家に帰ると出ていったのも我が子の顔を見るためだろう。
「止める前に出てっちまったんだよ。ちびどもの面倒見ろってかかあがうるせえ、とか言ってたし」
「なら、飲ませずに帰さなきゃだめじゃないか。このご時世、何かあったらそのかかあとちびども、どうすんだい」
「ぐおっ」
ごっ、と今度はいささか鈍い音がして、平吉が頭を抱えた。今度は頭上、よりにもよって髪のない月代部分に下駄の歯が命中したらしい。
うわあ、と見物の男どもが顔をしかめた。もちろん、辰馬もその中に入っている。
「痛えよ、お角!」
「いつものことだろ! 痛い思いしても変わらないんだから、この宿六!」
ふんと鼻息荒く、お角は下駄の歯同士をかんとぶつけ合った。これ以上はおそらく、どのような言い訳をしても下駄で答えを出されるだろう。お加奈がおろおろしながら父母を見比べているのは、あまり喧嘩が長引いても困るからだろうか。
「おうい」
不意に長屋の外、木戸の向こう側から気の抜けたような呼び声がした。辰馬や平吉も含め、全員の視線がぐいっとそちらに向かう。
「どうした。朝っぱらからえらく人が多いじゃねえか」
「大介さん?」
「お、辰馬坊」
そこにいたのは大介だった。木箱を肩に担いでいるから、これから仕事なのだろうか。
だが大介は、辰馬を確認するとちらりと住人たちを伺ってから言葉を続ける。
「お前さんの長屋、大工のおっさんいたよな。自身番まで顔貸してもらえるか?」
「お、俺か?」
「おう、あんたか」
思わず返事をしてしまった平吉に、大介はにっと目を細めた。
この中で大工、といえば今自分で答えた本人、平吉のことになる。しかし、自身番まで出頭しろとはいささか穏やかではない。
つまりはこの近くで何かの事件が起きて、平吉はその参考人か証人として呼ばれているわけだから。
だから思わず、辰馬は声を上げた。
「たしかに、平吉さんはそうですけど……ゆうべっていうか、朝まで飲んでたそうですよ」
「ああいや、下手人探しじゃねえんだ。悪い悪い」
辰馬の言葉で大介もそれに気づいたのか、頭をかきながら慌てて言葉を続けた。そうして、「仏さんの顔を改めてほしいんだってよ」と平吉を呼んだ理由を告げる。
「『血吸妖』の餌食が、近くに転がってた。大工らしいんだが、家が分かんねえんで仕事仲間なら分かるんじゃねえかって」
「……え」
また、妖が出た。
犠牲者が、大工らしい。
昨晩平吉と共に飲んでいた大工仲間のうち、店を出たのは……。
「ご、吾作かっ」
慌てて立ち上がった平吉の顔からは、既に酒の赤みは消えていた。
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