No title
ようなし
第1話 「苦」
第1章
「いってきまーす」
「行ってきます」
妹の元気な声に少し間を置いて、僕はいつものようにゆっくり靴を履きながら玄関を出た。振り向いて、襖の隙間から見えるかぁちゃんの顔もまた、いつものように微笑んでいる。アパートの廊下では妹が、これまたいつものように「おにーちゃーんおそーい」なんて言いながらバタバタと走り回っている。
「ちょっと。朝だから静かにっていつも言ってるだろ」
そんないつもと同じやり取りをして、階段を降りる。いつもと違うことといえば
「あ、お兄ちゃん。あおい、傘持ってない」
「そんなに降ってないから大丈夫だよ。それに葵、前にかっぱ買ってもらったろ」
雨が降っていた。
「かっぱかっぱ。かっぱかってもらった。かってきってくった」
あははー。と笑いながら、どこか聞いたことのあるようなフレーズを、若干アレンジを加えて歌っていた。クルクルとスキップをしながら、少し前を妹は歩く。いつもと変わらない。妹は雨だろうが晴れだろうが気分が変わらないらしい。
大通りにさしかかる。
「葵、手。」
「ん」
手を繋ぐんだ。これも、いつもの事。いつもと違うことといえば
「お兄ちゃん。車が通った後にはね、下からも雨が降るんだよ」
雨が降っていることだけで。
いつものように児童玄関をくぐって、いつものように…
「おおお!来たぜ!ショーガイ!」
「あぁーっ!手ぇ繋いでる!きったねぇ」「菌だ!菌付いてんぞ!」
それを、いつものように知らないふりをする。唇を、血の出るぐらい噛み締めながら。
そんなことを妹は知らない。あの向こうから投げつけられる言葉を。もちろん、僕の気持ちも。
妹の教室は保健室の隣だ。「青空教室」なんて言われている。
葵は、僕達と少し違う世界を見ているみたいだ。だからこの「青空教室」で、守られている。
「お兄ちゃんいつもありがとうね」
妹の担任から儀式的にそう告げられ、僕は自分の教室に行く。扉を開ける前、僕の心臓は一瞬止まる。その瞬間に呼吸も止まる。そして、気が遠くなりそうなくらい痛い。
いつもの事なのに。
ドアを開けて一歩踏み込むと、小学四年生の教室の雰囲気が一変する。
足元いっぱいにあった朝の雰囲気は僕の周りから遠ざかり、人も、空気も、光も、教室の隅っこに固まってしまう。いつもの事だ。
自分の席について椅子を引くと、雑巾が何枚も投げつけられていた。光と一緒に隅っこにある塊の中から、誰ともわからない声が叫ぶ。
「手ぇ、拭けよ」「菌ついてるんだろ」
僕は、目ん玉が後ろを向きそうなのを目頭に力を入れて耐え、少し震える手で雑巾を掴んだ。
…本当は投げ返してやりたいところだ。
僕は静かにベランダへ行き、牛乳とカビた水の匂いが混ざるボロ布を洗った。
朝の会が始まるチャイムが鳴る。
──今日も、いつも通りの1日が始まる
「この後ちょっと体育館こいよ」
その日の放課後、クラスでいつもバカ騒ぎしているグループに呼ばれた。もちろん、「一緒に遊ぼう」なんて言葉は続かない。
──遊ばれろよ、ってか
いつもの事だ。いつものように罵倒され、蹴られ、殴られる。腕や顔などではない。外から見て分かるようなところは狙ってこない。
実に器用に、翌日まで痣が残らない程度に攻めてくる。大人達に見つけられるのが面倒だからだ。
あいつらはぼくの妹が嫌いだ。だが、「青空教室」というはこの中で守られている妹にこいつらは手が出せないでいるのだ。僕はいつもと同じく耐えた。喋り方がみんなと違うと殴られる。妹の事だ。走るのが遅いと唾をはかれる。これも、妹の事だ。そして、
「お前も、どうるいだ」
「びょーきだ、びょーきだ」
「お前の親もびょーきなのか」
もう、限界だった。
ブチッと、なにかが切れる音がした。
手を、血が出るほど強く握り、一番前にいた男子生徒をぶん殴る。
小学生が出せるような力じゃない。だが、一発ではおさまらなかった。
強く握った拳をやみくもに振り回す。
子供たちは悲鳴をあげながら四方八方に逃げていった。はじめに殴られた男子生徒は、仲間に支えられ、鼻血を垂らしながら向こうへ走っていった。姿が見えなくなる前に振り返ったその顔には、先程までの勢いはなく、血と恐怖に染まっていた。
まるで、バケモノを見たかのように。
子供たちが去ったあとも、そこから動くことが出来なかった。怒りと、恐怖で全身が震える。握った拳はなかなか開いてくれず、手をグーにしたまま擦り合わせていた。
───僕は、何をしていたんだろう
働かない頭をなんとか動かし、状況を理解しようとする。
はっと気づくと、口の中に血の味が広がっていた。
…とりあえず、逃げなきゃ。
何度も転びそうになりながら、その場をあとにする。
行き先など考えていない。が、足は勝手にある場所に向かって歩き始めていた。
人目を避け、なるべく裏通りを選んで歩く。着いたのは、あぁ。いつもの公園だ。
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