十八幕
閻魔大王様とゆくりない遭逢をしてすぐのことだった。
星空の床の一部が出し抜けに開かれ、ダンボール箱を持った若者の男が現れたのである。かの金髪の者は、荒木鴇が危うく轢殺するところだった、そして、馬糞をザハク殿の社の賽銭箱にしこたま詰め込んだ犯人であった。
「閻魔さん、チッス! なんか食えそうなもん運んできたんで、査定ヨロです」
と、はやりかに男は言った。
ダンボールの中にはみっちりと、果物と思しいこぶし大の鴇色の球体や、へんちきな形をした植物の根や葉や茎が詰まっていた。
閻魔大王様は箱の前にひざを折り、しげしげとそれらを検閲している。ふむふむと首肯いたり、あるいは首を傾げたりをほとんど交互にやっている。
彼女はダンボールの蓋を閉じた。腕を組んで唸った。
「ふーむ」
「ど、どうっスカ?」
男はおもねるように、引け越しで揉み手をしつつ伺った。
一寸の逡巡を経て、閻魔大王様は指をパチンと鳴らして言った。
「うん、全部ダメダメだ」
「マジすか......」
男はその場に頽れた。彼の顔には、徒労の色がありありと見受けられた。今にも泣きそうである。
「せっかく苦労して取ってきたのに、あんまりっスヨ」
「ごめんごめん。でも、やっぱり鈴カステラくらい美味しいものが食べたいのだよ、少年。わかるかい?」
「わかんねぇッス......」
うなだれる男を尻目に、閻魔大王様は「あとは、あの娘に期待するしかないかしらん」と言った。
「あの娘?」
私が訊くともなく訊いた。
「うん、ナイスな翼を生やした女の娘さ。私は少年とその女の娘と行動を共にしている。この縁もゆかりもない世界からの脱却という、一個の目的を以ってね」
ふと、腹の虫が鳴る。閻魔大王様が面映そうにあははと笑う。
「まあまあ、腹が減っては戦はできぬと云うからね。彼女が拾ってきてくれた鈴カステラ一個だけじゃあさすがに足りなくて、みんなで手分けをして食料を探していたのだよ」
彼女は羞恥を誤魔化すごとく、口疾にそう述べた。男が怪訝な顔で果実を一口かじり、「まっず」とつぶやいた。
そのとき、今度は左角の床の一隅が開いた。そこから白々と顕れる上膊が、夜空を割いて飛び出したる氷河に喩えられ、次いで桃色の頭髪のたゆたいが炳乎に認められ、若干色がくすんだのではなかろうかと、その白の紫陽花の髪留めに対して感じた刹那、私の思考が止まった。鮮烈たる赤い豪奢なドレスと、四枚の漆黒の翼が抑圧から解き放たれる。仰々しい羽搏きの音。黒羽が空中に舞う。かくのごとき一連の挙措を、半ば朦朧とした意識で見ていた気がする。
「あ、アイ姉さん! お先に送っていただいて、マジあざっした!」
男が立ち上がり鳴謝を述べる。野球少年よろしく、深々と頭を下げる。
「やあやあ、おかえり。何か収穫はあったかな?」
閻魔大王様の問いに、女の娘、もといアイネは高踏的な態度を以って答えた。両手を腰に当て、見下した目をするのである。
「ふん! 探しに行ってあげたわよ。ほら、ありがたく受け取りなさい」
巾着包みにしてある胡粉色のハンカチを差し出す。閻魔大王様が両手でそっと受け取り、中を検める。
幾粒の解き櫛の形をした何かが、香ばしい醤油の匂いを放っている。
「何これ?」
「柿の種! ......近くの林道にいっぱい落ちてたのよ。誰が落としたのか知らないけれど、まるで来た道を忘れないようにするための目印みたいだったわ」
「おいおい、それを盗って来るなんて、アイネちゃんも酷いな。もし、その誰かさんが迷子になったらどうするんだい。君はヘンゼルとグレーテルの小鳥かい」
色をなすアイネはすかさず反駁した。
「ちゃんと石を代わりに置いてきたわよ! とびっきり目立つ綺麗な石を同じ数だけね! まったく、私をなんだと思っているのかしら」
彼女の意識が未だ私を認めていないのを見計らって、私はミーネの袖口を摘みながら、黒木の板の方へと後退を始めていた。その途中、図らずともスパナを蹴飛ばしてしまった。喧しい金属音は、いきおい満座の嘱目を一身に集めた。アイネの見開かれた両の眼には驚愕が、たおやかな口許には僥倖が如実に表れつつあった。
「姉さま!」
興奮のあまり、ドレスを脱ぎ出さんとするアイネから私は逃げた。
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私は逃げ損ねた。——いや、逃げる必要がなくなったと言うべきか。
それはなぜか。説明せねばなるまい。
アイネが一弾指にドレスを脱ぎ捨て、恥じてしかるべき華美な下着姿になり、黒翼を羽撃かせて中空を駆けた。それはあまりに素早く、あまりに恐ろしかった。
彼女の淫情の毒牙に喰まれると思われたそのとき、ベチャリと肉の搏つ音がした。「姉ゔぁっ」と痛ましい声がした。
私は処置なしと咄嗟にしゃがみ込み、手で顔を覆っていたので、そっと指の隙間から様子をうかがった。
諸手をまっすぐ前に突き出し、うつ伏せに倒れ伏しているアイネ。その背中に片膝を立てて座るヴォルトラが、いかめしい表情で彼女を卑下しているのであった。
「懲りねえやつだなあ、お前も」
「ヴォルトラ! またあなたなのね!」
アイネは真っ赤になった顔を傾ぎ、ヴォルトラを睨んで言った。
「どうして私の恋路の邪魔をするのよ」
「そりゃするだろ。嫌がってんだから」
「そ、そんなはずはないわ! ちょっと驚いているだけよ! ......ねえ、いつまで乗ってるの、いい加減退きなさい! 重いのよ」
アイネは身悶えした。
しかしヴォルトラは退かない。ゲンコツを自らの息で温めると、それがアイネの桃色の脳天を突いた。
「痛い!」
「うちの家族を困らせるんじゃねえ。次はこんなもんじゃ済まさねえからな、覚えとけ」
剣突を食らわしめされたアイネは怯えに歪んだ顔をしたのち、「くすん」と泣いた。
「ヴォルトラ、どうしてあなたがここに?」
私は尋ねた。
ヴォルトラはしくしくと泣くアイネの背から降りると、カラコロと下駄を鳴らして私に近づき、手を差し伸べた。
「こんなこともあろうかと、忍んでいたんだ」
そして、彼女は「にしし」と笑った。
打算のない純粋な笑顔だった。花の良い香りが漂ってきた。
「ありがとう、ヴォルトラ」
私は彼女の手を取った。
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ヴォルトラによると、ここはかつて人類の隆昌の末に滅びた世界だと云う。ザハク殿がうっかり『覗き穴』をそこに繋いでしまい、本来は認知するべからざる世界への干渉を行ったため、天上界や下界、地獄に様々な不具合が起こったのである。とりもなおさず、荒木鴇とザハク殿の力が入れ替わった由もそれと知れる。けだし閻魔大王様や参差の神々が会しているのも不具合の一環であろう。
ヴォルトラは彼女自身を光量子に変換し、覗き穴の突破に成功したそうだ。そしてあらゆる光源を我が耳目とし、情報の収集や監視に努めていたのだ。(チカも同じように体を水分に換えて、無事に到達したらしかった。ミーネはそれを聞いて安心した様子だった)したがって、彼女が知り得た情報の拠り所はシャルメラという神であった。私は驚愕した。この世界にも神がいたのか! しかも、容姿の変身が自在とは! なんとも羨ましい。
それはさておき、かの神が体験した既往の惨憺たる情況が、やがては下界にも絶対に近い確率で訪れるのは、なんとしてでも阻止せねばなるまい。そのためには、一刻も早くここから脱出をしなければ。だが、仕方がわからない。
「どうやって帰ればいいのかな」
ミーネがつぶやいた。
ヴォルトラは或る科学者の話をした後、こう言った。
「そいつの残した手記がどっかにあるんだってよ。もしかすると、それに帰る方法のヒントが記されているかもしれねえ」
「ふむふむ、なるほど。じゃあ、手分けして探してみようか。どうやらここが、その科学者の研究所みたいだからね」
閻魔大王様はさっそくダンボール箱を片端から開け始めた。
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