十七幕

 トキは暗い長い廊下を歩きながら、影の言葉を反芻していた。

『我々は悠久の時を経て、今ここに存在しております。荒木様の仰ることが事実であれどうあれ、少なくともこの世界が、そのザハク殿という方の創造しめされた世界でないことは、満腔の自信をもって言えるでしょう。荒木様がもし、元の世界に帰りたいと、本気でお思いになるのであれば、北部屋に行かれるとよろしいかと。きっと、何かのお役に立ちます。その際は、大神も是非、連れて行ってくださいまし』


 そう言うと影は竹灯篭の明かりの内からその姿を消したのである。

 トキの一歩前を小狼がよちよち先導している。屋敷の全貌を知悉しているごとく、確とした足取りだった。折々トキの方に首を巡らす。ちゃんと着いて来ているかどうかを確認しているのか、あるおりにトキが「大丈夫、信じてるから」と言えば、小狼は嫌厭とせぬ様子で尻尾を大きく振り、爾後振り向くことはなかった。


 それはそれで何だか寂しいと感じたが、まあ、信頼されているのだろうと思いなせば、勝手に嬉しかった。

 北部屋までは五分とかからなかった。トキは長押に貼られてある、『北部屋』としたためられたプレートを見るともなく見た。

 前脚で襖をかりかりと引っかく小狼がやがて襖を開き、中へ飛び込んで行く。それに気づいたトキは慌てて、隙間から射す光に手を差し入れた。


 ——そこは浜辺だった。

 ふんぷんと潮が香り、波の音が間歇的に聞こえる。

 靴下越しに触れる、砂粒が自身の足の形に変化してゆく感覚に、久しく戸惑うた。


 紺碧に満ちた夏天の遥かにたたなわる、入道雲を裂いて現れる幾機の飛行船があった。いずれも白い機体を雲のごとく、天色の空に悠然と流している。茫々と広がる限りなく透明に近い海のエメラルドグリーンが、陽に照らされてかがやく金波銀波を白浜に寄せている。

 

 波打ち際に立つ老婆らしき人物がいた。藤色の浴衣。銀髪の頭に赤い簪を刺している。いつとなく元の大きさに戻っている黄金の大狼が、彼女と顔を付き合わせている。着物の袂から伸びる皺の多い手が、大狼の顎下を撫でている。眼前の状況から推して、まるで旧知の間柄のように思えた。


 トキがその一種神聖な邂逅の場面に見入っていると、老婆の温顔が彼の方に向いた。無上の微笑みを湛えた目元はさらにやわらかく、髪と同じ色の細い眉を、弓なりに曲げていた。


「あなたが荒木鴇さんね」


 亀の歩みのように、のんびりとした調子で言った。


「まずはお礼を言わせて欲しいの。この子をありがとう。あなたも大変だったでしょう」


 トキは頭を振る。


「いいえ、僕は何も」


 老婆は眼を細める。


「あら。恭倹な方とお見受けするわ。さあ、こっちへいらっしゃい」


 トキは老婆に歩み寄った。彼女は不思議だった。というのは、砂浜の歩き難さと格闘しながら、だんだんと彼女との距離が縮まるに連れて、長い年月の変遷をさかのぼるごとく、年嵩の容姿がトキが彼女の目前に至る頃には若々しい佳人の姿に変わっていたからである。


「お若い方には、この姿の方がよろしいかと思いまして」


 と、彼女は袂で口許を隠して言った。 

 トキは彼女の足元に目を落とした。


「お心遣い、痛み入ります」


「あらあら」


 彼女は愉快そうに笑った。


 そして、大きなビーチパラソルをどこからともなく取り出すと、砂浜に突き立てた。円な影が大狼さえも、すっぽりと覆うほど大きい。


「さて、あなたはいったい、私に何を求めにいらしたのかしら?」


「もう何が何だか」


 トキは言った。


      $


 彼女は混乱気味のトキを顧慮して、ひとつひとつ、ゆっくりと質問に応える腹積もりを開いた。そのために、白いガーデンチェアが二つ用意された。大狼は伏せた格好で、海の方を眺めている。

 トキの持ち得る情報を開示してから、まず、彼女は何者であるかという質問に対し、彼女は下のごとく答えた。


「私は天神のシャルメラ。ここ『常夜の国』の長ですのよ。そして、あの影たちは国民であり、かつ私であり、かつ娘息子たちでもあるの。己の影を千切っては増やし、それぞれに自我を持たせたのだから、彼らを息子や娘や国民と呼んでも差し支えないでしょう? だから、私には影がありません。使い切っちゃった。かといって、決していつも体調が悪いであったり、寿命が縮むであったりなどの、なんらかのリスクがあるわけではないのよ。私にもよくわからないのだけれど。いたって元気よ。こんなものかしら?」


 次に、大狼のことを訊いた。


「この子? とっても可愛いでしょう。名前はリオナ。皆は大神と呼ぶのだけど、全然可愛いと思わないから、私が名前を付けたの。元は近郊の叢林で倒れていたところを私が助けて、どうやらお腹が減っているみたいだったから、とにかくご飯をたくさん食べさせてみたの。そうしたらね、一日でこんな風に立派になっちゃったのよ。驚いたわ。たくさん遊んで、たくさん可愛がって、素敵な毎日が続いたわ。


 ところが、或る日を境に、姿をまったく見かけなくなったから、自然に帰ったのかしらと思っていたの。......え? この子? 喋らないわよ?」


 この世界について訊いた。


「ここはあなたたちの過去であり、未来なの。かつてはあちこちに人や神様がたくさん住んでいてね、立派な建物がいくつもあって、それはもう華やかだったわ。けど、それは長く続かなかった。あらゆる技術が発展して、生活が豊かになる一方、人々は心の在り方を失い、荒み、欲に溺れ、果ては国同士の大規模な戦争が起こったの。結果、人や神様を含むすべての動物が死滅したわ。どうして考えつくのかしらと思えるほどの、生命を最も効率的に死に至らしめるための薬、爆弾、兵器が惜しげも無く使われたのよ。


 奇しくも生き残った私はとても悲しんだ。絶望した。目を背けたくなるくらい、変わり果てた地上の姿が、私をして、空の彼方に昇らしめた。私はそこで何年も、何年も、泣き続けたわ。たくさんの涙は地上に降り注ぎ、汚染された大地も同じ年月をかけて、だんだんと元の姿を取り戻していったの。


 ......あの山脈に聳える建物を見た? あれはね、とある研究者が最後の希望を託して、別の世界に、心優しい神様と、人間と、動物を逃がすための施設だったの。その研究者が残した、日記とも遺書とも判らない一冊のノートには、こう書かれてあったわ」


 <神、人間、動物......を別世界に送る。彼らならきっと、平和で、美しい世界を成し得てくれるだろう。どうか、その安寧が終わらぬことを切に願う>


「——あなたの世界が、彼らが送り込まれた世界である確証はないけれど、今の状況は、かつての戦争が起こる前と酷似しているわ」


 そう言うと、シャルメラはトキの肘掛に置かれた手を握った。さらさらとなめらかな掌が、トキの手の甲を包んだ。


「心配なの」


「シャルメラさん」


 トキはシャルメラの憂いを含んだ顔を見つめた。

 救いたい。しかし、救う術がない。

 目を逸らした。

 

「あちらの神様たちでさえ、現状を解決するに至っておりません。そんな中、僕に何ができるでしょう」


 帰る方法さえ、分からないのに。


「できるわ。あなたなら、必ず」


 シャルメラの掌がトキの右頬に触れる。再び視線が合う。

 彼女は、真剣な眼差しだった。


「鴇さん。今、あなたの裡には神の力が宿されているのをご存知? それも、計り知れないほど強大な力を」


「そんな、どうして」


「ザハクという神様の力と、あなた自身の力が彼女と入れ替わっているのよ。彼女はその力をろくでもないことばかりに使っていたみたいね。でも、あなたなら、正しく使うことができると思う。触れていると分かるの、あなたの心がいかに清らかで逞しく、素晴らしいか、はっきりとね。その力を以ってすれば、元の世界に帰ることだって可能なはずだわ。......会って間もないお婆さんにこんなことを言われても、難しく感じるだろうけど、私を信じて欲しいの。そして、あなた自身のことも」


 シャルメラは再び老婆の姿に戻っていた。皺くちゃの笑顔に、在りし日の祖母の面影が偲ばれ、トキは胸奥に燻る熱い何かを感じながら、彼女の名を呟いた。


「シャルメラさん......」


 言下、後ろから襖の開く音とともに、「そういうことじゃったのか!」と、ザハク殿のやかましい声が飛んできた。


 トキとシャルメラはおっつかっつに首を巡らせた。

 肩で息をする衣服がボロボロのザハク殿。双子の神のユリエルとルリエルも、彼女と同様のいでたちだった。葉や木屑が頭の上や、服のあちこちに張り付いている。ことにザハク殿は衽(おくみ)の四分の一が失われており、あたかもミニスカートのようである。


「ザハク殿! ご無事でしたか」


「無事なわけあるか、この阿呆!」


 ザハク殿は物凄い勢いで走ると、トキ目がけて飛びかかった。

 砂粒が舞い、ガーデンチェアはひっくり返り、ビーチパラソルが左右に激しく振れた。

 仰向けに倒れたトキは、胸元に顔を埋めるザハク殿を見て、


「怪我は......ありませんでしたか?」


 と訊いた。

 ザハク殿は涙と鼻水でしとどになった顔をガバッと上げると、激した。


「見て分からぬのか! 怪我だらけじゃろうが! まったく! ほいほい誘拐されおって! 探す方の身にもなれ! わしは、わしはお前が食われてしまったのではないかと、本当に心配しておったのだぞ!」 


「ごめんなさい、ザハク殿。お手数をかけました」


 ザハク殿は暫時泣き伏せた後、つと顔を上げるや大狼を睨みつけた。そして、指をさして言った。


「わしに謝れ!」


 狼は目を細め、口角をちょっと持ち上げる、例の人を小馬鹿にするような顔をして見せ、「へっ」と笑った。


 その時、雨が降りはじめた。

 空はいつとも知れず灰色の雲が遍満し、太陽の在り処をすっかり隠してしまっていた。水平線の先まで陰鬱な灰色が続く。海の輝きはたちまち失せ、水面を間断なく打つ雨粒が、波紋を生んでは打ち消すをそこかしこで繰り広げている。ビーチパラソルがバチバチと激しい音を立てる。その下で皆は静かに身を寄せ合っている。

 

 雨がいよいよ強さを増してきたと思われたが、しかし卒然として止んだ。

 黒ずんだ砂浜から大小様々の水滴が浮かび上がり、それらが中空の一箇所に急速的に集まりはじめた。

 砂浜は元の白茶色に還った。


「今度はなんじゃ!」


 ザハク殿はおののき喚いた。

 彼女に答えるごとく、クスクスという笑い声が響いて聞こえてきた。


「不気味だわ!」「怖いわ!」


 双子はおのがじし、トキを両側から挟むようにして抱きついた。早速ザハク殿がそれを引き剥がしにかかる。

 若年に粧うたシャルメラがガーデンチェアからすくと立ち上がり、人形を成しつつある水の塊に誰何した。 



「どなたかしら?」


「あ〜、ごめんねえ。驚ろかしすぎちゃったかもお。安心してえ、私だからあ」

 

 人形の水は飄々としてそう言うと、水神のチカの姿に変わった。


「心配だから着いてきちゃった」


 チカは言った。

 追走者の正体は彼女であった。

 

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