十三幕
かの女傑ヴォルトラについて話しませう。ついでに、勝手に湧いた『妹』についても話しませう。
妹のことは後半あたりに述べるとする。
まずはヴォルトラからである。
冒頭に述べたとおり、彼女は光神というあらゆる『光』を司る七天神の一員である。人々の生活に欠くべからざる光のことごとくの管轄は彼女に嘱されている。何故太陽はまぶしいのか、何故街灯はあわあわしく道を照らすのか、何故蛍光灯は食卓を鮮やかに彩るのか、何故星々は人々の心を魅了してやまないのか、何故月に兎が餅をつく紋様が見られるのか、何故焚き火は精神を静やかにさせるのか——すべてはヴォルトラのおかげである。
七天神がいまだ七天神と呼称される以前、私が参入したときには、すでにヴォルトラの姿があった。私が三番目であり、ヴォルトラは二番目らしかった(一番目はアマユリである)。蜂蜜色の長い頭髪を左右の側頭部に分けてむすび、派手に着崩した濡れ羽色の着物と、精悍なかんばせとを不思議な諧和をもって現していた。初対面にもかかわらず、片膝を立てて「よっ」と挨拶をする彼女を「厚顔無恥なお方だ」と思ったのは無理からぬ話だった。
私は性狷介をおのれに偽装した。しかし、ヴォルトラの前ではまるで意味を為さなかった。恨むらくは彼女は私を揶揄う術にことさら長けていたのだ。
たとえば、私が嗜好している紅茶のティーパックの中身に、こっそりセンブリ茶(めちゃくちゃ苦いお茶)を詰めるであったり、冷蔵庫にある八つの卵のすべてをダチョウの卵に置き替えるであったり、成仏の成果が妙にかんばしくないと思う日があれば、ザハク殿の邸宅にて多勢の幽鬼を招いた大宴会をもよおしているであったりと、枚挙にいとまがない。
はじめは取り合わなかった。へたに相手をすると、余計つけあがると思ったからだ。ともすれば、それによって、斟酌ない悪戯の昂進を懸念したのである。
——その徒事のいずれもが彼女の、私に対する一種の厚誼であることに私が心ついたときには、悪戯がちょうど千回を迎えた頃だった。そして、同時に彼我のいちじるしい逕庭の寂滅に至るのである。
ある秋の小夜だった。
肌を撫ぜる涼やかな夜気が心地よい。私は宍道湖の小島にひとりたたずんでいる。
まどかな月の光が、風に小々波をえがく深縹の湖面の中央に、一本の道をほどこしている。光の道は私の居る小島をまたいで岸と岸の間に架かっており、背後にそびえる木々の陰を色濃くしていた。闇に染めた樹枝の葉擦れがおりおりに聴かれた。日中に散見していた幾多の小舟や釣り人の影は失せ、対岸の奥にたたなわる山々のシルエットが、鬼の歯並びにたとえられたのだった。
私は石造りの鳥居をくぐった。わずかに点てる波音が足下をすべっていく。少し乱れた前髪を指で梳かしつつ、光の道の上を草履の底に踏ませると、そのまま三歩ほど進み出た。足を止める。
向こうから、ヴォルトラが悠然と歩いて来る。月光にさらした陶磁器のような両肩は、光沢を宿した白を映射している。不敵に笑んだ顔の柳眉を、目の上にキリリとそびやかしている。ふと、花香を燻した匂いが私の鼻をうった。馥郁たるヴォルトラの香り。それはほんのたまゆらの間に全身を一巡りしたのち、私の裡の狷介が吠え猛るのを知覚した。
(益体のない悪戯をよくも千回も! 堪忍袋の尾がプッツン切れました、もう許しませんからね!)
私は指先で宙を斜め下に斬る動作をした。すると、湖面のあちこちにブクブクと黒い泡が吹き始めた。そこから骨格を銀に被覆された、世の摂理から乖離した骸骨たちの姿態が次々に顕になった。おのがじし手にしたピコピコハンマーを、盲目的に振り回している。叩き合いが始まる。
「はいはい、みんなちょっと、私の言うことを聞いて! ......ほら、そこ追いかけっこしないの」
私は二三拍手をして、三尺二寸ほどの背丈の骸骨たちの放埓な挙動を律せんと仕掛る。毎度のことである。というのも、骸骨たちは元は阿鼻地獄に勤める無産階級者で、閻魔大王様が鬼件費削減のために生み出した傀儡である。しかし、いかんせん骸骨たちの労働生産性は低く、仕事をうっちゃり遊びにはしる阿呆ばかりであった。彼らの作成の過程で閻魔大王様が食べさしのパンナコッタを落っことしてしまったがゆえに、彼らの脳みそはパンナコッタのごとく真っ白になったそうだ。閻魔大王様は泣く泣く眷属を手放した。
それを私が引き取った。使えないという理由で三途の川に流された、ダンボールいっぱいに詰められキイキイ鳴く骸骨たちを看過できなかったのだ。そして、不死の体を持つ彼らを私の守護の任に充てた。如実の通り、随意に呼び出すことが可能である。ちなみに、武器としているピコピコハンマーは彼等たっての希望であり、私が買い与えたのである。
さて。
ようよう湖面に跳躍する骸骨たちの鎮撫がすむと、待ちあぐねた様子のヴォルトラがやおら腰を上げた。
「もういいのかい」
「はい。お待たせしてごめんなさいね」
「ああ、それはいいんだけどよ......」
ヴォルトラは後ろ頭を掻いた。私を上目がちに見る。
「......本気でやるつもりか?」
剣呑な声音で言った。
彼女は私が彼女に果し状を叩きつけた件を問うているのである。
その内容はこうだ。
<私はほとほと貴女の九百九十九に渡る愚行に倦(う)んでしまいました。つきましては、貴女の愚行をなおざりにして置くことはなりませぬ。中秋の名月の晩、宍道湖にて待ちます。——カラクラより>
「もちろんです。この際、判然(はっきり)とさせましょう。敗者は勝者の望みを何であろうと聴許(ちょうきょ)すべし、それがこの果し合いの掟(ルール)です」
「ほう、何でもいいんだな? えらく自信があるんだねえ。いやしくも光の神のトップと知っての申し入れかい」
「無論、承知しております」
そのとき、突発的なぐ風があった。
かんかんたる湖面は激しく波打ち、光の道をおぼつかなくさせた。十把一からげに転がる骸骨たちは、悲鳴を上げつつ私の背後の夜の深いところに隠滅した。
ひとかたまりの影が差した。天を仰ぐと、月を背に羽搏く女性の、 かくしゃくと輝く真紅の眼が私を魅せた。
中級神である。翼を具するのは中級神に限られる。そして、翼の色はその神の正邪を表す。
——善は純白、悪は漆黒。
私の見るそれは、まさしく漆黒であった。
淫魔よろしく八重歯を剥いて艶然として微笑む彼女は、四枚の翼をおおどかにしならせながら、光の道の上に降り立った。
「こんばんは、カラクラさん......いえ、姉様」
科を作る彼女はそう言った。
花束を逆さにするごたる豪奢なドレスだ。桃色の髪に付けた白の紫陽花の髪留めがひときわ目立った。
上級神の決闘に水を差すとは慮外な奴。いったい何の用があるのだろう。しかも、私に「姉様」などと懇意にしている妹らしき者の心当たりはない。
不思議に思った私は尋ねた。
「いかがなさいましたか? その......」
彼女のことを私は露ほども知らなかったため、自然、言葉に詰まった。
「アイネです」と、彼女は食い気味に言った。私は怯んだ。
「アイネさん、ですか。私に何かご用でしょうか」
努めて慇懃に問うた。彼女の頬が紅潮するのを見た。
後に判ることだが、彼女は己の『姉』たるにふさわしき者の模索に心血を注いでおり、とりわけ容貌風采の良い女性を行住座臥に精選している変態である。人や神や悪魔や天使や鬼や妖怪のすべての女性が彼女の対象だった。不本意ながら、私に白羽の矢が立った。厳正なる審査の結果がこれだ。なにゆえ私なのだ。私は憤慨した。
......アイネは均整のとれた体躯に惹かれたと言う。非の打ち所がないぐらい、私のプロポーションの均整は類ないギリシャの彫像の傑作に遜色ないという。出るところは出て、引っ込む所は引っ込んでいるというやつだ。
畢竟するに、体目当てである。実際に裸をけみして決めたそうだ。そこは思い当たる節があった。
温泉に入るを好む私はよく道後温泉に訪う。しらさぎや聖徳太子、万葉集や夏目漱石や映画のモデルなどで名を馳せるここは、実に古めかしい装いなのだが、私はいたくそれが気に入っている。私が行くと決まって白鷺が湯につかっている。奇異なことに、羽の色は黒だった。白鷺のくせに黒だった。しかし、その正体はアイネである。
場面は戻る。
アイネはドレスの裾を揺らしてこちらへ向かって来ている。湯の中で私を見据えるあの白鷺の眼にそっくりだ。思い返せば、なんといやらしい眼だったことか! 彼女の想像の私は、およそ快楽に身を捩る上級神にあるまじき痴態であったに違いない。
私は己を抱くようにして後退を始めた。ジリジリと迫るアイネの口から溢れる「姉様」の繰り言が耳の奥にこうちゃくして怖気がした。
——アイネに負けることはない。
上級神と中級神だ。膂力や霊験の差は歴然である。だが、いわんかたない『怖れ』が私に彼女を怖れさせた。形而上の虚栄の不穏はやがて実体にかわって、その禍々しい掌が私の心胆に逢着するのは間もなくに感ぜられた。一歩、大きく後退した。
すると落ちた。
誰が落ちたか、私ではない、彼女だ。
「姉さっ」と言い終わらぬうちにアイネの声は途絶えた。丸い空虚な穴があった。彼女はそこに落ちたのだと知れた。
後に解ることだが、彼女の落ちたそれは、ヴォルトラが甘言を弄してザハク殿に別誂えさせた罠である。本来は私がかかるはずだった。しかし、彼女が私の代わりを担ったのである。
穴は茶室に繋がっていた。
囲炉裏で串に刺した餅を楽しそうに焼くザハク殿が見えた。アイネは囲炉裏の燠に尻から着地し、餅を蹴散らし七転八倒した。
ザハク殿に剣突を食らわしめされたのは言うまでもない。アイネの悲鳴とザハク殿の怒声とが、立ち込める灰の煙の底より聞かれた。
虎口を脱した私は力なくその場に座り込んだ。動悸がする。口内の渇きがはなはだしい。
手が差し伸べられる。見上げると、ヴォルトラの困った風な顔があった。
「こんなこともあろうかと」
ヴォルトラは言った。
その歪な言葉と歪な笑顔は、私に対する悪戯の失敗の誤魔化しなのだと、容易に察せられたのである。
「お礼は言いませんからね」
私は彼女の手を取った。
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