八幕

 食事を終えてしばし歓談の時間があった。

 私はラウラと食器を片しているかたがた、質問攻めにあう荒木鴇の言葉にそっと耳をかたむけていた。

 どうやら彼は二十八歳独身、運送会社『桃太郎』に勤めて約十年間無遅刻無欠勤の豪の者であることがわかった。いまどき珍しい人もいるものだな、と思った。


 オレンジの香りのする洗剤をスポンジに染み込ませてもみもみしながら、ラウラはヴォルトラとジエンダにはさまれている彼の方を見て言った。


「大人気ね、あの方」


「人と会話する機会があまりないもの。慣れているのは私とラウラくらいね。みんな、いろいろ聞きたいことがあるのよ」


「そうなのね。私もあとでお話したいわ」


「何を聞きたいの?」


「どうしてあんなに泰然としていられるのか、かしらね」


 たしかに。

 ダイニングキッチンは設えてあるわ、ライフラインは整備されているわ、最新の調理器具はあるわ、かかり現代とさして代わり映えのしない神の居宅に、いささかわななく素振りなく、さも当然のごとくに享受している彼は何だ。単に口に出して言わないだけかもしれないが。


 しかし、いやしくも上級神たちの御前である。一視同仁的に彼女等と接する彼は、断じて凡夫のそれではない。

 私はラウラからすすぎ終わった皿を受け取った。


「ええ、並の精神力じゃないわね」


 ステンレス製の水切り籠へ入れた。


「折を見て伺いましょうか」


「うん、でも、あの方は遅かれ早かれ、今夜中には帰ってしまうのではないかしら」


「どうしてそう思うの?」


「そんな気がするの。これは勘なのだけれど」


 ラウラは占術を得意とする神である。ゆえに勘はするどい。

 彼女は定期的に下界におもむいては、『愛の館』という名の占い屋を開いている。金銭の一切を受け取らず、慈善活動としての域を逸脱しない彼女の報酬を強いて言うならば顧客からの愛、もとい信仰心である。そしてこの占いが妙に当たると評判で、近頃はとうとう安逸を貪るに倦んだお祭り野郎たちが、暇つぶしがてら引きも切らずに訪ねて来るので、往々にして彼女は疲労困ぱいであった。かてて加えて、時たまラブホテルと勘違いをしたアベックもやって来る。


 仕方がない。ともすれば、私も間違えるかもしれない。


 屋号を改めてはどうかと勧めるのだが、いかにぞ『愛』という言葉にことさら固執している彼女は、断固として改めるつもりはないそうだ。


『愛があれば生きていける』


 彼女の座右の銘である。辛いときに呟くと、腹の底から元気がもりもり出てくるという。私も何かなしに呟いてみたことがあるけれど、そもそも信念が異なるので、私の腹は「ぐう」と可愛らしい空腹の警笛を鳴らすばかりであった。


 私の信念とは何か。それは、『愛だけでは腹は満たされない』である。


 とこうするうち、皿を洗い終えた。

 さて、我々も面白おかしく談笑と洒落込もうかしら——と思いきや、なんとザハク殿とアマユリが、荒木鴇を茶室の方へと押しやっているではないか。くわえて立ち入り禁止と言う。襖は雲塊の牆壁しょうへきに被われた。


 けしからん。

 私も喋りたい! ふたりだけなんて、ずるいじゃないの!


 よっぽど抗議してやろうかと思った。しかし、それでは幾分面白みに欠けよう。

 しからば、こっそり盗み聞きをするのがいいだろう。

 そうと決まれば善は急げ、私とラウラは食卓で所在無げにしているミーネ、チカ、ヴォルトラ、ジエンダに呼びかけた。


「けしからんので、盗み聞きをします」


 私は決然たる意志で、皆に私のいやしい衷情をこともなげに披瀝した。

 慮外なことに、満場一致で賛成だった。このときほど、私は彼女たちが愛おしいと思ったことはなかった。


 それからは早かった。

 現下私たちのいる『食卓の間』から北に向かって襖を開けると、西へ長く続く横幅が約三畳分の廊下があらわれる。東は三歩もあるけば丁子色の土壁に当たる。この土壁をへだてた向こう側が、玄関と茶室の狭間にある短い廊下である。


 私は土壁に手をそえた。するとまたたく暇に丁子色は、そこはかとなく透明に近い感じになった。チュールレースを通して見るように、暗然とした廊下の様子が透けすけである。


 私の特異な力だった。「こいつを透明にする、もしくは消してやるぞ」という確固たる意思をもって物体に触れると、それは透けたり消えたりする。さらに物体がほぼ完全に消えるないし半透明であれば、元の状態に加減することができる。さらにさらに、半透明化した物体は通り抜けることができるのだから、実に便利だ。霊魂を成仏させる際の力の応用だった。


 我々は順々に土壁をくぐり抜けた。足音を立てないように、そして着物同士が擦れ合う音に気をつけながら進んだ。逃げ道を確保するために、土壁はそのままにしておいた。


 襖の隙間から射す宛然光芒のごときるるとした光線が、夜の底の一端を明るくさせていた。火に誘引される羽虫のように、私たちは襖に寄り集まった。それに耳を耳朶までピッタリとくっつけて、談話の要所をとらえようと一意専心だった。


「......殿は、トキさんを劣悪な就労環境から救うために、下界とは異なる次元の、新しい世界を生んだのです」


 アマユリの声だ。

 荒木鴇に便宜をかはかっている最中だろう。

 ライトノベルに影響されたザハク殿が、アマユリの進言によってトラックの運転手さんの救済を志し、最上神の権能を遺憾なく発揮して世界を創造した——。事のおこりはたしかこんな感じだったと思う。


 荒木鴇はいったい、どんな気持ちでこの一種荒唐無稽な説述を聞いているのだろうか。果たして納得するだろうか。


 ——してくれないだろうなあ。


「今にして思えば、変な話だよね〜」


 チカが小声で言った。


「うん、そうだよね。荒木さん、お仕事中だったのに」


 ミーネは同調して言った。ジエンダは頬に手を当てると、


「でも彼がここに来てくれてよかったわ。目の保養になったし」


 と言った。ヴォルトラは尖った八重歯をことさらに剥き出しにして、それに反駁した。


「そうかあ? 顔はまあ整ってるけど、いかんせん真面目すぎるだろう。もうちょっと砕けた方がいいぞ、あれは」


「あら、わかってないわね。その真直さがいいんじゃない。とっても優しいし、紳士的だし。なかなかお目にかかれないと思うわ」


「今どき流行らねえぞ、硬派な男なんて」


 と、そこにラウラが割って入った。


「ちょっと、話が聞こえないじゃないの! あ、ちなみに私のタイプは——」


「おい、誰もそんなこと聞いてねえぞ」


「静かにしてなきゃダメよ、ラウラちゃん」


 ヴォルトラとジエンダの素気無い応酬に、ラウラは涙目になった。


「ひどい!」 


「シッ! ねえ、聞いて。ザハク殿が変よ」


 私は指を口の前に立てると、目配せで襖の方を示した。


「待て、待つのじゃ! ジエンダかお前は! 行くな、戻って来い!」


 ザハク殿の哀願するような音吐がした。

 ジエンダは眉をひそめた。


「あら、私? なんのことかしらねえ」


「ジエンダは知らぬ間にフラッと、どっかに行っちまうきらいがあるからなあ」


 ヴォルトラは「にしし」と笑った。

 すると、荒木鴇の声が、


「僕よりも救うべき人間はたくさんいます。まずはそちらから取り掛かるべきでしょう」


 と言うのだった。


「あらあ。聞いたかい、みんな。義俠心の化身みてえな男だな」


 ヴォルトラは感嘆と揶揄の入り混じったような調子で言う。

 ミーネとチカは身を寄せ合って、なにやらこそこそと話している。ジエンダは胸の前で小さい拍手をした。


「男伊達ねえ。立派よ、トキさん!」


 一方、私は「ああ、これはザハク殿はフラれるなあ」と、事の帰着を予期しているのだった。

 足音がこっちに近づいてくる。


 あきらめたか、ザハク殿! そしてなぜだアマユリ! なにゆえ口を閉ざして何も言おうとしない! 引き止めないのか? 説得しないのか?

 ——しかし無言だった。


 私はつと顔を上げた。

(まずい! 襖が開いてしまう! そうなれば、私たちが盗み聞きをしていたことが露見してしまう!)

 咄嗟に丸い引手を押さえた。自分でも何を考えているのかわからなかった。

 必死だったのだ。


「ん? 開かないぞ」


 当然、襖は私が懸命に押さえているから開かない。

 申し訳ない、荒木鴇! 後で個人的に存分に心ゆくまでご馳走をするから、どうかここは退いてください! ——と、私はアマユリのお仕置きを恐れるあまり、至極自分本位の考えによりて彼の退路を断つのであった。


 皆口々にあるかなきかの声で私に何かを言う。しかし、何と言っているのか皆目わからぬ。おおかた「逃げろ」だの、「その手を離すな」だの、「私たちは先に逃げる」だのを抜かしているに相違ない。


 私は口の動きだけで、「反対の襖も押さえてちょうだい」と示した。すぐさま対応したのはジエンダだった。他の者はとうに遁逃し去っているらしかった。


 ——この薄情者! 明日の晩のおかずは一品減ると覚悟せよ! 

 私は下唇をぎゅっと噛み締めた。

 やがて果たせるかな、ジエンダの押さえている方の襖がガタガタと動いた。


「あれ? こっちも開かない」


 荒木鴇は憮然とした声音で言った。

 私とジエンダは互いに顔を見合わせた。暗がりに青息吐息の態がありありと見て取れた。


「どうしよう」


「どうしましょう」


 おっつかっつに言った。

 その刹那、居宅を揺るがすほどの轟音が鳴り響くや、ザハク殿の哄笑がその鳴動の中に聞かれたのであった。

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