七幕

 神々の食卓にて。


「本当は、あなたにお詫びをするはずだったのです」


 トキの右側に座るアマユリは忍びなさそうに言った。


「それが結果的に、またしてもトキさんにご迷惑をかける形になってしまって......」


「気に病むことはありません。僕は気にしてませんから。それに空を飛ぶことができるなんて、夢にも思いませんでしたよ。貴重な体験をさせていただきました」


 神は自在に宙を駆けることが可能らしく、トキは彼女の霊験を身に宿すことで飛行が出来たのだ。


「ご高配痛み入ります。ささ。ご飯が冷めてしまう前に、どうぞ召し上がってください」


「そうじゃ、遠慮してはいかんぞ」


 上座を占めているザハク殿は言った。次いで、長方形をした木製の卓上にある醤油差しを指した。


「醤油を取ってくれ、トキ」


「はい、どうぞ」


「こら、ザハク殿。客人を使うなよ」


 ヴォルトラがたしなめるように言った。

 ザハク殿は舌をベーッと出した。


「すいません、うちの家長が」


 トキと食卓を挟んで対面するカラクラは低頭した。

 カラクラの右側にはチカ、ミーネ、ヴォルトラがもぐもぐと白米、焼き魚、出し巻き卵、ほうれん草の胡麻和え、トマトとオクラのサラダ、豚汁、冷奴を美味そうに食べている。


「構いませんよ、このくらい」


 トキは言った。

 ザハク殿は二三うなずく。


「そうじゃ、そうじゃ。むしろ、わしに使われることに感謝せよ」


「ザハク殿、ほっぺにお米がついてますよ」


 アマユリの隣にいるラウラが、自身の頬を指でしめして言った。

 ザハク殿は忸怩とした表情で米粒を指で摘むと、そっと口に運んだ。


「しかし、ジエンダはどこへ行ったのじゃ」


 言下に東側の茶室に面した襖が開いた。


「遅くなってごめんなさいね」


 ジエンダは一揖すると、下座に着いた。一同は安堵の顔色を持してその方を見遣った。


「おかえり〜、ジエンダ〜」


 チカは言った。


「ごめんね、先にいただいちゃって」


 ミーネは言った。

 ジエンダの真向いに位置するザハク殿は、


「おお、帰ったか。どこへ行っておったのじゃ」


 と、あたかも夜遊びから帰ってきた反抗期の娘を咎める親父さながら言った。


「ザハク殿を探しておりました」


「そうか、心配をかけたようで済まなかった。許せ」


 ふとトキは右から身も凍るほどの冷気を感じた。

 アマユリのその凍てる眼差しは、ザハク殿を睨めつけている。


「ごめんなさい、でしょ」


「......ごめんなさい、ジエンダ」


 ザハク殿は残った料理を平らげると、「ごちそうさまでした」と言ってから、トテトテとジエンダの元へ駆け寄った。

 そして、「今日はこれが美味かったのじゃ」などと楽しげに話している。


 先ほど叱られたことも、或る隘路の暗がりに膝を抱えて、プルプルと震えていたことさえ忘れているかのような具合である。


 上空から彼女の姿を発見できたのは奇跡だった。跳梁するお祭り野郎たちの目をかいくぐり、泣きべそをかく彼女に手を差し伸べたときの、あの嬉しそうな顔は終生忘れることはできまい。


 かくて現在、その返礼として、トキは神の食卓に招かれているのだった。

 やがて晩餐が終わり、しばしの食休みのあと、トキはアマユリに連れられ茶室へ向かった。

 襖を開く。


 八畳間の茶室の東には開け放たれた障子があり、縁側の向こうに剪定された潅木や枯山水、鹿おどしや鯉池などがあった。外はすっかり夜のため、幽けき灯籠の光が二三闇にぼんやりと浮かんでいる。


 南には床の間に墨絵の掛け軸、そして一本の床柱を隔てた右側には天袋、『Z』形の違棚の下に地袋がある。

 いわんや西側は食卓へ通じており、北の襖の向こうは玄関へと続く廊下がある。


 天井を見ると、そこは竿縁天井となっており、白い和紙に覆われたペンダントライトが、提灯のようにぶら下がっていた。

 茶室の中央にドンと据えてある年季の入った囲炉裏をザハク殿、アマユリ、トキの三人が囲うている。

 

「どうじゃった? 神の作る飯は」


 とザハク殿は訊ねた。


「とても美味しかったです。これまで食べてきたどの食事よりも」


 とトキは答えた。

 するとザハク殿は呵々と笑った。


「そうか、そうか、ならば良い。カラクラは誰よりも料理が上手いからの。そう思って当然なのじゃ」


「ええ。また改めてお礼に伺う所存です」


「善哉、善哉。ところでトキよ、どこか不便はないか」


「十分です」


「体の調子はどうじゃ」


「問題ありません」


「ならば善しじゃ」


 トキは膝に乗せた拳を握りしめた。


「あの、ザハク......」


「『殿』を付けて呼ぶといい。皆そうしておる」


 ザハク殿は脇息に肘を乗せている方の手、すなわち右手をひらひらと振ってみせた。 

 一拍置いてから、トキは言った。  


「ではザハク殿」


「なんじゃ」


「僕はなにゆえ神の世界へ」


 トキの疑問に対しては、アマユリが件のあらましを簡潔に説明することで半ば解決した。

 曰く、下界におけるトラックの運転手の労働環境がすこぶる悪いことと、ライトノベルを読んだザハク殿の運転手に寄せる憐憫の情とが符合し、結果『運転手さんを救う世界』を創り出したという。


 そしてトキはその世界の住人の第一号である。ちなみに、ザハク殿の彼の内実を暴きたいという、極めて恣意的な志向については彼女自身あえて明言していない。ゆえに、彼は「それは僕である必要はないだろう」と考えた。当然の帰趨だった。


「辞退させていただきます。では」


 トキはすくと立ち上がり、足早に北の襖を目指した。

 無論、ザハク殿は黙っていない。


「待て、待つのじゃ! ジエンダかお前は! 行くな、戻って来い!」


「僕よりも救うべき人間はたくさんいます。まずはそちらから取り掛かるべきでしょう、それに——」


 襖の前に立ち止まり、肩越しにザハク殿を見て言った。


「トラックの運転手はまだ働いています」


「いや、そうだが。そうかもしれんが、わしはお前がいい」


「なぜです」


「それは......」


 ザハク殿はそっと目を伏せた。耳にかかる赤い髪がさらりと流れて、彼女の憂いを落とした瞳を隠した。

 

 トキは数瞬、そのなよやかな花弁の剥落の似つかわしい刹那的ひらめきに、彼我の嚮後をおもんみた。


 よほど答え難いことなのだろうか。あるいは、答えることができないのか。何にせよ、自分だけが楽をすべきではない。こうして休んでいる間にも、『桃太郎』の面々は粉骨砕身に己が使命に尽力しているのだ。

 

 したがって、たとい三顧の礼をもってしてもその願いは聞き届けられない。

 帰ろう。


 もとよりここは神の城。どだい人が長居してよいところではない。神を助けた、神と話ができた、神の作る手料理が食えた。充分、充分ではないか。他に何を望むことがあろうか。


 いや、ない。

 トキは引手に指をかけた。



    

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