The Trilogy
三六拾八
第1話 リセット
人は、三秒間でなにをなし得るか。
家具の角に、足の小指を引っかけずに済む。
雑踏で、ヤクザ者の肩を避けることができる。
重要書類をシュレッダーから救うなど、朝飯前だ。
わたしは、そうやって生きてきた。
自分自身の能力に気付いたのが、正確にいつ頃なのかは定かでない。物心付いたときには、すでにその術を覚えていた。
タイムトリップ、超能力、新人類……学生時代に読みあさった本は、どれも全く役に立たなかった。わたしが知りたいのは、能力そのものの仕組みでも、その超常性でも、ましてや実在の真偽ですらない。
わたしは、三秒前の過去へ戻ることができる。
これは、事実だ。
だが、人は、たったの三秒で、なにをなし得るというのか。
その答えを見付けられぬまま、わたしは三十八年を平凡な男として生きてきた。
日常のささいな失敗をつくろいながら、しかし生来の愚鈍さからか、あまり成功したとはいえない人生を送っている。三秒で、入学試験の失敗は取り消せない。二度起こした自動車事故は、衝突寸前まで居眠りをしていたというていたらく。相手が、ブロック塀と道路標識だったのが、せめてもの救いだ。
探していた眼鏡を踏み潰したときなど、状況を理解する前に、三秒が過ぎてしまっていた。わたしは、よく考えて行動することが苦手なのだ。ショックも受けやすい。十代の頃は、まだ能力をうまく使いこなせず、呆然としている間に機会を逃してばかりいた。
だが、それでいいのかも知れない。世間の人々は、三秒のごまかしすらせずに、それでもなんとかやっているではないか。わたしは三秒を遡ることができるが、それでも落ちこぼれ寸前の学生であったし、平凡なサラリーマンにしかなれなかった。おそらく、こんな能力が無くとも、どのみち同じことだっただろう。
この能力に心底感謝したのは、これまででたったの一度きりだ。
わたしは、二十九歳のときに結婚した。妻は、会社の事務をしていた二歳下の真弓だ。美人ではないが、愛嬌ある笑顔のぽっちゃりとした女性で、前向きな性格をしている。仕事の失敗で落ち込んでいたわたしに、自動販売機のコーヒーをおごってくれた。それから、なんとなく一緒にいて、なんとなく結婚し、ささやかだが平穏な家庭を築いている。
子供も生まれた。真弓に似た丸顔の、世界一かわいい女の子だ。わたしたちは、優しく美しい女性になってほしいと願い、彼女を優美と名付けた。
優美が、三歳のときだ。
夕食前にぼんやりとテレビを見ていると、視界の隅に、テーブルに身を乗り出す優美が映った。いつの間にか、食卓の椅子に一人でよじ上れるようになっていたのだ。
テーブルの上には、妻が鍋を支度していた。卓上電気コンロに火は入れていないものの、台所で半ば調理を済ませた土鍋は、とても熱い。その鍋に、優美が手をかけ、驚いてバランスを崩したところまでが、わたしの目撃した場面だ。
気が付けば、わたしは三秒を遡り、優美が鍋に手を付ける寸前で、彼女を横抱きにしていた。
突然、父の膝に抱えられた優美は、不満そうにぐずってしまったが、わたしはそれどころではなかった。全身に冷や汗をかき、小さな体を震える腕で抱えながら、自分が打ち消したばかりの未来を忘れようと、そればかりを考えていたのだ。
今となっては、あの後、優美になにが起きようとしていたのか知る術もない。
意外と、無事に済んでいたかも知れない。
少しの火傷を負っただろうか。椅子から転げ落ちてしまっただろうか。それとも、考えるのも恐ろしい惨事に……いや、これ以上は止めよう。
ともあれ、わたしは一人の父親として、娘の未来に関与した。後悔などない。
むしろ今では、あの一瞬のために自分の能力があったのだ、とすら考えている。
「あなた、今日は早めに出た方が良さそうよ」
朝食を終えたテーブルを片付けながら、妻が言った。
妻の視線を追うと、点けっぱなしのテレビから、街頭に立つニュースリポーターが神妙な面持ちで伝えている。
『……この後、曽根原首相は、地球国際連盟の会議に出席するため、中島外務大臣らと共に、成田空港からワシントンへと出発します。今回の会議では、対火星政策の見直しと、日本政府発案の和解案を検討することが、主な議題として……』
リポーターの背後は、今世紀中頃に建設された、高速車両用の新国道だ。地上三十メートルに設置された新国道の両脇は、警備車両と警備ロボットで物々しく警戒されている。カメラが引くと、その警備は、国道周辺のビルや一般道にまで及んでいるのが分かった。
「駅前の道も、封鎖されてるみたい」
妻の関心は、国際情勢よりも、もっぱら私生活に重点が置かれている。かくいうわたしも、似たようなものだ。二十年ほど前に一方的な独立宣言をした火星移民と、地球国際連盟が一触即発の状況にあるのは理解していても、すわ戦争、といった危機感までは持てずにいる。
問題は、わたしが高速車両や地下用モービルといった高級な乗り物に手が出ず、通勤にモノレールを使っている、ということだ。駅までは、徒歩で行かねばならない。
「そうだな……どこかに、迂回路情報は出てないか?」
言いながら、わたしはテレビの交通情報を検索しようと、リモコンを探した。
「やだ。ハナマルデパートの前まで封鎖されてる」
リモコンは、妻の手の中にあった。
「優美ちゃん、今日はお母さんが乗せてってあげるから、早く支度してね」
「えー、ちょっと待って」
隣の部屋から、優美がランドセルを引きずるようにして出てきた。
「おかーさん、端末がない」
「またなの? もっと、よく探しなさい」
わたしは、妻が置いていったリモコンで、テレビに呼び出されていた近隣の地図をズームアウトした。
青く点滅するわたしのアパートと、モノレール駅までの間を横切るのが、件の新国道だ。周辺は、侵入禁止を示す赤で塗りたくられている。
事前情報が出なかったのは仕方がない。火星移民の独立宣言を認めるべきと、早い段階から主張し、物資供給などの支援を行ってきた曽根原首相には、とてつもない数の敵がいる。噂では、月に五十通を超える脅迫文が、有り難くもないプレゼント付きで、首相官邸宛に送られているらしい。暗殺などの犯行予告は、先月までに報道されただけでも、百件に上る。
だが一方で、曽根原首相を支持する声も多い。その主な理由が、先ほどのニュースにもあった和解案だ。詳しくは知らないが、その内容は火星暫定政府側もほぼ納得できると発言するほどで、戦争回避への糸口として注目されている。
そうして今朝もまた、平和のために一人のサラリーマンが駅までの遠回りを強いられる、というわけだ。
「じゃあ、先に出るからな」
わたしは、隣の部屋にそう声をかけると、道路情報を携帯端末の地図に反映させた。
妻と娘はベッドの下を覗き込んだまま、いってらっしゃいと応えてくれた。
「すごいな」
思わずつぶやいて、わたしは歩道に立ち尽くした。
駅へと続く道は、予想以上の混雑だった。迂回路を探して右往左往する者がいる一方、地下専用バスや無人タクシー乗り場への長い列に、うんざり顔で並ぶ者もいる。地上車用の一般道路にひしめく渋滞車両は、いつからそうしているのか、青信号の前でエンジンを切っていた。
携帯端末の地図を呼び出すと、内容が更新されていた。現在の迂回路は、ほとんどが地下だ。一番近い入り口でも、四ブロックは離れている。首相を乗せた車が近付いているのだろう。
世界の一大事とはいえ、せめて通勤時間を避けるくらいの配慮はして欲しいものだ、と内心ぼやきながら、わたしは近くて遠い駅ビルを見上げた。
そこで、おや、と思う。駅ビルとデパートを繋ぐ歩行者用通路に、まばらな人影が見えたのだ。地上五十メートルほどに設置されたその歩道は、デパートの営業時間まで通行できないはずなのだが。
わたしは、周囲を見渡して警官を見付けると、空中歩道のことを尋ねた。
「ああ、あれですか」
ロボットの警官は、見事なくらいさり気なく、肩をすくめてみせた。
「この騒ぎでしょう? 三十分くらい前に、開放したそうですよ」
「どうやったら、行けますかね」
「非常階段を十六階まで上がって、そこの警察官に身体検査をしてもらって下さい。大変ですよ? 私なら、地下通路の列に並びますがね」
わたしは礼を言って、デパートの非常階段へ向かった。
目的の階へ着いた頃には、足腰が震え、完全に息が上がっていた。同様に上ってきた人々と無言の笑みを交わしながら、よろよろと身体検査の列に並ぶ。わたしの前は、十人ほどだ。すぐに駅へ行けるだろう。
身体検査は、人間とロボットの警官が二重に行っている。わたしの前にいた若い男性が、股間にまつわるジョークを飛ばしたが、笑ったのはロボットの警官だけだった。
わたしの番になった。使い古しの鞄を警官に手渡し、ゲート・スキャナーをくぐる。なんの問題もない。わたしは股間ですら武器とはいえない、平凡な男なのだ。
屋根の高い空中歩道は空いていて、とても気持ちが良かった。
深呼吸して、ゆっくりと歩き出す。厳重に警備された新国道を見下ろしながら、年をとったものだ、と思う。学生時代なら、ビルの二十階やそこら、気合で上れただろうに。
空中歩道を半ばまで歩いただろうか。突然、なにかに吹き飛ばされた。
頭が真っ白になった。
あまりの衝撃で、条件反射的に三秒を遡ったわたしは、口をあんぐりと開け、その場に立ち尽くした。
直後、前方をなにかが横切り、体ごと後ろ向きに投げ出される。続けて、二回。
どこか遠くから、高速車両の発する警告音が鳴り響き、わたしは我に返った。耳がおかしくなったのか、警告音は鈍く反射して聞こえ、ひどく頭痛がする。
ぼんやりとしたまま、ゆっくりと肘をつく。上半身を上げただけなのに目眩が襲った。眼前の空中歩道は、頑丈な柵が無残にへしゃげ、屋根も半ば崩れ落ちている。破片で傷ついたいのか、顔面に生暖かい液体の流れる感触がした。
ふと警告音の方へ振り向くと、眼下の新国道で、煙を上げる黒塗りの車が数台、スピンしながら急停止するところだった。その後方には、潰れて反転した車両が一台。歩道にしりもちをついたまま、わたしは呆然と新国道の騒ぎを見下ろしていた。
わたしは、なにが起こったのか分からなかった。
分かりたくも、なかった。
戦況は、日々悪化しつつある。
先日は、ユーラシア大陸に二発の大型爆弾が投下された。
地球国際連盟、火星暫定政府ともに、核兵器の使用を踏み止まっているのは、環境問題や人道的な配慮というより、終戦後の非難を恐れてのことだろう。
だが、まだ戦争は始まったばかりだ。今後の展開は、神様にも予測できまい。
曽根原首相を暗殺した犯人は、火星出身の若者で、直後に自殺した。
過激派グループの一員であることまでは判明したが、当の組織は関与を否定している。死人に口無し、といったところか。昔のテロ攻撃では、複数の組織が自分の手柄とばかりに情報合戦をしたそうだが、今回ばかりは犯人との繋がりがあるほうが不味いらしい。
まあ、今となっては、どうでもいい。
使用された武器は、旧式の大型火薬銃だった。ニュースでは、同じ型の武器を模型で解説していたが、わたしは、そんなものが自分に当たったとは到底思えず、すぐにチャンネルを変えた。
握りこぶしほどもある弾頭が、わたしに当たったのだ。
いや、当たったであろう未来をわたしが打ち消し、結果、曽根原首相は亡くなったのだ。
わたしの家族は、地下施設への避難権を得ることができなかった。
相変わらず、賃貸アパートの一室で身を寄せ合いながら、ひたすら戦争が終わるのを待っている。
「おとーさん、日本は小さいから、爆弾落ちてこないよね?」
優美がそう訊いたのは、食糧配給所から戻る道でのことだ。
「そうだね、きっと大丈夫だよ」
言って、小さな頭を撫でたものの、わたしにも確信はない。この状況では、確信の持てるものなど、なにひとつ存在しないのだ。
星間貿易はおろか、地球国際連盟加入国間での貿易も滞りがちで、収入の減ったわたしたち家族は、国の配給に頼っていた。国防軍への徴兵を免れたのは、わたし同様に十歳未満の子供がいる親や年配者ばかりで、休日だというのに、通りはどこも閑散としている。
配給所では、誰もが不安な面持ちで並んでいたが、国民性なのか、それを口にする者はいなかった。ただ、不穏な空気が立ちこめるばかりで、それが幼い優美にも影響しているかと思うと、わたしはいたたまれなくなった。
あの日、わたしが死んでいたら、戦争は回避できたのだろうか。
台所から、妻が声をかけてきた。
「今日は、雑炊でいい? ご飯も少なくなってきてるから」
「ああ、かまわないよ」
わたしは、それ以上気に病むのを止めて、戦況を見ようとテレビのリモコンに手を伸ばした。
なにが、そうさせたのかは分からない。
ただ、リモコンの小さなデジタル時計が目に入ったとき、わたしはふと気付いたのだ。
わたしは、三秒の過去へ戻ることができる。
そのための精神集中は、一秒にも満たないだろう。
デジタル時計は、15:34:21を表示していた。
続けざまに、過去へと戻ってみる。三秒を越えたと同時に、すぐにまた、三秒。軽いめまいを感じたところで、わたしは過去への移動を止めた。
台所から、妻が声をかけてきた。
「今日は、雑炊でいい? ご飯も少なくなってきてるから」
わたしは、慌ててデジタル時計を見下ろした。
15:34:09
背筋を冷たいものが走った。どうして今まで、このことに思い至らなかったのだろう。
「ねえ、あなた。聞いてるの?」
わたしは、台所から顔を出した妻に生返事をして、デジタル時計を凝視した。
どこまでやれるだろう?
やったところで、なにが変わるというのだろう?
のろのろと顔を上げたわたしは、隣でぼんやりとほおづえをつく優美に気付いた。
優美は近頃、めったに笑わなくなっていた。
友達とも遊べず、狭いアパートに日がな閉じこもっているのだ。無理もない。わたしも、最近は会社へ行くのが嫌になっていた。戦時下であれ、社会は動き続けなくてはならない。しかし、もしもわたしがいない間に、妻や娘の身になにかが起こったら。そう考えると、玄関を出る足が鈍るのだ。以前なら、思いもしなかったことだ。
世界中の人々が、そう思っているのだろうか。
世界中の家族が、なぜ戦争など起こったのだろうと考えながら、不安に身を寄せ合って暮らしているのだろうか。
デジタル時計を見る。
三秒は、とても短い。
しかし、それでも、過去は過去だ。
「なあ、優美」
「なに?」
振り向いた優美をじっと眺める。青白い頬に、やせた手足。それでもやはり、世界一かわいい娘だ。
「もしも、お父さんがいなくなったら、どうする?」
優美の反応は素早かった。
「やだ」
小さな顔が、恐怖の色にくもる。
「どこにも行っちゃ、やだ。おとーさんがいなくなったら、優美、泣くからね」
わたしは、これで充分だと思った。
「ありがとう」
優美の小さな頭をそっと撫でる。
そして、過去への移動を開始した。
わたしは、新国道を横切る空中歩道を歩いていた。
疲れきった体に、労るような風が心地いい。全身の骨をきしませながら、それでもわたしは歩き続けた。
猛烈な頭痛と吐き気に襲われていたが、なぜか、歩みを止めてはいけないと思った。歩き通さねばならない。それだけは、はっきりと意識していた。
唐突に、わたしの体が吹き飛ばされた。
しかし、わたしにはもう、抗う気力など残っていなかった。
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