逝く夏のあわいに、きみと誓いのキスを。
瀬海(せうみ)
逝く夏のあわいに、きみと誓いのキスを。
人気のない涼やかな木陰で火照った体を冷ましつつ、きみは愛らしく長い睫毛を伏せながら言った。ほかほかのご飯を太ももの上に乗せて、明太子と共にいただきたい、と。「わかるよ」俺は呟くと、目に入る汗を拭いながら、どこまでも晴れ渡る青空を見上げる。
八月も終わりに差し掛かる、大学生活最後の夏休みだった。俺もきみも、可もなく不可もない一般企業に就職が内定していて、こうして話ができるのもあと何回かと思うと、吹き抜ける風に胸がちくり、と痛む。互いに互いの思いには気付いていたけれど、結局俺たちは「好きだ」の一言を口に出してはいなかった。すべきではないと思っていた。この心地良い友人関係を崩すことを、俺たちは一番恐れていたから。
「それで、結論は出たのかな」
細い体を仰向けに反らして、きみは背後に立っている俺に呼びかける。その拍子に長い髪がばさりと流れ落ちて、白い額が露わになった。「どんな関係がわたしたちに一番合ってるのか」
「出たよ」
短く答える。そう、ずっと恐れていた。恐れていたけれど、それでは何も始まらないことを、俺はきみと一緒に過ごした数年間で痛いほど思い知らされた。だからもう、終わりにしなければならない。この曖昧な関係、友人以上恋人未満のもどかしい距離などは。
これから先、お互いに違う人生を歩み始める。その前に言っておかなければ、確実に後悔するであろう言葉が俺たちにはある。
「俺は今まで、ご飯のおかずには『ごはんですよ』が至高だと思っていたんだ。いや、至高だと自分に言い聞かせて納得しようとしていた」
「うん」
「でも、確かに『ごはんですよ』はご飯には合うけれど、決して至高なわけじゃない。分かっていたけれど、認めるのが怖かった。酢豚の中に入っているパイナップルを認めてしまうようで」
「酢豚にパイナポー、わたしは好きだよ」
きみは臆面もなくそんなことを言ってのける。俺が今まで認めることのできなかった事柄を、いとも容易く肯定してみせる。……そうだ。その蛮勇じみた素直さを、ずっと俺は恐れつつも羨ましがっていたのだ。
思ったことを口に出すというただそれだけのことを。
他人に向けて「わたしはこんな人間です」と宣言することを。
「俺ときみは、まるで酢豚みたいだった。全く別の性質を持ってるのに、同じ皿に盛られてた。お互いの足りない部分を補い合ってた」
「揚げ豚の油分を、パイナポーの酸味で中和するみたいに?」
「そう、白米のほのかな甘みを、『ごはんですよ』の塩気が引き立てるように」
何が可笑しいのか、きみはくすりと小さく笑う。
「じゃあ、あなたが揚げ豚でわたしがパイナポーだったわけだ」
「いや、豚はきみだ」
「ああそう」
「でもそれじゃ駄目だったんだ」
もうこれが最後の機会になるだろうから。
きみと交わす最後の言葉になるかもしれないから。俺も自分自身を「こんな人間です」と高らかに宣言しよう。二度と会うことはないのだとしても、後悔しないために、未来の自分たちのために今の思いをここに置いていこう。
「俺は明太子が好きだ」
不意に時間が止まる。
柔らかな風が頬を撫でていく。
「もうそれだけは偽らない。誰が何と言ったって白米には明太子こそが至高なんだ。『ごはんですよ』だなんて無難な線は今ここで捨てていく。俺は自分の思いに正直に生きるよ」
「そう、それがあなたの結論なんだ」
「あぁ、俺は『こんな人間だ』」
そして俺は、鞄から小さな箱を取り出して彼女に差し出す。
「それ、なぁに?」
「言わなくても分かってるだろ」
アルバイトで給料を貯めに貯めて、ようやく手に入れた俺の決意。それが入っている小さな箱を、俺は彼女の前でおもむろに開いてみせる。
「買ってきたんだ」
中身を目にした彼女は、信じられないといった表情でそれと俺を交互に見て、それから大きな瞳に涙を浮かべた。何も言葉にならないと言いたげに口を開きかけては閉じを繰り返し、きめの細かい肌を今までにないほど紅潮させている。
明太子。
さぁ、言うべき言葉は喉元まで出かかっている。これで今までの関係を終わりにしよう。友人以上恋人未満の、これ以上となくもどかしい関係を。
「――太ももに乗せよう」
瞬間、彼女の涙が溢れ出す。
俺にしても涙目なのだろうが、そんなことはもう気に掛からない。
「一緒に乗せていこう。これからの人生も、ずっと」
「……はい」
彼女は両手で顔を覆いながら、たった一言、それだけを漏らす。俺はそんな彼女の太ももへとおもむろに明太子を乗せ、自分の太ももにも明太子を乗せた。もちろん福岡産の最高級品だ。
そして彼女の手を引き寄せると――俺たちは互いの明太子にキスをした。
心の底でずっと思い願っていたこの瞬間。塩辛いのはきっと、俺たちが泣いているからなのだろう。
やがて唇を話すと、彼女は照れたような表情を浮かべる。
「生臭いね」
「生臭いな」
それもきっと、ここが漁港に面しているからではなくて。良い歳して育んでいたプラトニック・ラブが、生臭くて柔らかい関係に変化したことを象徴する、そんな味だった。
そして彼女は、物欲しげに呟く。
「……もう一口」
「あぁ、これからイクラでも乗せていこう」
二人でずっと一緒に、死ぬその瞬間だって。
俺たちはもう一度口づけをしつつ、その幸せな生臭さに浸る。
――人気のない涼やかな木陰で火照った体を冷ましつつ、きみは愛らしく長い睫毛を伏せながら言った。やっぱり明太子は、大切な人の太ももに乗せるに限るよね、と。「わかるよ」俺は呟くと、目に入る汗を拭いながら、どこまでも晴れ渡る青空を見上げる。
無性に白米が欲しくなった。夏が、逝く。
逝く夏のあわいに、きみと誓いのキスを。 瀬海(せうみ) @Eugene
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