Hey, Siri!
言無人夢
第1話
さっきからキーボードで文字を打っては、書き直してを繰り返している。
連休前に大学で出された作文課題に、そろそろ手を付けるかとワードを開いたのが深夜一時。提出締め切りは明日の正午。
まぁ、あたしの課題処理過程なんて普段からこんなものだし、そこについては別に困っていたりはしない。(本当は困るべきなんだろうけどさ)
「……んー」
思わず唸り声を出してしまう。
だってかれこれ一時間くらい白い画面に向かってるんだもの。よしやるぞって、この椅子に座る時わざわざ淹れた珈琲はとっくの昔に冷めてるし(苦い)、外は寒そうな風が吹いているし家族はすでに寝ている。
とまぁ、ここまでで何行かな。ようやく少し課題が進んだ。
でもこんな適当というか、タメ口な文章でいいのかな。普段のレポートも何々と思われるとかって偉そうに言い切っちゃうけど、それとはまた違うでしょ。
今回の作文テーマが片隅に書かれたA4用紙。前回の授業のレジュメ。
『雑音』
あの、さぁ。
何やねんそれ。って感じじゃない?
少なくとも大学生に書かせるテーマじゃない。もっとこう、統計学における劣モジュラ性最適化の応用について、とかさ。
いや、もちそんな大層なの書けないけど。あたし私文だし。
うん結構進んだ。完璧(?)
コツはあれだね、テーマを無視すること。
言い間違えたね。テーマを再解釈し新たな独自視点で切り開くこと。
……うん、やっぱりまずいか。まずいだろうなぁ。
というかね、やっぱり『雑音』って字面というか。音が良くない。
あたし的には、そう。こう言い直した方がしっくり来るな。
『ノイズ』
良いじゃん、良いじゃん。何か一気にやる気が出てきた。
(というわけで、これ以降はノイズで統一するから、許容力に乏しい読み手各位は適宜脳内変換を行うように)。
さて、そろそろ真面目にやってやろうかしら。という気分になりつつも、やっぱり珈琲淹れ直してくる。
明日はバイトも授業もないし、多少の睡眠不足も大丈夫なんよね(たぶん)。
ノイズって言葉は少なからず潜在的な前提を必要としている。
というかつまり、ノイズって言うからにはそこにはノイズ以外の純正な信号があって、これに送信側の意図しない乱数が乗る。
これをノイズって呼ぶの。
送信側がいるからには受信側もいるわけで、なればひとまずこの信号のやり取りを通信と呼んでも良いはずだよね。
通信にノイズが乗ると何が困るかって。送信側の意図した信号内容と、受信側の解釈した信号内容に齟齬が生じることが超困る。
ぶぶ漬けいかがどすかって訊いてるだけなのに、早く帰れって聞こえていたなら難聴よりも頭のパーセンテージ(パー具合)を疑うレベル。
電気通信の分野には誤り訂正符号理論っていう賢い符号化理論がある。
ようは信号ってのは「1」と「0」でできてるけど、これを「ぬ」と「め」で表現して送るのは、いかにも簡単に読み間違い(ノイズ)が起こりそう。
だからまず読み間違えない「ぬ」と「薔」で表現して送るという取り決めをしましょう。たまにノイズのせいで「め」が送られてきても、それは「ぬ」だろうって予想がつくし、「薇」が送られてきても「薔」だろうってわかる。
みたいな話な、ん、だ、け、ど、(今の説明でわかった人いる?)。
つまりね、ノイズが乗るのは仕方ない。だからノイズが乗ったとしても受信側がきちんと処理すれば元の信号が復元できるようにしとこうってとこがポイント。
ノイズを前提とした頑強な離散的通信理論。
それって何ていうか、人同士の信頼関係みたいであたしは好き。
……うーん。ちょっと信号なんて搦め手から攻めてしまった気がする。きちんと正道で話を広げるなら。
やっぱり音楽。に着目すべきじゃんって、今更ながらの深夜テンションにあたしは思う。
例えばMP3音質の話。128ビットレートがまぁあぁ、256あれば十分みたいな。
でもじゃあ音楽におけるノイズってそもそも何だろう。
ここでも通信の話を持ち出すことはできて、つまり演奏者が意図せずに聞き手に聴かせてしまう音。
で、あってるのかなぁ?
なんて、あたしは淹れたての珈琲をすすりつつ首を傾げてしまう。
だって例えばほら、ロックなんかだとギターにエフェクト掛けてわざとノイズ乗せるし、そもそもノイズミュージックなんてジャンルもあるらしいじゃん。
波形まで見てみれば、バイオリンの音だって全然綺麗じゃなくてギザギザしてるし、じゃあ逆に綺麗なサイン曲線を描く音って何かというと、味気ないビープ音とかだったりする。シンセサイザーの出せるパッド系の音ね。
あたしたちが綺麗だって感じる音のほとんどは、いくつものサイン波の重なりでできている。いくつもの人が同時に喋りかけてきたら、そりゃ雑音にしか聞こえないだろうけど、でも空港の喧騒とかって何だか聞き取れないからこそ心地良くて眠くなるよね(たぶんこれは関係ない話)。
まぁそういうスペクトル解析何かを置いといても。割りかしノイズのない音楽を聞くのって難しい。
まずあたし達の生活空間には色んな音がそこはかとなく紛れ込んでいる。
空調の音。表を走る輸送トラックの音。PCの冷却ファン。蛍光灯の唸り。
あたし自身の心音。
そういえば、今ここで書いてるこの文章にも、本来はノイズがあるはずなんだ。
思ったことをそのまま書いている、ように見えるかもしれないけれど実際のところはもっと色んなことを同時に考えていて。
(寒いし毛布被ろうかなとか)そういう思考の(珈琲の苦味が口元に残ってるなとか)ん?(純文学の写実主義)モノローグって(反映されず)無意識にでも。「……」
ノイズを取り払っている。
そりゃ、ノイズ混じりの文章なんて読みにくいだろうし(でしょ?)簡潔に書くのは書く側の義務みたいなところあると思う。
でもやっぱりそういう書き方をすればするほど、ありのままの描写というものからは遠ざかっている感触があるな。
真実の描写なんて大層なものではなくてね、つまり。
ある種の物事を書く時に必要なのは、書けるべきものの当たり前の描写じゃなくて書けるべきでないものそのままの描写だったりするんだ。
あたしの人生を変えたのは、あの日あの時偶然会えた人じゃなくて、あの瞬間に必然的に会えなかった誰かなんだって。
ノイズのない読みやす過ぎる文章が潜在的に書けないものって、たぶんその辺り。
うん。良いとこまで書いたんじゃないかな。
じゃまぁ、そろそろ本題に入ろうか。
いい加減眠くなってきたし。手っ取り早く結論から言わせて。
「物語とはコミュニケーションが相互理解の齟齬(ノイズ)を超越する、唯一の手段である」
あたしが言いたいのはつまりそういうこと。
あたし達のコミュニケーションは常に誤読の危機に晒されている。
語義ひとつとってもそこには曖昧性があり、その語義を構文的曖昧性のある網でつかもうとした現実は、結局のところあたしという一人の観測者が紡ぐ虚構的な報道でしかない。
量子力学的なことを言えば、人が何かを観測した時、観測したという事実が対象の可能性の揺らぎをひとつの結果に変えてしまう。
不確定性の針の上であくびする半分だけ死んでいた猫は、箱の中から永遠に失われてしまう。
あたしの今手元にある、このどうしようもない寂しさや苦しさを。あなたにそっくりそのまま伝えられる可能性は地球がひっくり返ってもありえない。
今日は昨日に比べてため息の数が多かっただとか、油断すると泣きそうになってしまうだとか。生理が来ないだとか。そんな事実の羅列で伝えられることもきっとほとんど何もない。
ただし、輪郭を伝える手段はある。
例えばそれは、大切にしていた花瓶を割ってしまった時、さほど悲しくない自分に気付いてしまう寂しさ。
例えばそれは、古いセーターに包んで埋めた子猫の痛みを、想像することさえできなくなっていた苦しさ。
物語は外圧に耐えられる殻として、孤独の外側に送り出される心を包む。
本質的にはノイズであるはずの物語は、ある時には現実そのもの以上に現実を物語る。
だから克服じゃなくて、超越。
ノイズを可能な限り減らすんじゃなくて。あえて誰にでもノイズ(虚構)とわかる言葉を、しっかりとした覚悟で吐き出して見せる。
虚構越しに本当に伝えたい何かを、白紙の片隅に刻み続ける。
それは例えば、実在しない不健康気味な女子大生の作文課題って体で書いてみたりだとかさ。
離散的に純化した、伝わらないことを前提として逆手に取った創造の共有。
大丈夫。希望はあるよ。
人は日常生活の中でも多かれ少なかれ、物語を紡いでいる。
つまりほら、誰でもちょっとくらい話盛っちゃうでしょって。
例え話で世界を捉え直す時。正しいものを見定めるために対極にあるものごとを引き合いにする時。
孤独であることを、それが他の誰でもなくあたしの孤独であることをわかって欲しい時。
物語はあなたの武器として、必ずいつも手元にあると思うよ。
だからとりあえず何か語ってみなって。
文体が汚かろうが構成が下手だろうが、そこにある書きたいっていう何ともしがたい衝動だけは伝わるからさ。
言ったじゃん? ノイズは結構心地良いんだって。
……まぁ、そんなこんなで。
お久しぶりです、あなたの紡ぐ物語世界にもあらんかぎりの祝福を。
Hey, Siri! 言無人夢 @nidosina
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