パリッとしている
進藤翼
第1話 雨に唄えない I can't singin' in the rain
仕事で思い切り失敗して、思い切り上司に怒鳴られた。帰りの電車では顔を上げることができず、涙がこぼれそうになった。こんなところで泣くような女にはなりたくない。周りには多くの乗客がいる。座れていたら少しはマシだったかもしれなかったけれど、あいにくすべて埋まっていて、私はつり革につかまっていた。せめてなんとか降りるまでは耐えたかった。でも正直な感情はずんずん上昇してきていて、それはちょうどジェットコースターの上り坂をゆっくりと上っているような状態だった。下り始めたらもうおしまいだ。私は涙が出てこないように目元に力を込めた。前に座っているサラリーマンが寝ていてよかった。きっと私は今とんでもない顔をしているに違いない。
つり革を握る手にぐっと力をこめて、歯を食いしばっていた。できるだけ余計なことを考えないように、電車の揺れだけを感じるように努めた。
都内の中央線。いつだって混んでいるけど、特に帰宅時は多くのスーツ姿で車両が埋まる。息遣いさえ聞こえてきそうな他人との距離。身じろぎさえ簡単にできないくらいだ。両隣のスーツを着た男性とひじや腕が触れるのもいやだったし、後ろに立っている誰かの気配も気持ち悪かった。
肩甲骨ほどまでの髪は、うつむいていると垂れて顔を隠すカーテンの役割を果たす。手入れが面倒くさくて何度も短くしようと思っているけれど、そのままにしているのにはこういう理由があった。じろじろ観察されずに済むし、この顔を見られる心配もない。
荻窪ー、荻窪ーと、電車のアナウンスとともにぷしゅうと扉の開く音。何人かが降りて少しはパーソナルスペースが保てるかと思いきや、すぐ同じほどの、あるいはそれ以上の客が新たに乗り込んでくる。すし詰めは続行だ。わかりきっていてもいやになる。そう思うとまたジェットコースターが坂を上り始めるから、私は深呼吸をして再び顔面にぎゅっと力を込める。
私はひたすらに祈った。早く駅に着きますように。
悲しいときは一人になりたい。誰かに慰めてもらわなくていいから、気が済むまで一人ぽっちになって、狭い部屋の中でめそめそしていたい。だから一刻も早くこのアリの巣の中のような場所から抜け出したかった。
いつの間にか隣に立つ人が学生風の男性になっていた。赤い派手なスニーカーと細めのジーンズが視界に入る。頭上からはイヤホンから漏れた音が降ってくる。しゃかしゃかしゃかしゃか。かすかにメロディーも聞こえた。知らない曲だったけどそれがロックということはわかった。激しいドラムと甲高く鳴るギターの空気をつんざくような音。どんなことを歌っているのかわからないけど、こんな世界ぶっ壊してやるゼ、みたいな歌詞であってほしかった。
履いているパンプスの右足の先端のほうに、大きな傷があるのを見つけた。カッターで切ってしまったかのような縦に長い傷だった。いつの間に傷つけたのかまるで心当たりがなかった。途端に、そのことに今まで気づいていなかった情けなさや恥ずかしさが一気にこみあげてきて、あ、やばいと思った時にはすでにジェットコースターは下り始めていた。今まで我慢していたぶんその勢いは巨大で、私はせめて声だけはあげないように抑え込んだ。ありがたいことにちょうど駅に到着したところで、私はドアが開いた瞬間飛び出した。入り口付近にいた人たちをむりやり押しのけるようにしたからいやな気分にさせただろうけど、気を回す余裕がなかった。オレンジ色の丸っこい、冷えたベンチに腰掛けて落ち着け落ち着けと繰り返す。深呼吸をして、昂った気持ちを鎮めようとする。だいぶ危なげだったけど、私はなんとかこらえることができた。
私のほかに降りた大勢の人々は改札を目指し去っていく。電車もすぐさま走り出した。でもまだ私を一人にしてはくれない。反対側のホームにはやっぱり多くの人々が立っていたし、ここにだってあと数分したらすぐに新しい電車が到着する。
東京は孤独の街のくせに、人がやたらめったら多すぎる。
五本ほど電車の行くのを見送ったあと、私はようやく立ち上がった。ひどい顔をしているに違いない。鏡で確かめる気さえ起きなかった。
なんて醜いんだろう。
故郷にいる頃の私は今の私を想像していなかった。私にとって、いやほかの誰にとっても東京とは煌びやかな存在だった。でも実際はそんなことはなかった。毎日毎日私は消しゴムのようにその身をすり減らしている。こんなはずじゃなかった。きれいでおしゃれで、そんな存在であったはずだ、過去の私が想像した未来の私は。
やはりうつむきがちに、顔を隠すようにしながらエスカレーターに乗る。知らない人たちとはいえこんな状態の自分を見られたくなかった。見られて、なにかあったのだろうとか、そんなふうに思われるのなんてまっぴらごめんだった。
上にのぼると目の前に改札がある。しかし改札の向こう側はやけに混雑しているように見えた。近くに行くとわかった。ああ、雨が降り始めていた。悪いことは重なる。そして私はまた悲しくなる。どうして雨ごときでこんな気分になってしまうんだろう。イラつきこそすれ、悲しくなる必要なんてないのに。
鞄を傘代わりに足早に走る人、タクシーに乗る人、折り畳み傘を取り出す人、電話で連絡を取る人、突然のことに立ち尽くす人、色んな人がいた。駅に併設されているコンビニの傘はすでに売り切れてしまっている。
そうやって立ち往生している人々を尻目に、私は足を止めることなくそのまま歩いた。屋根のなくなった瞬間、大粒の雨が私に降り注ぐ。冷たい雨だった。
雨はすぐに私の全身を濡らしていった。数分もすると髪の毛からも滴るようになった。パンプスのこつこつという音を鳴らしながら私は自宅を目指す。ジーン・ケリーのように笑顔で雨を受けるなんてことは今の私には到底無理だった。雨はひたすら私の悲しみを増す。一滴一滴地面にその身をぶつけるたびに。歩道のすぐわきを走った自動車の跳ね上げた水しぶきが足元にかかった。それがまた私を一層悲しくさせる。
だけど私は急がずに歩いた。東京は人が多すぎるだけではない。誰もかれもみな、早送りをしているかのように早足だ。自分のペースで歩いているといつも後ろから何人もの人々が私を追い抜いていく。そのとき聞こえよがしに舌打ちをしてくる人さえいる。
駅に向かう何人かとすれ違う。彼らはみんな傘を差していた。興味深そうに、あるいは気持ち悪そうにそうに、もしくは心配そうに一瞬私を見てすぐに視線を戻す。一人の女性は唇の端をつりあげて去っていった。そういうのは気配でわかる。三十手前の、独り身の、どうしようもない私に、その女性の取った態度は、とても自然のことのように思えた。
駅前の繁華街を抜けると、あとはだだっ広い道路が広がる閑散とした雰囲気になる。ぽつぽつとコンビニや飲食店の明かりはあるけれど、賑やかさはあまりない。誰かにこの風景だけを見せたら、とても東京とは思わないだろう。以前どこかで見たような気がするどこかにありそうな景色だ。でも東京だ。テレビで取り上げられないところなんてそんなもの。あとはただ主張も個性もないようなのっぺりとしたマンションが並ぶだけ。そしてそこに住むのは憧れや夢に破れ挫折した者たちだ。私だ。
交差点で信号の変わるのを待つ。片側二車線道路、車は速度を落とさずに走っていく。そのたびにしぶきがあがった。夜の雨に浮かぶ信号の光は不気味さと神聖さがある。見るたびに不思議な感覚になる。色が変わって、私は横断歩道を進む。青い光がアスファルトに落ち、それが雨でにじんでいた。踏んづけて渡りきる。
やがて左手側に見えてくる四階建てのマンションの三階が自宅だった。各玄関の上部には橙色の照明がついている。等間隔に、ふ、ふ、ふ、ふ、と光っている。でも私のところだけチカチカと点滅を繰り返していた。消えかかっている。みすぼらしい。
エントランスでロックを解除し中に入ると、そのまま奥のエレベーターのボタンを押す。指先が真っ白になっていた。足元のタイルにはいくつもの水滴があった。私のほかにも濡れて帰った人がいるのかもしれない。でも傘の滴を振り払っただけかもしれない。エレベーターはチンと呑気な音を立てて、その口を開いた。
エレベーターには大きな鏡がある。私はまじまじと自分を観察する。寒さで小刻みに震える身体。衣服のあちこちから水が滴る。水分をこれ以上なく与えられた髪の毛は海藻のようだ。唇は紫色で、顔面は真っ青だった。このままB級ホラー映画に出られそう。記憶している自分の醜態の中でも今までにないほどのひどさだった。
エレベーターは再びまぬけな音を鳴らし、私を吐き出した。廊下を歩いてカバンから鍵を取り出す。震えているせいで、うまく鍵穴に差し込めない。差込口に鍵の先端をぶつける。かつかつかつかつ。何度もぶつけてようやく自宅に入ることができた。
ドアを閉めた途端、私はその場にうずくまった。膝に顔を埋めてそこから動けなかった。
私はなにをしているのか。なにをしたいのか。どうしてこうなっているのか。
私はすぐさま泣いた。今度はジェットコースターを止める気はなかった。ようやく一人になれたのだから、どれだけ泣いたって、誰にも迷惑をかけない。今まで抑えていたぶん涙は次々出てくる。ぽろぽろとこぼれるかわいらしいものじゃなくて、それらが連なって溢れて、洪水のように。悔しさと情けなさと恥ずかしさが止まらない。
それでもいいと自分を認めたいのに、それができない。
世の中の人はどう自分と付き合っているのだろう。満足しているのか、こんなもんと割り切っているのか、しかたないと諦めているのか。どれも自分にはひどく困難なことに思える。
無力さに泣くということを知ったのは、上京してからだった。自分の能力の低さを突きつけられ、この程度の存在だと知る。自分は特別ではなく特別だと思いたい、思い込んでいたいだけの平凡な一般人なのだと。すぐに引っ越すはずの予定だったワンルームにはもう五年住んでいる。ありふれた部屋。都心から離れた家賃の少しだけ安い、東京にあるマンション。
でもまだ踏ん切りがつかない。期待してしまう自分を殺すことができない。どこかに私を認めてくれる場所があるはずで、今はまだそれが見つかっていないだけだ。そう思っていないと全てを見失ってしまいそうだった。
ぴん! ぽーん!
場違いな音に、私は頭が真っ白になった。今のは、チャイム、だろうか。エレベーターのチンという音といい勝負だ。なんて軽い音だろう。
「すいませーん、お届け物ですー」
私が反応できずにいると、ノックとともに声が聞こえた。届け物。私は背中のドアに体重を預け、足に力を込めてずりずりと沿うように立ち上がる。くるっと反転してのぞき穴を見れば、制服を着た配達員が立っていた。私はドアを開けた。
「どうもお届け、物、で、あの、大丈夫ですか」
配達員はお決まりの挨拶から一転驚いたように声を潜め心配するように探るように言った。
「あ、大丈夫です。傘を忘れてしまって、ちょうど今帰ったところだったんです」
私は自分の身なりをすっかり忘れていた。うまく回った口は寒さで滑らかには動かなかったけれど聞き取れる範疇ではあっただろう。
「風邪引く前にシャワー浴びたほうがいいですよ。はいこれ。サインだけもらえますか」
配達物を渡してきた配達員は、私と同年代のように見えた。私は震える指でガタガタの名前を書いた。
「ほんと大事にしてくださいね、身体。では」
軽く一礼して去ろうとした配達員は、けれど、あ、と声をあげた。
「この送り主の住所なんですけどね、オレ、地元がこの近くなんですよ」
私は配達物の住所を見た。実家だった。母からのものだろう。母は上から押しつぶされたような字を書く。私はそれを見るたび窮屈そうだと思う。
「ああ、実家です。なにもないところですよね」
「マジですか! オレ東京出て初めて同郷の人と会いましたよ。しかも地元まで近いなんて! いや毎日あちこちに配達してますけどね、不思議なことに一度も同郷の人からの荷物を運ぶ機会も届ける機会もなかったんですよ。うわあ嬉しいなあ!」
配達員は心の底から喜んでいた。
「オレ、お客さんと会えてよかったです。同郷同士東京に負けずに頑張りましょうね! またなんかあったらお願いします! 早くシャワー浴びてくださいね! じゃ!」
そう言って朗らかに笑うと、今度こそ配達員は去った。
同郷。
ようやく身体が動くようになった私は着ていた服を脱いで洗濯籠に投げ込むと、すぐさま浴室に入った。ユニットバスだ。最初は抵抗があったけれど今ではすっかり慣れてしまったユニットバス。
きゅっとノズルをひねり、お湯が出るのを待つ。シャワーから勢いよく流れる水はなににも触れることなく、ゆるやかに円を描きながら排水溝に飲み込まれていく。それを無表情に眺めていた。お湯に変わったところで栓をして頭から浴びた。凍りついていた身体に血液がめぐる。じんわりとした痺れが指先に届いた。自分自身の感覚が戻ってきて、私は手を握ったり開いたりする。そうやって浴槽にお湯が溜まるのを待っていた。
シャワーを止めて湯船に浸かった。浴槽は小さくて足を満足に伸ばすことはできない。湯気が充満する。換気扇のスイッチを入れているけど効果は薄い。そのくせ音だけは立派に鳴っている。ぐうおおお。ぐうおおお。
しっかり身体をあたためたところで、立ち上がって髪の毛と身体を洗った。泡を流したところで栓を抜く。見る見る水位が下がっていく泡にまみれた浴槽。私は最後まで見届けることなく浴室を出た。
同郷。
玄関先に置きっぱなしにしていた届け物を持ち上げる。小ぶりな段ボールだった。広いところに移動させて、ガムテープを剥がした。中から出てきたのは多くの缶詰だった。主に魚介類のもの。少々呆れながらそれらを取り出すと、底になにか黒い布のようなものが敷いてあることに気づいた。海苔だった。A4用紙のほどの大きさの海苔。それはフィルムに収められていて、「特選・磯のかおり」と筆で書いたような文字が表面に印字されていた。私はため息をつく。海苔は、私のきらいな食べ物だ。
同郷。
配達員の彼は同郷の人間に会えて嬉しそうだった。私はそうでもなかった。地元はすきじゃなかった。
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