第5章

空の妖精と《天の石》1

 夜明け前に目が覚めたので支度をし、道を思い出しながら港に向かった。空の上を漂っている島だからかこの時間でもほのかに明るく、洋燈を手にしなくても足元が見えないことはなかった。

 セレスレーナがオーディオンに近付くと、今日出発することを聞いていたからか港に詰めている係員が「どうぞ」と階段を出してくれた。お礼を言って船に入り、なんとなくに甲板に行ってみる。

 飛び立つ準備をしているためか、船の乗っている床が外に張り出しており、まるで宙を浮いているように感じられた。先端に行けば空を飛んでいるように思えるに違いない、そう考えていると床が軋む音がした。ディフリートだった。

「なんだ、早いな」

「……あなたこそ」

「空船に乗ってるとこれが普通なんだ」

 並んで空を見る。筆で描いたような雲が悠然と、それぞれの速度で流れていく。雲の縁が赤く染まり、夜明けが近いことを知らせる。

 どきまぎした頬の熱を拭うようにして一度目を閉じる。

「私、いっぱいいっぱいだった」

 そして留まらない雲を眺めながらセレスレーナは言った。

「子どもの頃からずっと、あれをしなきゃ、これをやらなきゃって思って生きていた。期待に応えなきゃ、成果を出さなくちゃ、認めてもらわなくちゃとそればかり考えて、自分のしたいことよりも『みんなが私のために考えてくれていること』を精一杯やらなければと思ってきた」

 この書物はきっと将来役に立つから読みなさい。王女ならこれができて当たり前だから身につけなさい。苦手を克服しなさい、でなければ大人になったときに困るから。周りの大人はそんな風にセレスレーナの将来を案じてくれていたけれど。

「みんなが言うそれはどれもすごく正しい。私のことを思ってくれているんだとよく分かったから逆らわずにきた。そのおかげでそれなりに色々なことができるようになったことはすごく感謝している。でもそのせいで、私が本当に何がやりたいのか考えることも、それを実行する力も失くしてしまった」

 人を信じて、誰かの好意に身を委ねることは一概に悪とは言えないけれど、逆らう気持ちを摘んでしまうのは本当だった。人の善意や好意によるものは無碍にすると考えただけで罪悪感を覚えさせたり、面と向かって断ろうものならなんてひどい人間だろうと言われたりする。

 多分それが怖かったのだろう。誰だって善い人間でいたい。みんなに優しい人だと言われたいものだ。王女である自分はきっとその気持ちが人一倍強かった。

「あなたに言われて考えてみた。私が何になりたいか。何をしたいか」

 向き合った彼に微笑みかける。

「あなたみたいになりたい」

「……俺?」

 ディフリートは目を瞬かせる。

「そう。強くて、しなやかで、颯爽としていて勇気があって、誰かを助けてあげられる……そんな人間になりたいと思った。抽象的かもしれないけれど」

「光栄だがなんだか恥ずかしいな。俺はまだ『なりたいもの』になれてないんだから」

 困ったように頭を掻いて、視線から逃げるように雲の流れを見ている。

「あなたのなりたいものって何?」

 以前答えてもらえなかったそれをそっと尋ねると、彼は横顔で笑った。

「空みたいな人間」

 さらりと言ったくせに照れている。

「空って、どんな人間の上にも広がってるんだよ。王族にも翔空士にも、優しいやつにも残酷なやつにも。弱い人間にも虐げられる人間にも。直接手を貸してくれるわけじゃない。助けてくれることもない。でも受け止めてくれる、それが空だって思うんだ。そんな空みたいになって、出来れば一人の人間として誰かを助けるものになりたい。そう思って、自分の常識にないものを見るために異世界に行こうって決めた」

 ちかりと目を射られて空を見ると、流れる雲の向こうに朝日が顔を出したところだった。風になぶられた身体が少しずつ温まり、じわじわと内側に熱を宿していく。その光を浴びながら、ディフリートは指を立てた。

「他のやつらには内緒だぞ」

 綺麗で優しい笑顔。

 そうした豊かな表情もまた好きだと思って、胸を鳴らしながら頷いた。

「さっきあんたは抽象的だって言ったけど、俺だって抽象的だろ。でも『なりたいもの』が抽象的でも具体的でも関係ないと思う。こうなりたいと思うものならそれを目指せばいいだけなんだから。結局何になるかは後で分かる」

「なんだかそれって何が生まれるか分からない卵を温めている気分ね」

「楽しみだろ?」

 途方もないと思って言ったのに歯を見せて笑われてしまったので。

 セレスレーナは吹き出し「うん」と頷いた。

「俺みたいになりたいって言ったな」

 不意に声が低くなったので笑いを収めると、ディフリートは少し寂しそうにしていた。何を言いたいのかが分かったので、セレスレーナも表情を改めて彼と向き合った。

「だったら何が一番大事かもう分かるはずだ」

「分かる」

 不思議な感覚だった。ディフリートのようになりたいと思ったら、彼が何を考えて問いを投げかけたか分かるようになったのだ。

 自分の思い違いや勘違い、深く思い込んだことも理解した。

 そうして答えを得た。きっとこれが彼の生き方。そして私の目指す生き方だ。

「――自分の心の声を大事にしろ、ということでしょう?」

 胸に触れる。そこにもう一人自分がいるみたいに。

「私がずっと無視してきた心の声をちゃんと聞け。あなたが最初に課したのはそういうこと。なりたいものを描けというのもそう。自分と誰かを天秤にかけたとき、自分の心の声に従うこと。心の声に従えばその果てに投げつけられる中傷も糾弾も受け止めることができる。だってそれは私が決めたことだから。見えない誰かを選んで犠牲になるよりももっと尊い選択だから」

 だからセレスレーナは選んだ。

「《天空石》を探す旅を投げ出すようで申し訳ないけれど、私は心の声に従おうと思う。――ジェマリアに戻りたい。どんな状況であっても、何が起こっているか知って、出来ることがあるならそれをやる。胸を張って誇り高く笑えるように。……逃げたくない」

 まっすぐ見つめるセレスレーナの頭に、ディフリートの大きな手が被さった。声を上げる前にくしゃくしゃと撫でられて首をすくめる。顔を見なくても彼が微笑みを浮かべているのが分かる。

「もう大丈夫そうだな」

 惜しむような響きを聞きながら頷いた。

「あんたの中にある《天空石》の力は、無理やり剥がさなくても寿命を終えたら石に戻るだろうとレティが言っていたから、気にしなくていい。それよりも俺たちに手を貸してくれてありがとう。ファルアルジェンナに着いたら安全なところまで送る」

 セレスレーナが言うべき言葉を探していると先にお礼を言われてしまう。「私の方こそ……」と言って唇を結んだ。心の声は想いを伝えたいと言っているけれど、それは最後にしようと宥めておく。

 今はただ触れてくれる手を感じていたかった。

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