天空の口付け6

 レティチカともう少し話をすると言ったディフリートを残し、セレスレーナはシェラに送ってもらって部屋に戻った。一人になってから明日の支度をしようと洗濯を終えられた衣服を確認し、翔空士七つ道具のうち、身につけられる翔空士手帳や拡大鏡を眺めながら、そっとため息をつく。

 なかなか落ち着く暇もない。本当にあちらこちらに行くのが翔空士なのだ。けれどそのせいで決断のときを急かされるのは困ってしまった。

(……ひとつしか選べるものがないのに、迷う必要なんてない)

 ちゃんと説得しようと思って寝支度を始めようとしたとき、腕輪が光り音を鳴らした。急いで石を押して応答する。

「はい、こちらセレスレーナ」

『こちらカジだ。すまない、こんな時間に』

 シェラかディフリートだと思ったのでめずらしく思いながら答えを返す。

「大丈夫。まだ起きていたから。どうかした?」

『君の腕輪の整備をするのを忘れていた。申し訳ないが、オーディオンまで持ってきてくれないか? 本来なら取りに行くべきなのだろうが、夜に淑女の部屋を訪れて噂を立てられると困るだろう。船なら港に係員がいるから、君も安心してやってこられると思う』

 どうやら心配してくれているらしい。カジなら不埒な真似はしないという信用があったが、ディフリートの前例があるので油断はならない。

「分かった。すぐに行く」

 呼び出しの鈴を鳴らして現れたタリシャに港に言ってカジと会うことを告げてから、部屋を出た。案内が必要かと聞かれたので断ると、遅くなるようなら帰るときにカジに送ってもらってくださいと言われた。

 白い城に夜が映ると、辺りは青く染まった。あちこちで見られる灯火よりも明るい星々を見ながら港に行くと、昼間よりも静かだったが詰所らしき建物に大勢の人の気配がした。

「レーナ。すまない、ここまで」

 どうしようか迷っていると船から現れたカジが声をかけてくれた。

「腕輪の整備ってどうやるの?」

「船の主脳に当たる《半天石》と接続しながら状態確認を行う」

 よく分からなかったのでゆっくり首を傾げた。

「近くで見ていてもいい?」

 カジは少し黙った。

「……遅くなるとディーが心配する」

「そうなるようなら早めに帰る。邪魔はしない、見ているだけ」

 物静かな彼はそれ以上強く出ることができなかったようで、船に連れて行ってくれた。

 オーディオンは操舵室だけ明かりがついていた。

 腕輪を受け取ったカジは船の定位置である機器の前にある席に座り、画面に映る何かを操作しながら、腕輪の石を何度か光らせる。いったいどんなことをして何を行っているか説明はなかったけれど、自分よりも経験を積んだ落ち着いた気性の誰かがそばにいることは、セレスレーナの精神を安定させた。

「何かあったのか?」

 一瞬誰が誰に言ったのか分からなかったので返事が遅れた。彼は彼なりに、説明を求めずに副長席に座っているセレスレーナを気にしてくれていたらしい。

「……どう言えばディフリートを説得して国に帰れるか考えている。それから、私が本当にそうしたいかを」

 こんなことを言っても困らせるだけだろう。口数が多くないカジなので下手な慰めも言わないことが分かっていたから、思いつくままにしゃべった。

「『こうすべきだ』って分かっているのに決心できないの。踏み板の前で何度も足を止めるのに似ている。私は国に帰るべきだけれども、本当にそれが正しいのかが分からない。その迷いが極まって、今は本当は帰りたいと思っていないんじゃないかと自分を疑い始めてしまった。帰らないなんてこと、許されるはずがないのに……」

「許されない? 誰に」

「国のみんなに」

「『みんな』という名前のない誰かは存在していないのと同じだ。許さないと思っているのは君だろう」

 機器と向き合っていたカジがこちらを振り返った。

「君のこれまでの生き方が、君に逃げることを許さない」

 唇がわなないた。その通りだと思ったのだ。

 涙目になっていくセレスレーナに少し困った顔をして、カジは静かに言った。

「君よりも年上というだけで、君が背負ってきた王族としての苦労や責任を理解できない私が言えるのは、何度も迷って時が過ぎていくことによって、その選択肢自体が失われてしまうこともあるということだ。迷うのはいい。慎重になるのも。だが大事なときに決断できないことで、最も大事なものを失ってしまう」

 そうした経験があるのだろうと思っていると彼は呟いた。

「私は妻を失った。家に帰らなければと思いながら仕事を放り出すわけにはいかないと考えて、何度も同じように考えては仕事を選び、ある日永遠にその選択肢を失った」

 何度そうやって無知と浅慮で人の傷を暴けばいいのだろう。シェラのことを思い出しながら「ごめんなさい」と言うと、カジは首を振った。セレスレーナを案じる気持ちから自らの過去を話したのだと思い知らされないわけにはいかなかった。

「自分より他人を重んじる君は尊いと、みんなが言うだろう。ディーにもそれが分かっているから見過ごせない。彼の論理でいうなら『王族は神が救ってくれるのか?』だ。人を救うのは人自身だ。君を救うのも、君自身だろう。私もそう思う」

 そこまで言って、彼は大きく長い息を吐いた。

「……うまく伝わっただろうか?」

 あまりに自信がなさそうなので笑ってしまった。

「私こそ理解できたかどうか……でも」

 私を救うのは私自身だというのなら、自分が逃げることを許せばいいのだろうと思った。そうすると何もかも楽になれるという想像は簡単だった。そうして、けれどできないと足踏みする自分は、選択肢が失われる話を思い出すことによって前へ行けと命じることができた。

 椅子の上で膝をかけて、セレスレーナは思い返した。

 自分を大切にすること、生きることを選べと言って、帰りたいなら『自分を買い戻してみろ』と言われたこと。

 王女だと名乗るときに笑えるかと問われたこと。

 自分が何になりたいかを考えろと投げかけられたこと。

(国に帰るためにはディフリートに認められればいいと思っていた。だから力を示せばいいと。でも彼は私の心のあり方を尋ねていたんだ。王女ではない、剥き身の私が何を望むのか。なんのしがらみもないとしたらどんな私になりたいか……)

 強くなりたい、と思った。

 しなやかで、颯爽として、勇気があって、誰かを助けられる、おおらかで優しい人間になりたい。

 不思議なことにそうして思い浮かぶのはディフリートなのだ。こうなるともう認めないわけにはいかない。彼のそんな在り方に惹かれたのだ。

「……ディフリートに誇れる私でいたい。胸を張って笑える自分になりたいの……」

「……そうか」

 そう言ってカジは再び画面に向き直った。黙って受け止めて、さらに道を指し示してくれるこの船の人たちはなんて得がたい存在なのだろう。今までの自分の世界が狭かったこと、そして自分がまったくの子どもだったことを思い知らずにはいられなかった。

 葛藤と挫折と成功の経験が、人を人たらしめる。

(失敗ばかりを恐れて虚勢を張っていた私が信用されるわけがなかったんだ。成功ばかりを見せつけて、失敗を隠すことでみんなの不信を招いた。きっと挫折を知らない人間だと思われて、人を見下していると感じられていたんだ)

 そのことに気付かされた夜、セレスレーナはこれまでの旅を思い返した。

 そして答えを出した。それは胸にすっきりとした風が通るような、自然と前を向かされる力強さに満ちたもので、きっと正しいのだと思うことができた。

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