天空の口付け2

 上と下を行き来する籠に乗り込み、地上に出る。

 船に乗っているときも感じていた風は、ここでも強く髪を弄ぶ。しかし建物は風を遮ることはなく、むしろどんどん流れるようにどこも大きな窓を設け、天井を高くしてある。廊下などはほとんど吹きさらしだった。そこから見える島は、時折雲がかかり、外周の一部が見えなくなったり顔を出したりしている。

 十字路に差し掛かったところで一行は三方向に分かれた。ディフリートは数人の官吏を連れて、カジとシェラはふたりで、セレスレーナは残りの官吏を案内人としてそれぞれ別のところへ行くことになった。

「まあのんびりしてらっしゃいな。王子の客人だからみんな親切にしてくれるわよ」

 でしょうとシェラが言うと、ディフリートは頷いた。

「落ち着いたら彼女を俺の部屋に案内してくれ」

「かしこまりました」

 気負いのない命令は本当に王族なのだと実感させるものだった。だがセレスレーナに「じゃあな」と手を振るのは、よく知る翔空士としての顔だった。

 城の奥まったところに連れて行かれたセレスレーナは、そこが客人を滞在させる場所ではなくもっと私的な、家族や親類縁者が使用する棟であることを見て取った。

 あまりにも白くつるりとした美しい建物が見慣れず、そわそわと辺りを見回していたが、ふっくらと笑みを浮かべて「タリシャと申します」と名乗った女官の働きぶりに気遣いを感じて、ようやくほっと気を緩めた。

「お湯加減はいかがです? 熱いようなら水を足しますが」

「ちょうどいいです。ありがとう」

 全身の垢を落として湯船に浸かっていると「ごゆっくり」とタリシャは出て行った。セレスレーナはだだっ広い湯船から天井を見上げて、シェラの『でっかい風呂』という言葉を思い出した。

「……温室にお風呂があるんだから、確かに『でっかい風呂』だわ」

 水晶のようなきらめきを硝子の天井から降らせる温室に、もうもうと立ち込める湯気の中、葉も厚く茎も太い見たこともないような植物が繁茂している。濃い緑の葉、燃えるような赤い花、黄色い実など、南国を思わせる植物ばかりだ。

 十分に足を伸ばして温まった後、浴室から出たセレスレーナをこの国の装束が待っていた。タリシャの他にセレスレーナと同じ年頃の少女たちが待っていて、服を着せ、髪を梳り、飾りを使って結い上げた。

「綺麗な黒い御髪ですこと。異世界からいらしたと伺いましたが、お国の方はみんなこのような色をしていらっしゃるのですか?」

 セレスレーナの黒髪をうらやましそうに結びながら、少女が問いかけた。そう言われると、この国の人々がみんな白っぽい髪や明るい目の色をしている。黒髪のカジは例外なのだろう。

「みんなというわけではありませんが、黒髪の持ち主は多いですよ。私は祖父から髪の色を、目の色を母から譲り受けたんです」

「ええ、目のお色もとっても美しいですわ。まるで《蒼の一族》の瞳のようです」

 せっかくだから髪留めは青い宝石を、と楽しそうに言って、彼女はセレスレーナの髪を飾ってくれた。

 白い革に宝石をあしらった不思議なほど履き心地のいい靴を鳴らして、タリシャに連れられてディフリートのところへ向かった。裾を引きずるドレスを着るのは久しぶりだったが歩き方は染みついていたらしく、するすると衣擦れの音は滑らかだ。

 建物の中を通り抜けて、さらに奥の廊下を進んでいくと、目の前の部屋から裾長のお仕着せの官吏が一礼して去っていくところだった。

 すれ違いざまにふと目が合い、微笑を浮かべて目礼すると、彼は顔を真っ赤にして俯き、足早に去ってしまった。

(今の反応はどういう意味だろう……?)

 だが答えにたどり着く前にタリシャがディフリートを呼ぶ声に気を取られてしまった。

「失礼いたします、セレスレーナ王女様をお連れしました。殿下、ご覧ください、このタリシャの仕事ぶりを!」

「タリシャのその弾けんばかりの声を聞くと帰ってきたという気がするな」

 部屋の中でディフリートが苦笑まじりに答えている。セレスレーナは扉の影に立ちながら、やけに嬉しそうなタリシャのせいでなんだか出て行きづらくなっていた。

(困ったな……あんまり期待しないでほしいんだけれど。がっかりされるかもしれないのに)

 だがここに留まっていてもいずれ引っ張り出されるだけだ。覚悟を決めて、慣れない質感の布をさばき、扉をくぐった。

 この国の人々は鳥や虫など翼や羽を持つ生き物の意匠を用いるのだとタリシャたちが教えてくれた。そして高貴な人々ほど引きずるほど袖や裾の衣服を風になびかせるのだという。

 このときセレスレーナが着ていたのは、薄衣を何重にも重ねた、全身に沿うような、スカートの膨らまない形のドレスだった。肩甲骨のあたりから蜻蛉を思わせる羽飾りがついており、きっちりまとめた髪に銀と青い宝石の花を模した髪飾りをつけると、舞台に登場するような花冠をいただいた妖精のひとりになった気がした。

 ディフリートは広すぎる部屋にぽつんと置かれた書物机に向かっていた。着ているものはさすがに改められて、ゆったりとしたシャツに脚衣、素っ気なく見えるが一目で上等と分かる革靴になっている。書物筆をくるくると回していた彼は、こちらを見て動きを止めた。

「…………」

 ぽろり、とディフリートの手からそれが落ちる。

 それきり何も言わないのでセレスレーナは眉をひそめ、床を指した。

「ディフリート。落ちたわ」

「…………、ん、ん?」

「書物筆が落ちたって言ったの」

 呆れながらそれを拾いに行くと、何故か弾かれたようにディフリートが立ち上がった。金色に輝く書物筆を差し出しながら咎める視線を送ると、彼は真剣な顔になり、胸に手を当てつつ一礼した。

「失礼。とんだ美姫が登場したのでびっくりしてしまった。ぜひその手に口付ける栄誉を賜りたいのですが?」

「ふざけてないで、受け取ってくれる? 必要ないなら机に置くわよ」

 するとディフリートはセレスレーナが置いたそれを恭しく押し抱くと、そこに軽く口づけを落とした。

「な、何してるの!?」

「手の代わり」

「あなた馬鹿じゃないの!?」

 真っ赤になってわめくと返ってきたのは優しい微笑みだった。

「手に口づけたいと思ったのは本当だ。レーナ、すごく綺麗だ。タリシャに礼を言わないと」

 見られていると分かっていてそんな気障ったらしいことをしたのか、とますます赤くなるセレスレーナだったが、タリシャは嬉しそうに「とんでもございません」と一礼し、下がっていった。

 彼女がいなくなるとディフリートの視線はますます遠慮がなくなった。興味深そうに上から下までを眺めているので、さすがに我慢ができなくなって背を向けようとしたが、すぐに手首を掴まれた。

「こらこら、逃げるんじゃない。せっかく堪能してるのに」

「調子のいいことを言って……。それにじろじろ見るなんて失礼すぎる、私は見世物のお人形じゃないんだけど」

 ディフリートはろくに聞いておらず「うーん、いいなあこれは」と呟いている。

「誰が着飾ろうと特になんとも思ってこなかったんだが、今日はこの世界の服がそういうひらひらしたやつでよかったと心から思う。本当によく似合ってる」

「それは………………どうも、ありがとう」

 ここで変に突っぱねるのは違う気がして、感謝の言葉を絞り出す。それに機嫌をよくしたらしい、笑顔でセレスレーナの手を引いた。

「せっかくだから少し歩こう。城を案内する」

 城の中を見たいのは本当だったから断る理由はなかった。どこからともなく現れた侍従が手にした上着を受け取って、ふたりで城を散策することになった。

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