第4章

天空の口付け1

 次の行き先が天空世界フェリスフェレスだと聞いたシェラは歓喜の声を上げ、予想到着時刻が近付くにつれて鼻歌を歌い始めた。

「久しぶりにでっかい風呂に入れるー! 髪を切って、新しい服を買って、靴も見に行きたいなあ! ああそれから肉料理、新鮮な塊肉を食べに行こうっと!」

「楽しみにするのはいいが、ちゃんと仕事しろよ」

「あったりまえでしょ! 久しぶりに家に帰れるんだから、こんなところで船を落としたりしないわよ!」

 ディフリートの注意も鼻で笑い飛ばすシェラの声を聞きながら、セレスレーナは翔空士手帳を読んでいた。天空世界フェリスフェレスが手帳の項目に上がっていたからだ。

『天空世界フェリスフェレス』――《天空石》を砕かれ、滅亡寸前だった《蒼の一族》の生き残りたちは、自らの技術をフェリスフェレスという世界に託すことにした。その甲斐あってフェリスフェレスは発展を遂げ、空船を開発し、多数の翔空士を生み出すこととなった。その技術はやがて他の世界でも遅れて生まれることになったが、フェリスフェレスの国々は現在も翔空技術の先駆者として、《蒼の一族》のために《天空石》を探す任を帯びた翔空士を常に送り出している。

 ヴェルティの言葉を裏付けるそれは翔空士手帳に書かれるくらいだから常識なのだろう。

(ディフリートはどうして翔空士になったんだろう)

 翔空士とは様々な世界を旅するだけでなく、《天空石》を探すために時には盗人や冒険家にもなることで利益を得る職業らしいということは、翔空士手帳に記された知識編でも、ディフリートやヴェルティの言葉からも想像できた。得られるものは莫大だからこそ、みんな翔空士になるのだろう。それはディフリートも例外ではない。

 翔空装置が作動し、虚空域が消えた。翔空した先では真っ白の雲が船を覆っている。

「レーナ、甲板に行こう。いいものが見られるぞ」

「……え!? あ、ええ……いいけれど……」

 そんなことを考えていたから突然声をかけられて驚いた。

 にっと笑うディフリートに連れられて甲板に向かう。船のすぐ近くを雲が流れていく。冷たい水の粒を浴びてぶるりと震えていると、ひときわ強い風が吹いて視界が明るくなった。

 セレスレーナは大きく目を見張った。

「空に浮かぶ島……!」

 綿を千切った白い雲を連れて、様々な島が空に浮かんでいるのだった。

 湖の離れ小島のような小さなものから、家が建っている島もある。空を飛んでいくにつれて島の規模はどんどん大きくなり、下方には白い街並みを抱く大地が広がっている。

 かぅかぅかぅと鳴き声がして顔を上げると、かもめのような青灰色の鳥の群れが綺麗な三角形を描いて飛行していた。手を伸ばせば触れられそうなほど近い。船を怖がらない様子から人に慣れているのだと思われた。

 この世界の空はこれまで見てきたどれよりも青く、光を浴びる島の緑は眩い緑柱石が煌めいているようだ。真っ白な雲の間からいくつもの空船が姿を見せると胸がどきどきした。島から見ればオーディオンもまた青空に帆を掲げる船の一つで、自分はそれに乗って空を飛んでいるのだ。

 なびく髪を押さえてディフリートを振り返る。彼はどきりとするような優しい微笑みを浮かべてこちらを見ていた。

「綺麗だろ。これがフェリスフェレス。俺の故郷だ」

 そういう彼の笑顔こそ綺麗だ。

 一瞬よぎった思いを振り払い、騒ぐ心臓を押さえながら頷く。

「まるで絵の風景だわ」

「だろう? 自慢したかったんだ」

 嬉しそうに言われてますます胸が音高く鼓動を打った。

「あの……この世界の大地はすべて空を飛ぶようにできているの?」

「そうらしい。地面に含まれている《半天石》の鉱脈が、その強さによって大地を浮かすんだそうだ。この世界では地表は空の底と呼ばれて、まだ誰も到達できていない領域だ。ちなみにこの世界には海もない」

「でもあの島には湖があるわ」

「水を生み出す《半天石》があるからだ。この世界は《半天石》がなけりゃ生きるのが難しいところでな」

 ふうんと相槌を打って青々とした水をたたえる湖を通り過ぎる。

 地表や雲に影を映しながら、オーディオンは前方に見える巨大な建物を抱えた島を目指していた。

「あの島は? とても壮麗な建物だけれど、お城?」

「よく分かったな。アーヴレイム王国の王城だ」

 白で統一された建物が埋め尽くすその島は、全体が城になっているようだった。中心に塔を建てその周りを高い建物が囲んでいる姿は、セレスレーナの知る教会によく似ていた。島の外周から内側にかけて縦や横に長い建物が段々状に島をぐるりと巡り、合間合間にこんもりと豊かな緑が見える。遠目から見ると積み木で作った薔薇の花という印象だった。

 オーディオンはその島の外周、張り出した櫓の真下に向かっていく。

「そろそろ港に入るから降りる準備しとけ」

「了解」

 答えながら(お城に入るの?)と不思議に思ったが、そういうこともあるだろうと口にせず、一度操舵室に戻った。

 鯨の口に入るようにして島の底にある港に船を停泊し、全員で下船すると、そこには裾が長く肌を見せない分厚いお仕着せをまとった人々が待ち構えていた。

「殿下!」

(な、何!?)

 声高く呼びかけられてぎくりとしたセレスレーナの前で「お疲れさん」とディフリートが手を挙げる。その軽薄さに居並ぶ男性は猛然と食ってかかった。

「これほど長くお戻りにならないのなら事前にそのようにご申告ください! 決済待ちの書類がどれほど溜まっているか!」

「無事なら無事と定期連絡をしてくださいとあれほどお願い申し上げたのに」

「分かった分かった。小言は後で聞く。客がいるからみっともないところを見せないでくれ」

 するとみんなぴたりと口を閉ざし、セレスレーナを見た。

「城砦世界ファルアルジェンナのジェマリア王国王女、セレスレーナ殿下だ。みんな、丁重に遇するように」

 ディフリートの一声で彼らは歓迎の微笑みを浮かべ、実に丁寧に頭を下げてくれた。

「お目にかかれて光栄です、セレスレーナ殿下」

「ちょ、ちょっ、ちょっと! 待って! お願い、状況を整理させて」

 理解が追いつかない。いったいどういうことだと、右手で頭を抱えながら考える。

 ここは天空世界フェリスフェレス、そのうちの一国アーヴレイム王国の城。出迎えに現れた人々は「殿下」と呼ぶので、どうして自分の素性を知っているのかと驚いたが、しかし実際はそう呼びかけられたのはセレスレーナではなく……。

 セレスレーナはディフリートを睨んだ。

「……あなた、誰?」

 ディフリートは天気を答えるように気負いなく言った。

「ディフリート・タイオン・アーヴレイム。空船オーディオンの船長で、天空世界フェリスフェレス、アーヴレイム王国の第一王子」

「聞いてない!!」

 全力で抗議した。周りにいた城の官吏たちは深いため息をつき、ディフリートは気まずそうに頭を掻いている。自己紹介したかもしれないけれど、その重要な部分は聞いていなかった。

「別にめずらしいことじゃないから、別にいいかと思って。あんただって『私は王女です』って自己紹介しないだろう?」

「そうすべきときとそうじゃないときを区別しているだけよ! 今はそうすべきだった、少なくとも船を降りる前に教えるべきだった!」

 そう言って、セレスレーナはシェラとカジをきっと睨んだ。

「……三人は同郷の顔馴染みだって聞いた。知ってたのね!? まさかあなたたちまで王族だって言わないわよね!」

「私は単なる護衛だ。黙っていたことについては……ディー殿下に言うつもりがないようだったので、意思を尊重しようと」

 苦しそうにカジが言い、シェラはあっけらかんと笑って手を振った。

「あたしはただの女官。あたしはカジみたいに考えてたわけじゃないわよ。ディーが言わないならあたしが言うわけにはいかないってだけ」

「本当のところは?」

「知ったときの反応を見たかった」

 セレスレーナの真っ赤な顔を見たシェラの笑い声が弾けた。

「黙っててすまなかった。そんなに驚くとは思わなかったんだ」

 臣下たちの手前か申し訳なさそうにしているディフリートに、これ以上抗議すると自分の品位が揺らぐと判断したセレスレーナは、収まらない感情になんとか蓋をしながら、それ以上言うことを止めた。

「他に何か言っていないことはない?」

「ない。……多分」

 どうしてそこで『多分』なんだと怒鳴りたい気持ちをぐっとこらえ、立ち話ではなんですからと言った官吏たちに導かれてアーヴレイム城へ入ることになった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る