第3章

緑林世界の出会い1

 変質嵐に遭遇しない順調な航行を経て、緑林世界コルデュオルの近くまでやってきたのは、セレスレーナがシェラと朝食を作っているときだった。

「これ、どういう仕組みなの? 火打ち石はどこ? 薪は?」

「焜炉の説明はカジに聞いて。今は鍋の中に切った野菜を入れてちょうだい」

 つまみをひねるだけで火が点くかまどや、風呂と同じ要領で機具を動かすだけで水が出てくる管など、厨房もまた魔法に溢れていた。だがいちいち不思議がっていてもお腹は膨れないので、言われるがままに野菜を切り、鍋に放り込んで塩と胡椒で味付けをした。味見をしてみると普通の野菜煮込みで、異世界人でも食べるものはあまり変わりないのかと不思議な感慨があった。

 料理が完成するとシェラは厨房の隅に備え付けられていた通話機を持ち上げた。器が下を向いた天秤のような形のそれは、一方を耳に、もう一方を口に当てて声を吹き込む受話器というらしい。受話器を置く台座には零から九までの数字が書かれた石がはめこまれている。シェラは零を三回押し込んだ。

「こちら厨房。朝ご飯できたから全員食堂に集合して!」

 三つの数字でどの部屋に声を届けるかを決めることができると聞いたので、きちんと翔空士手帳に書き留めてある。とりあえず食事を始める時には零を三回だということは覚えた。

 船全体にシェラの声が響き渡ると、すぐにカジとディフリートが現れた。

「おはようさん。いい匂いだな」

 席に乾いた麺麭を持っていくとディフリートがそう言って笑った。屈託ない笑顔から目を逸らし早口に言う。

「期待させたなら悪いけれど普通の野菜煮込みよ。味付けはシェラがみてくれたから問題ないと思うけど」

「ちょっとどいてー!」と叫んで厨房から飛び出してきたシェラが鍋を机にどんと置いた。その周りに器を並べていくので各自で食べろということらしい。ずいぶんと豪快だが、昨日カジが作った夕食の蒸し野菜といい、この船ではかしこまった料理はあまり作らないのだろう。

「空の妖精が運ぶ恵みに感謝を」

 今朝はセレスレーナもその祈りの言葉を自然に唱えることができた。

 大雑把な料理とは裏腹に、食事の最中は三人ともあまり喋らず、がっつくことなく静かに食べる。食べ残しを床に捨てたり、水や汁物は音を立てて飲むこともないので、もしかしたらイクス国王一家の食事風景よりも品がいいかもしれないと思うくらいだ。

 一通り食べ終わるとディフリートが口を開いた。

「現在船はコルディオルから一時間圏内で翔空中。食事が終わったら全員操舵室に集合してくれ。到着次第下船して《天空石》捜索に当たる。シェラとセレスレーナは下船準備をしておけ」

「やだ。あたし残る。カジ、代わりに行って」

 子どもが駄々をこねるみたいに言うシェラに、ディフリートはため息をついた。

「シェラ。お前な」

「レーナの面倒を見るのにあたしが最適だって判断したのは理解するし、これが他の世界なら了解って答えるけど、今回は絶対嫌よ。分かるでしょ?」

 ディフリートとカジは顔を見合わせた。カジが頷くと「分かった」とディフリートが折れた。それを横で見ていたセレスレーナは内心で首を傾げ、ルチルの言った『同じ世界の顔馴染み三人』という言葉を思い出していた。

(ふたりはシェラが嫌がる理由に心当たりがあるってことか)

「レーナの準備は手伝うから心配しなくていいわよ」

 そう言って、シェラは残りの麺麭を口に放り込んだ。

 必要な装備を身につけてシェラとともに操舵室に行くと、灰色の雲海は心なしか明るくなっていた。虚空域では時間の経過を目視で確認するのは難しいため、船には色々なところに時計が備え付けられてある。文字盤の小窓には朝を示す太陽の絵が現れており、針は十時過ぎを示していた。航空士の資格を持たないセレスレーナに船を動かすことはできないため、副長席に座ってシェラとカジが装置を操作するのを見守っている。

「変質状態は一。安定している」

「コルデュオル確認。周辺に船影なし。このまま翔空に入るわ」

 身体と意識がぶわっと浮くのを再び感じた。だが今度は気分を悪くすることなく移動できたようで、白い光に包まれた後、窓の外が真っ青な空と濃い緑に変わっているのを落ち着いて確認することができた。

「翔空終了。コルデュオルに到着」

 緑林世界コルデュオル。その名の通り地表を緑が埋め尽くした世界だ。空から見れば虫食いの穴のように湖が青く広がっている。そしてその空には、オーディオンのような船が悠然と飛行しているのだった。

 オーディオンが目指すのは海ではないかと思われる巨大な湖、デュオル大湖だ。その中央にはまるでがらくたを積み上げたような場所があり、木に止まる虫のように空船が停泊している。

(これがコルデュオル。空船の技術がある世界なのか)

 初めての異世界、初めて見る街に胸が高鳴る。

 ディフリートはシェラに船を任せ、セレスレーナとカジを連れて転送装置のある部屋へ向かった。

「ちゃんと腕輪は持ったか? 剣は?」

「シェラがちゃんと確認してくれたから大丈夫。腕輪の使い方も確認したから船に連絡を取る方法も分かるし、あなたから借りたお金もちゃんと持ってる。さっきシェラに金銭価値も確認したからぼったくられないように注意する。困ったときには妖精の羽を掲げた翔空衛団に助けを求める。ほかに何か気になることがある?」

 一息に言うとディフリートを黙らせることができたので、満足して装置の上に立った。

 転送装置は室内に時計の部品をばらばらに設置したのではないかと思われるような、機械的な場所だった。歯車や何に使用されているかわからない硝子管、くるくる回る風車などが詰め込まれて少し暑い。中央にある台座に立って、この部屋か操舵室で所定の操作を行うと空と地上を行き来できる。また地上にいる場合は通話機にもなる腕輪を使って装置を操作してもらうよう頼む。腕輪を持ったかと確認されたのはこのためだ。ディフリートやカジとはぐれたとしても、腕輪を使ってオーディオンに呼びかければ、シェラが船で迎えに来てくれる。

 カジが転送装置を作動させると、ぐおんぐおんと間近で低音楽器を鳴らされたような騒音に襲われた。室温が上がって息苦しさを感じたとき、ふっと足元の感覚がなくなった。

 視界が白くなりめまいを起こしたのかと思ったら、人の声がした。

「さすがマギス・ロア! 翔空王の船だけあるな」

 わっと世界が押し寄せる。人いきれ、生活の匂い、水と緑の香り。声が入り混じって雑然とした音となる。先ほど聞こえた声の主は近くにいた少年で、連れの青年とともにセレスレーナの後ろを見上げている。

 振り向くと、巨大な船の底が空を覆っていた。

 最初に思ったのは火熨斗みたいということだった。柄のついたものではなく蓋を開いた中に炭火を入れる、先が尖ったジェマリア最新のものだ。もし上部に取っ手がついていたらますます似ている。それにしても巨大で、まるで砦がそのまま空を飛ぶかのようだ。

「まだ翔空王じゃないよ。ヴェルティは翔空王ゾリスタンの息子だよ」

「でもゾリスタンの息子なんだろ! じゃあすぐに翔空王だ。だってあんな艦艇に乗ってるんだから!」

 声はすぐに聞こえなくなった。セレスレーナが次々と現れたり消えたりする人々に驚いてしまったからだ。

 どうやらここは人々が地上と船を行き来する場所らしく、柱には『転送場』と書かれている。向こうにいたと思った人がいなくなったかと思うと、どこからともなく人が現れる。

 不意に手を取られ「わっ」と叫んだ。ディフリートだった。

「ここで突っ立ってると危ない。行くぞ」

 転送場から街の中心部、がらくたの塔へと向かう。

 街は飛び地をつないで中央に集まっている形で、蓮の花と葉のようだった。花に当たる部分は見上げるほどの高い塔になっており、そこに泊まっている船は羽虫のように見える。こうして地上にいるとあまりにも何もかもが高く巨大なので頭の中で縮尺が混乱してしまい、小人になってしまったように錯覚する。

「ディー、レーナ。車を借りてくるから待っていてくれ」

 カジが向かったのは『借用車のサヴァーレ』という看板が掲げられた店だ。するとその店の隣から破裂音が響いた。

「なに!?」

 次の瞬間目の前を、昆虫を縦に平べったくして車輪を前後につけた謎の乗り物が走り去っていく。呆然としているとディフリートが言った。

「あれは二輪車。動力があるから自動二輪だな」

「ど……どうやって動いているの、あれ……」

「船と同じ《半天石》だ。分かるか?」

 異世界文化指数を測るもう一つの要素。それが《半天石》だ。

 空船の動力、銃や焜炉などセレスレーナが魔法のように感じるものは、ほとんどが《半天石》という特殊な鉱石が使用されている。どんな炎よりも強く、あらゆる風を凌ぎ、永遠に水を凍らせるような力を持つ魔法の石は、この連なる世界のほとんどに存在しているらしい。それが発見されているか、研究が進み便利な道具が発明されているか、そしてそれが空を飛ぶ技術につながっているかどうかが文明の発達を測る要素になっているのだった。

 ディフリートが言った『自動二輪』は、過ぎ去っていく姿は猫のようで、馬よりも速かった。欲しい、とセレスレーナは素直に思った。

(馬を乗り継ぐよりよほど速い。動力が《半天石》なら、石を入れ替えることで長く乗ることができるはずだ)

「なあ、いつからシェラとカジはあんたを『レーナ』って呼んでるんだ?」

 考えを巡らせていたセレスレーナだったが、不意に投げられたディフリートの質問の意図が分からず目を瞬かせた。

「シェラは、ブランシュを助けて服を見立ててもらった時。カジはいつの間にか、だけど」

「だったら俺もレーナって呼んでいいか?」

 心が揺れた。略称で呼ばれるとなんだか距離が近づいた気がして気恥ずかしいし、かといってそこで突っぱねると意識していると勘違いされるのではないか。セレスレーナは俯いた。勝手に顔が赤くなる。

「レーナ?」

 覗き込まれながら呼びかけられた瞬間、息が止まりそうになった。

「よ、呼んでいいって言っていない!」

「だったらどう呼べばいい。セレン? リース? 教えてくれ」

「どうしてそんなことにこだわるの!?」

「呼びたいから」

 さらりとディフリートは言ったが、だったらカジのようにいつの間にか呼んでいてほしかった。改めて確認されると恥ずかしくて仕方がない。変なところで律儀で悩ましい。

「す……好きに、呼べば、いいんじゃない……」

 ぼそぼそと言ったのを聞き取って、ディフリートはぱっと明るい笑顔になった。

「分かった。レーナとセレン、どっちがいい?」

「だから聞かないでって!」

 そうしているうちにカジが戻り、セレスレーナは初めて見る自動車に心を奪われてしまった。

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