第5話 解放

 礼隆は駅前でタクシーを拾い、通勤快速ならば一駅、各駅停車ならば二駅離れた彼のアパートへと瞳子を連れてきた。


 道すがら、瞳子の喉元には「やっぱりここで降ります」という言葉が何度もこみ上げてきた。

 けれども、現状への鬱屈と、解放を求める衝動と、年上のプライドと。

 胸の内でねっとりと攪拌されたそれらが瞳子の理性や臆病さを抑え込む。タクシーのドアが開いた時には覚めやらぬ酔いが背中を押して、黒いパンプスのヒールを冷えたアスファルトの上へと落とした。


 いかにも若い単身者向けに作られた壁の薄そうな二階建てのアパートを見上げ、瞳子は首を傾げた。

 さっきのおでん屋辺りが地元だと言っていたのに、学生が隣町でわざわざ一人暮らしをしているのは何故だろうか。

 実家は引越して、彼だけがこの下町に残ったということなのか。

 そんな推測が頭に浮かぶが、その正否を確認する必要は自分にはないと割り切り、礼隆の背中について外階段を上がる。


「入って」

 友人を招き入れるように、ドアを開けた礼隆がにこやかに振り向いた。

 僅かに頷き、彼の後に続いて靴を脱ぐ。

 玄関の明かりが端まで届くほど短い廊下の突き当たりのドアを開け、彼が部屋の照明を点けると、暖色系の明かりが八畳ほどの部屋の様子を照らし出す。


「ねえ……。礼隆君、彼女いるんでしょう? 私なんかを連れ込んじゃ駄目なんじゃないの?」

 薄手のメンズジャケットやパーカーと並んでハンガーに掛けて吊るされた、ラベンダー色のストール。

 ローテーブルに置かれたシェル素材の小皿には、片割れとはぐれたピアスが二つ。

 経済の専門書が並ぶ本棚には、ラインストーンがついたヘアクリップが置かれている。


 小綺麗に片付けられた部屋を泳ぐ瞳子の視線が女性の痕跡を次々捉えていることに気づき、礼隆は悪びれる様子もなく微笑んだ。


「ここにあるのは、全部セフレの忘れ物だよ。隠さずにわざと目につく所に置いてある」

「……どういうこと?」

「忘れ物の持ち主はそれぞれ違う人なんだ。自分の物じゃない忘れ物が目につけば、うちに来てるのが特別なことじゃないってわかるでしょ」

「それって、同時に何人もと付き合ってるってこと?」

「友達なんだから、複数いるのは当たり前でしょう? 寧ろ一人に絞ったら、恋人との線引きが曖昧になって面倒だし」


 やはり彼の恋愛観は自分とあまりにもかけ離れている。

 呆れる一方で、心の隅に押しやっていた罪悪感がさらに萎んでいく。

 自分さえ割り切れば、彼とは本当に後腐れのない体だけの関係を結べそうな気がする。

 そして、この男に心の繋がりを求めるなんて馬鹿なことを自分がするわけないという自信もある。


 瞳子がジャケットを脱いだ途端、後ろからそっと両腕がのせられて、肩が大きく跳ねた。

「瞳子さん……」

 耳元で吐息混じりに名を呼ばれると、マッチが擦れた時のように体の奥に小さな火が灯る。

 髪にキスを落とされながら、首に絡められた腕にそっと触れると、途端に魔法のように腕が解かれる。

 瞳子の両肩を包んだ手がゆっくりと体を向き合わせ、窮屈そうに身を屈めた礼隆が唇を重ねてきた。


 啄むような優しいキスが、瞳子の反応を確かめるように徐々に深くなっていく。

 瞳子の舌が礼隆のそれを躊躇いがちに迎え入れた途端、口の中を掻き回されて情欲をぶつけられる。


 思考を手放しそうになり、瞳子が思わず突き放そうと彼の肩に手を置くと、その手はすぐに自由を奪われ、ベッドの上へと押し倒された。


 ブラウスのボタンを外す指使いも、瞳子の肌に触れる唇も、そこに愛が込められていないことが信じられないほどに優しさと情熱に溢れている。

 弾け飛んでしまいそうな理性を必死で掴み続けようとシーツを握りしめる瞳子に、礼隆がゆっくりと囁いた。


「瞳子さん。貞淑な女が感じちゃいけないなんていう倫理は存在しないよ。もっと正直になって」


 乱れたら、はしたない女だと思われる──

 恋人には遊んでいる女と思われたくなくて、快感に溺れることのないよういつも必死に理性にしがみついていた。

 けれども彼は恋人ではない。ただセックスをするだけの相手。

 ならば乱れても、はしたなくても、遊んでいる女だと思われても、もうどうでもいい────


 シーツを握りしめる瞳子の手がゆるむのを確かめて、礼隆はその手に自分の指を滑り込ませた。

 熱い舌に弄ばれ、瞳子の唇から漏れる吐息が徐々に嬌声へと変わっていく。

 吹き飛んでしまった理性の代わりに礼隆の首にすがりつき、瞳子は何も思考しない、極めて純粋で動物的な交わりに身を任せた。


 礼隆が果て、裸のままベッドに並んで仰向けになりながら、瞳子は自分の胸の内に広がる解放感を不思議に思っていた。

 心のないセックスを終えた後だというのに、罪悪感や気まずさがないばかりか、いつものような相手の反応を窺う怖さもない。

 汗ばむ体には礼隆と交わった余韻がじんわりと広がるが、それが妙に心地良い。

 自分を押し込めていたたがが外れ、その余韻と解放感に浸っているような感覚だった。


「瞳子さん、気持ちよかった?」

 仰向けの体を瞳子の側に向き直した礼隆が、無邪気に瞳子を覗き込む。

 先ほどまで彼が見せていた情熱的な眼差しがフラッシュバックして、瞳子は思わず背中を向けた。

「う、うん……」

 体が反応していたのに、嘘を吐いても仕方がない。素直に肯定すると、背中から筋肉質の腕が回ってきて抱きしめられる。

「れ、礼隆君こそ……。今日は率直な感想を私に教えてくれるんでしょう?」

 恋人でない彼からのアドバイスならば、多少きついことを言われてもダメージは少ないはず。思いきって踏み込んで手に入れた機会なのだから、次からの恋愛に前向きに生かしたい。

 そんな風に身構えた瞳子の耳元で、礼隆はあっけらかんと語り始めた。


「うーん。正直予想していた以上に良かったよ? スタイルは期待どおりで興奮したし、肌も綺麗で触ってて気持ちいいし、大人の女性ならではの吸いつくような柔らかさがあるよね。感度もそう悪くない気がするけど……問題は、やっぱり堪えちゃうところかなあ」

「堪えちゃうところ……?」

「うん。瞳子さん、最初は感じちゃいけないってすげー堪えてたでしょ? あのまま堪え続けられたら男としては面白くないっていうか、自信失うっていうか」

「そうなの?」

「やっぱり女の人が感じてくれないと、男の方も気持ちが盛り上がらないよね。自分の中で興奮と期待が高まってると、余計にそのギャップを感じると思う。自分じゃ彼女を満足させられないのかって落ち込んだりもするし、次にセックスするの尻込みするかもなあ。男って結構ナイーブだから」

「じゃあ、私は見た目とのギャップを自分自身で広げてたってことなのかな……」

「そういう部分も大きいんじゃないかな。瞳子さんはもっと自分を解放していいと思うよ」


 礼隆からのアドバイスを聞き、瞳子の心の中で濃霧のように立ち込めていた閉塞感が薄れ、視界が開けてきたような気がした。

 けれども、先が少し見えてきたからと言って実際に一歩を踏み出すとなると、奥手の瞳子にはやはり勇気のいることだ。


「いきなり解放的になんてなれるのかな……」

 ぽつりと零れた頼りない呟きを拾うように、胸の前に回された礼隆の腕がきつくなる。

 背中にぐっと密着させてきた彼の体から新たに宿った熱が伝わり、瞳子の体の芯で消えかかっていたおきが再び仄かに赤くなる。


「俺でよければ練習台にしてよ。瞳子さんをもっと解放してあげる……」


 体を這う指に吐息を漏らすと、首筋に落とされていたキスが頬や瞼に回る。

 焦らされた瞳子が堪らず声をあげると、「よくできました」と言わんばかりに礼隆の舌が彼女の唇の輪郭をゆっくりとなぞり、待ち受けた口の中へ深く差し込まれた。

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