浜茄子の花の咲く頃 第五章 完結

三坂淳一

浜茄子の花の咲く頃 第五章 完結

六月九日 快晴


平潟沖、何も無し。

明日あたりで幕府から役人が到着するものと思われまする、と栄助が昨日語ったので、誰か、大津に物見を出そうという話になった。

彦四郎と右馬之助が談合した結果、利兵衛を大津に物見に出して、幕府の異人に対する扱いを確認させるべしということになった。

利兵衛は喜んで出立した。要助も行きたかったが、これは認められなかった。

不服そうな顔をした要助に、またの機会もある、と栄助が笑いながら言った。


利兵衛が出立した後、要助は小浜の山に駆け入り、このところ怠っていた礫の修練に励んだ。ふと、気が付くと、栄助が見ていた。

要助は修練の間、栄助が来ていることに気付かなかった自分を恥じた。

いくら、気配を隠していたとは言え、忍びとしてはまだまだ未熟であると、自分を恥じたのである。

栄助は要助に近づき、うなだれている要助の肩を一つ、ポンと叩いた上で言った。

「見事な礫の技だ。久しぶりに、いいものを見た。要助、おめえのその礫はいい。いつか、きっと役に立つ。おめえのその礫は体術に少しは自信のあるおいらでも、避(よ)けきれない。両手で投げることができるなんて、そんな技、おいらは初めて見た。でも、安心しねえ。おめえの技は決して口外しねえから。おいらだけの秘密にする」

栄助にそのように言われ、要助は思わずにっこりと頷いた。

あの時の雲水(うんすい)にもそのように言われた、と要助は二年ほど前の出来事を思い出した。

利兵衛と共に、新田峠で山野を駆け巡り、早歩き、早駆けの修練を積んでいた時のことだった。衣笠儀兵衛からの頼みで利兵衛が磐城平に出かけ、要助は一人、松の樹を相手に、礫の修練に励んでいたことがあった。

ふと、気が付くと、十間ほど離れた木々に寄り掛かるようにして、一人の雲水が立っていた。全然、気付かなかった。礫の修練に打ち込んでいたためか、と要助は思ったが、それにしても、気配が全く無かった。

要助のきつい視線を浴びた雲水はぼそっと呟いた。修練の技、なかなかのものだ、と言っていた。その声は風に乗り、要助の耳に微かに届いてきた。忍び独特の囁き声であった。

他藩の忍び隠密か、と要助は緊張し、懐の鉄の礫に手を伸ばした。また、声が微かに聞こえてきた。よせ、お前と争う気は無い、わしはこれから仙台に戻るところだ、お前が仕えている藩とは何の関わりも無い。

そのような声が聞こえ、雲水は要助に背を向け、磐城街道の方角に歩いて行った。

また、どこからか、お前の礫の術に関しては誰にも言わん、更に、技を磨け、と囁く声が聞こえてきた。網代笠を被り、墨染の衣を纏い、行李を背負って去っていったその雲水は栄助と同じくらいの技量を持った忍びであったかも知れない、と要助は思っていた。

空はよく晴れ、鳶がくるくると、栄助と要助の頭の上を廻っていた。


六月十日 朝は雨、その後、終日曇り


朝方から雨が降り、平潟沖への視界は利かず。

空は驟雨の黒い雲に覆われていた。

利兵衛が大津から戻り、昨日の話として次のようなことを告げた。

江戸から、幕府の代官、古山善吉、蘭学者で通辞の吉雄忠次郎、そして、天文方の高橋景保らが来た。人数は四十人ほどになり、早速、異国人十二名に対する尋問がなされた。

この一行の中に、隠密として高名な間宮林蔵も居た。

何でも、故郷である筑波の実家にも久しぶりに立ち寄るとのことであった。

「間宮林蔵殿も居たと申すのか。どのようなお人であった」

彦四郎からの問いに、利兵衛は簡潔に答えた。

「中肉中背、色の黒いお人で、眉は太く、目は大きく、やや丸顔とお見受けしました」

その後、齢は四十を少し越えているように思われました、と利兵衛は続けた。

異国人に対する尋問の結果、水戸藩の筆談役の見立て通り、イギリスの捕鯨船の船乗りであることが確認された。

この十二人の中には、最初に現われた黒船二隻の船長が二人含まれていることも判明した。二隻の船の船長が一艘ずつ伝馬船を出し、そこに船長自ら乗っていたという事実は幕府役人を驚かせた。

そして、上陸した理由も判明した。

船に敗血症の患者が発生し、野菜、果実、肉といった食料を求めるために上陸したということであった。鉄砲を四挺持参したのも、それらの食料品と交換する代価のものとして持参したということも判った。

その他、代金不足時も考え、羅紗を二反、金貨や銀貨も持参したとのことであった。

尚、通辞から、このところ、異国船の出没が増えているのは何故か、との問いがあり、これに対する答えとしては、日本近海で鯨が盛んに獲れるので、その鯨を捕獲すべく、捕鯨船が増えているのだ、という返事がなされた。

(鯨は日本の場合、浜に近づいてきた鯨を獲り、肉も食べ、鯨油も取るが、外国の捕鯨

船の場合は鯨油を取るための捕鯨であった。一航海が一年にも渡り、肉は船内で食べ

るだけで、腐るため、船内には貯蔵しない。貯蔵するのは腐らない鯨油だけであった。

鯨油は大樽に詰められ、全ての樽が満杯になったところで、航海は終わり、母港に戻

ることとなる。帰港後、鯨油はそのままの形、即ち、鯨油として利用されるか、加工

されて、蝋燭の原料とされる。鯨油から作られる蝋燭は本体が白く仕上がり、且つ、

炎が美しいということで高級品として流通したと云われている。多くの場合、マッコ

ウクジラが捕鯨対象となったと伝わっている)

幕府の尋問が終わり、幕吏から横文字の書付が異人たちの船長に渡された。

その書付には、今回の騒動には目をつぶるが、次回からは厳しく罰するという旨が書かれてあった。

利兵衛からの報告が済んだ後、彦四郎が不思議そうな口調で利兵衛に訊ねた。

「敗血症と申したのか。脚気とか壊血症とかは申していなかったか」

「敗血症と聞きました。敗血症とはどのような病気か、あいにく、存じてはおりませんが、船乗りの中では怖れられている病とか」

「しかし、それにしても、船を預かる船長自身が二人共、伝馬船に乗って、見知らぬ異国の地に上陸するとは。異国人の考え方はよく判らないが、怖れを知らぬ勇敢な者たちではあるな。ご公儀の御役人たちも、そのような異国人に意気を感じたのではあるまいか」

そのあとで、彦四郎は感心したような口振りで語った。

「利兵衛、おまえ、その委細はどこから聞いたのか。それだけの委細はなかなか聞けるものではないが」

右馬之助も感心したような表情を見せていた。

「運が良う、ございました。昨夜、泊まった旅籠に丁度、幕府のお役人がお泊りしていたのでございます。夜、水戸藩の藩士の方々と、ご宴会をされた折、洩れ聞いたという次第で」

「おお、洩れ聞いたと申すのか。しかし、そのような旅籠と雖も、警固の者が隣室含め、固めておるはずだが。果て、どこで、洩れ聞いていたのか」

彦四郎が笑いながら、利兵衛に訊いた。

利兵衛は少し渋い顔をしたが、正直に答えたほうが良い、と思ったのか、諦めたような口調で彦四郎に申し上げた。

「実は、宴会が行われた部屋の天井裏に潜み、耳をすまして聞いておりました」

「ああ、やはり、そうか。聞いたか、栄助。おまえも大した忍びであるが、ここにいる利兵衛も、なかなかの忍びよ」

栄助も彦四郎と利兵衛の遣り取りを聞きながら、にやりにやりとしていた。

利兵衛は忍びの術の中で、忍び込みが得手と話していたが、なかなかの者よ、と栄助は思っていた。


六月十一日 朝は霧、その後、晴れ


霧が晴れ、平潟沖の黒船はいつの間にか、姿を消していた。

栄助が大津に向かった。幕府並びに水戸藩の対応を確認するためであった。

彦四郎は、この大津浜での騒動も一段落した、近々、陣払いをするであろう、と皆に言い、念のため、栄助を確認に行かせた次第であった。

一件落着、との噂が小浜陣屋を駆け巡り、人々の緊張は次第に解けていった。

夕餉の席では、彦四郎の計らいで、膳に銚子が一本ずつ付いた。

無足人、御用意人が喜んだことは言うまでも無い。呑まない者の銚子は、しょうがないな、勿体ないからおいらが呑んでやるぞ、とすぐに、呑み助が取り上げた。

しかし、夕餉の座が乱れるということは一切無かった。斉藤周平、小林龍蔵といった武芸の達人が睨みを利かせている場で羽目は外せるものではない。皆、おとなしく戴いた酒を呑んでいた。市郎右衛門、利兵衛、要助の三人は夕餉の後、渋茶を飲みながら、大福餅を食っていた。三人の銚子を持っていった者が、代わりだ、食っておくんなんしょ、と持ってきた大福餅であった。市郎右衛門は大福餅を旨そうに平らげる利兵衛たちを、笑みを含んで見ていたが、やがて、ぼそっと言った。

「昨日、今日と泉に戻っていたが、どうも、ご家老様のご容体が思わしくないらしい。殿様も大層心配されて、江戸藩邸からご典医を泉に派遣されておられるが、ご典医の話を洩れ聞くところでも、大分いけないらしい。この夏を乗りきられるかどうか、ということだ。六郎様もここから泉にお戻りになられてから、枕元につきっきりで看病に当たられているというお話だ。彦四郎様は気丈なお方で、皆の前では明るく振る舞っておられるが、さぞ、お心を痛めておられることだろう」

万一の場合、章様とおきく様の御婚礼も延びることになるかも知れない、と要助は思った。延期という事態になったら、おきく様は悲しむことだろう、と思う反面、ずっと延びて欲しいという気持ちがおのれの中に芽生えていることにも、要助は気付いていた。

おいらは不埒な男だ、と要助は思った。甘い大福餅が急に苦いものに思えてきた。


六月十二日 晴れ


栄助が大津から戻り、昨日の大津浜での様子を報告した。

今回は例外のお沙汰であるとして、幕府から次のものが異国人に支給された。

林檎三百五十一個、枇杷四升、大根五十本、さつまいも三十二本、鶏十羽、酒五升。

これらの物を持たせ、イギリス人十二名を解放し、本船に戻した。

当初の予想に反して、まことに寛大な処置であった。

この処置に伴う御三方様の引き払い、陣払いもあると思われたので、そのまま滞在するつもりでおりましたが、確認したところでは、陣払いは明日に予定されているということでありましたので、本日は戻ってきた次第でございます、と栄助は語った。

御三方様というのは、水戸様、平潟村を領する棚倉藩の井上河内守様、大津村を領する水戸藩附家老の中山備前守様のことを指していた。

明日、御三方様の陣払いが滞りなく、終われば、この事件は一件落着でござります、と栄助は話を締めくくった。彦四郎から、的を得た偵察、まことに大儀であったとのお褒めの言葉があり、栄助は大いに面目を施した。

右馬之助から、要助に明日の陣払いの様子を確認するために、大津に出向くよう、命が下り、要助は喜び勇んで大津へ出立した。


戌ノ刻(午後十時)あたり、要助は大津村の村道を歩いていた。

水戸藩の陣屋に忍び、明日の陣払いに備える藩士たちの動きを具に観察した後で、街道筋にある旅籠に戻る道の途中であった。村は闇に包まれ、ひっそりとしていた。油を倹約するために、百姓たちは夜になると、すぐ寝てしまう。明かりを灯している百姓家はほとんど無かった。そして、長く続いた雨の季節も終わろうとしていた。

夏の夜の闇は濃い。ねっとりと膚に絡みつく蒸し暑さの中で、要助の忍びとしての感覚は異常を感じていた。忍びとしての経験は富んでいるわけではないが、ぞくりとする感じが歩いている背後に感じていた。この嫌な感じは何だろう、と要助は思っていた。

誰かに跡をつけられているのかも知れない。急ぎ足で歩く背後に、自分の歩きに合わせて歩く何者かの存在を感じ始めていたのである。

忍びに違いない。自分と同じ忍びが自分をつけているのだ。

道の傍らに、朽ちかけた祠があった。この祠に隠れ、相手を遣り過ごそうと思った。

要助は祠を通り過ぎると見せかけて、脇に跳躍し、その祠の裏に隠れた。

そして、夜目を働かせて、背後の闇を見詰めた。

じっと、見詰めた。

居た。

道に蹲っている者が居た。

要助はそっと、懐を探り、鉄の礫を二つ取り出し、両手で一つずつ握った。

相手も夜目が利いているらしい。蹲ったまま、何かを取り出した。

鈍い月の光を浴びて、何かぎらりと光るものを見た。

要助は不意に立ち上がり、十間(約十八メートル)ほど離れたところに蹲っている者を目掛けて、礫を右手で放ってから、ほとんど瞬時に左手でも礫を投じた。

右手から投じられた礫は辛くも避けたものの、ほんの少し、間をおいて放たれた左手の礫は避けきれなかったようだ。

ほとんど同時に、礫が二つ来るとは思っていなかったに違いない。

ぐえっ、と言う呻き声が一瞬聞こえた。

要助は走った。

闇の中の道を二町(約二百二十メートル)ほど走りに走って、足を停め、背後を見た。

追ってくる者はいなかった。

逃げきれたと思った瞬間、武者震いがした。暫く、震えたまま、じっとしていた。

やがて、震えはおさまり、要助はひとつほっと息を抜いた。

薄雲に隠れていた月がようやく顔を覗かせた。

満月に近い月の光が要助の顔を照らした。要助の顔はどこか晴れ晴れとしていた。


六月十三日(新暦七月九日) 晴れ、少々降雨あり


午ノ刻(正午頃)、要助が大津浜から戻り、御三方様の陣払いの様子を報告した。

未ノ刻(午後二時頃)になって、泉藩の陣払いが開始された。

申ノ刻(午後四時頃)を半刻(一時間)ほど過ぎた頃、本多彦四郎を先頭に、泉藩の軍勢が泉陣屋の表門に到着した。

表門の御橋の袂で下馬、陣屋の中に入った。

お館の玄関先で、全員で鬨(とき)の声を挙げた。

「えい、えい、おう」という勇ましい鬨の声が周囲に木霊(こだま)した。

この日、戻ってきた者、迎えた者、総勢で五百人を数えた、と云われている。

まさに、泉藩総揃い総出といった有様であった、とも伝えられている。


六月十四日 晴れ


小名浜代官が支配する幕領の四倉(よつくら)近くに久ノ浜という浜がある。

そこに、薬師如来を祀り、地元では俗に、波(はっ)立(たち)薬師(やくし)と呼ばれる波(は)立寺(りゅうじ)という寺がある。

ここの夏祭りが今日、明日の二日間にわたって行われる。

名物は善男善女が輪になって踊るじゃんがら念仏踊りで、この日は夜通し踊られる。

この祭りには、磐城平藩のみならず、近在の湯(ゆ)長谷藩(ながやはん)、泉藩の領民たちも踊りが楽しみで集まってくる。武士は藩と姓名を名乗るだけで、他藩の領内を歩くことができるが、武士以外は名主や檀那寺(だんなでら)の住職が発行する往来手形を持参して藩領の境にある番所で見せなければならない。但し、信仰のため、寺参りに行くとなれば、往来手形は無くとも、大目に見られたということであった。

磐城に住む者が年に一度の楽しみとして集まる祭りで、賑わいはじゃんがら念仏踊りが始まる頃から最高潮を迎える。この念仏踊りには鉦と太鼓が踊りに花を添える。チャンカ、チャンカと鉦が鳴り響けば、磐城の人々の心は浮き立ち、自然に踊りの輪ができあがる。

じゃんがら念仏踊りは男と女が出会い、知り合う場でもあった。

七月末の閼伽井嶽薬師のじゃんがら念仏踊りでは、踊りの中で男に袖を引かれた女はその男と交わりを結ばなければならないという決まりもあったと云われている。

それは、一夜だけのこととして済まされるが、中には、その一時の縁が生涯の縁となることもあったとも云われている。

四倉には利兵衛たちの遠い親戚が船持ちの漁師として住んでいた。

今年の夏祭りは黒船騒動で行けぬと思っていたが、昨日、泉に帰ることができ、利兵衛たちもいつものように、四倉の親戚の家に泊りに来ていた。

泉から四倉までは六里の道であったが、利兵衛たちの足から見たら、何と言うこともない道のりであった。明六ツ(午前六時頃)に泉を発ち、朝五ツ(午前八時頃)までには四倉の親戚である漁師の家に着いていた。

よく来たな、と利兵衛と要助は歓待された。漁師のもてなしは豪勢なものだった。

高価な雲丹、鮑の他に鰹の刺身を大きな皿に盛って、食え、さあ食え、もっと食え、とやかましく勧めるのであった。

小浜でも利兵衛たちにとっては毎日が豪勢な食事であったことは言うまでも無いが、他人の間で食事を摂るのと、こうして、気の置けない親戚の間で食事を摂るのはやはり違う。

冗談を言っては、笑いさざめきながら、本当に腹が膨れるまで食いに食った。

そんな利兵衛たちを見ながら、迎えた方は満足していた。

昼餉を摂った後、利兵衛たちは腹ごなしとして、四倉の浜辺を暫く歩いた。

この浜辺にも、赤い浜茄子の花が咲き誇り、浜辺中に芳香を惜しげもなく放っていた。

磐城の梅雨もようやく終わりを告げ、暑い夏の旬を迎えようとしていた。

音が聞こえてきた。浜辺の向こうから聞こえてきた。

浜辺の外れには小さな岬があり、隧道が掘られて浜街道は繋がっているが、その岬の向こうに波立薬師の波立寺があった。音はそのあたりから聞こえてきたのである。

懐かしいじゃんがらの響きであった。利兵衛たちの心も何やら躍ってきた。

そろそろどころか、もう始まっている。

そう思うと、のんびりと浜辺を歩いているのが、もったいないという気さえしてきた。

早く、行かなければならない。

要助の気持ちを察したのか、利兵衛も笑いながら、足を急がせた。

隧道を越え、波立寺に入った。既に、門前には行列ができていた。見物に訪れた侍もかなり居た。侍の中には、数人の小者を連れた身なりの良い武士も居た。

要助の眼は目敏い。見知った顔の若侍の姿を見た。本多章であった。若党と小者を連れて、へしあい、おしあいをする人混みの中をにこにこしながら、歩いていた。

しかし、混雑の中で、腰の刀が何かの拍子に別の侍の腰のものに当たったのかも知れない。矢庭に、一人の侍が無礼であろうと怒り出した。本多章も驚いたようであった。

これは、相すまぬことを、と章は詫びようとした。

どちらの刀がぶつかったのか、判然とはしないが、他藩に遊びに来ている章としては、とりあえず穏便に事を済まそうという考えがあったのかも知れない。

しかし、わざとぶつけられたと思った相手の武士は承知しなかった。

少し、酒も入っていたのかも知れない。章を見て、前髪に毛の生えた青臭い若侍と踏んだのか、怒りは一向におさまる様子が無かった。詫びかたが悪いと難癖をつけ始めた。

自然と、章とその武士のまわりには、人が居なくなった。

祭りの賑わいの中で、ぽっかりと穴があいたような空間が章とその武士との間にできた。

武士の魂を疵つけたからには、土下座して詫びよ、とその武士は居丈高に迫り、挙句の果ては、大刀の鯉口をきって、刀を抜こうとした。

抜かせたら、駄目だ、と要助は思った。抜けば、当然、斬り合いになる。

相手を斬っても、斬られても、侍である手前、無事に済むわけがない。

切腹して、死ぬことになるのだ。

要助は俊敏に動いた。

すっと、身をかがめ、地面の小石を拾った。

そして、ぎらりと抜こうとした相手の武士にその小石を投じた。

石の礫は誤たず、その武士の右手の甲に当たった。

痛っと、怯み、思わずその武士は蹲った。

利兵衛と要助はその間に、章に近づき、章の腕を取って、人混みに入り、人混みに紛れてその場を去った。章を連れて去りながら、要助はおきくの顔を思い浮かべていた。

これで、おきく様を悲しませることは無くなった、と思っていた。

腕を取られて、寺の門を出た章は少し青褪めていたが、利兵衛たちの顔を見て、安心したようだった。小浜に居た泉藩の者だと気付いた様子であった。

衣笠右馬之助殿の配下の者じゃな、と親しみを込めた眼差しで見て、かたじけない、と礼の言葉を述べた。

章と別れ、利兵衛と要助は波立寺に戻った。

「要助。以前、おいらが言った通りになったな」

利兵衛はにやりと笑った。

「おめえの、その礫の技のことよ。いつか、ひとを救うと、おいらが言ったろう。その通りになった」

利兵衛に言われて、要助も利兵衛の言葉を思い出した。

寺から少し離れた空き地で、じゃんがら念仏踊りが始まっていた。

これから、夜通し、じゃんがらの鉦や太鼓の調子に合わせて、踊りは続く。

近在の村から、じゃんがら念仏衆も何組か、鉦や太鼓を持って、集まってきたようだ。

賑やかさを増した踊りの輪の中に、利兵衛も要助も飛び込んでいった。

夜になると、村人の中には着ているものを脱ぎ、褌(ふんどし)一丁という姿になり、布の一端を尻にぶら下げ、後ろの人がその一端を自分の褌の前に挟み込むといった格好で、おのおのの褌を数珠繋ぎとして踊る男たちも出始める。

踊りながら、利兵衛が何か言った。

踊りに夢中になっていた要助は利兵衛の言葉を聞きとれず、訊き返した。

「兄じゃ、今、何と言った」

「夜になっても、褌姿にはなるな、と言ったんだ」

「おいらはならねえ。兄じゃこそ、気を付けな。去年は、褌一丁になったじゃねえか」

「覚えていやがったか。あの時は、踊りを見ていた小粋な女が悪かったのよ。そこのあんにゃ、おまえの褌姿、あたし、見たい、と言いやがったからだ」

「兄じゃの欠点、おいら、分かった。女に弱いんだ」

「要助、おめえこそ、今年は気をつけな。甘い言葉に乗るんじゃあねえぞ」

じゃんがらに付きものの即興の唄が聞こえてきた。

『おれとおまえは、米なら五合、合わせて一升にしてみたい』、『浅い川なら、膝までまくり、深くなるほど、帯をとく』、『星の数ほど、女はあれど、めざす女は、ただひとり』

じゃんがら念仏踊りは朝まで続く。

利兵衛と要助、暑い夏を迎えていた。


【 後日談として 】


この大津浜への異国人上陸事件絡みで、当時、人々に口ずさまれた狂歌がある。

具体的にいつ作られたのか,誰が作ったのか、判っていないが、巧いものだと右馬之助が感心して利兵衛に語った。

『なにをして いつまでここに 異国船 人さわがしに はやくいぎりす』

 五月二十八日に上陸し、六月十一日の釈放まで二週間ほどの滞在であった。


米は日本人にとって、貴重な主食であるが、イギリス人にとっては軟禁の間、これでもかと毎日、米飯を与えられたのは迷惑であったのかも知れない。

当時の記録に、上陸した十二名の異国人に対して、白米一升五合ずつ食べさせたが、米は毎日余った、との記述がある。

いくら、日本人と比べて身体が大きな異国人でも、毎日、一升五合は多すぎる。

一日、三食として、一回あたり、五合である。

いくら何でも、食える量では無い。

当時、無足人の給金として、三両一人扶持という給金体系もあった。

年に、三両の金と食い扶持一人前が与えられるという給与体系である。

この三両一人扶持で雇われた侍を、当時の人々は、三一(さんぴん)侍とからかい、馬鹿にしたと云う。食い扶持一人前は、一日に米を五合与えるということであり、年で換算すると、一石八斗という米の支給となる。当時の日本人の成人男子ならば、この米の量で間に合ったということであり、これから見ると、異国人に与えられた米の量は一升五合で、日本人の三倍となる。いくら、『おもてなし』の国であっても、これは過剰なおもてなしであった。


また、記録に、異国人が酒に酔って、なにやら、歌のようなものを唄い、仲間内で戯れる光景も見受けられた、との記述もある。大津浜滞在中は軟禁されていたものの、酒があたえられていたという事実を示すものとして注目される。

船乗りは洋の東西を問わず、マドロスさんで酒が大好き、であったのだろう。


この大津浜事件が終息した後、その年の八月、病床に臥せっていた本多忠順が卒去した。

その跡目は長男の本多六郎が襲い、家老職も受け継いだ。

 この月、利兵衛と要助の兄弟にとって、朗報が入った。

 大津浜事件での利兵衛たちの忍び働きが認められ、泉藩の徒士(かち)無足(むそく)に利兵衛が取り立てられたのである。波立薬師で本多章の急場を救ったということも、或いは、あったのかも知れない。三両二分二人扶持という給金が与えられた。

 利兵衛、要助は勿論、おときにとっても、ありがたい話となった。

 最低限ではあったが、暮らしの目途が立ち、少なくとも、飢えるという苦しみは無くなった。おときは、妾奉公の話を断り、利兵衛と将来を約束する間柄となった。


本多忠順の死で、秋に予定されていた章とおきくの祝言が翌年の春に延びた。

春、衣笠家を出立するおきくの婚礼の一行を、路地の片隅で見送る要助の姿があった。

温暖な磐城の地であったが、季節外れの雪が降り、婚礼の列が歩む道をほんの少し、白くさせていた。雲間から陽が射し込み、降った雪をきらきらと輝かせていた。

要助は菅笠の下から、白無垢の練(ねり)帽子(ぼうし)を被り、馬に揺られていくおきくの姿をじっと見詰めていた。


この大津浜事件が起こった翌年の文政八年二月、幕府は異国船に対する無二念打払令を出し、鎖国体制を古来からの祖法、国是とした。

逆に言えば、この大津浜事件が契機となって、幕府としては、我が国は昔から鎖国をしているのだと言う認識を改めてしたわけであり、それまでは鎖国をしているという認識があまり無かったということになる。

この無二念打払令以降、異国船が沿岸に近づいた時は、容赦なく、無条件に攻撃をして構わない、という態勢になった。


三年ほど過ぎた、或る夏の日のことである。

泉陣屋から少し離れた小高い丘に、生蓮寺というお寺がある。

泉藩士の多くがこの寺を菩提寺としている。

或る墓石の前に、要助が佇んでいた。

木立の中からは、蝉の声が寺の静寂をことさら破るように聞こえている。

かまびすしい蝉の声はあたりの暑さを殊更増しているようであった。

要助は手に浜茄子の花を数輪持っていた。

その浜茄子は今朝、小浜の浜に行き、砂浜に咲いていた浜茄子であった。

要助はその花を墓石に手向けた。赤い花びらが風にひらひらと揺れた。

この寺は曼珠沙華が群生する寺として知られ、秋の彼岸の頃には、血のような真っ赤な花を咲かす。彼岸花とも呼ばれる、不気味に赤いこの花はこの地方では、じゃんぽんばな、とも呼ばれている。じゃんぽん、すなわち、葬式が似合う、不吉な花と見られている。

要助は思っていた。

かの人は昨年、じゃんぽんばなが咲く頃に逝ってしまわれた。

享年十七という、墓石に刻まれた齢がまことに切ない。

そして、今、新盆の季節を迎えている。

どこからか、新盆廻りのじゃんがらの道中太鼓の囃しが聞こえてきた。

かの人はお産の時に、赤子と共に、お亡くなりになった。

残された夫の亀田章様は近々、新しい奥様をお貰いになられるそうだ。

利兵衛兄じゃとおとき姉の間には赤子が生まれた。

死ぬ生命(いのち)もあれば、新しく生まれてくる生命もある。

これがこの世の常か。

要助は暫く佇み、かの人、おきく様のことを想っていた。

時々は、この寺に来て、蝶でも飛んでいれば、あの時のように、両手を網にして捕え、またおきく様に見せてやりたい。

おきく様はまた、あの時のように、にっこりと微笑んでくれるに違いない。

おいらもいつかはあの世へ行く。あの世で、おきく様と会うかも知れない。

そして、人はまた、この世に生まれ変わる。おいらとおきく様も生まれ変わる。

その時は、同じ身分の者同士に生まれ変わりたい。おきく、と呼べる身分に。


暑い夏の日のことであった。

蝉がまたひとしきり鳴いている。

要助はまだ佇んでいる。





【参考文献】

『奥州泉藩 黒船異聞』水澤松次編

『文政七甲申夏異国伝馬船大津浜へ上陸幷諸器図等』加藤松籮編

『いわき市史』第九卷 泉藩

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浜茄子の花の咲く頃 第五章 完結 三坂淳一 @masashis2003

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