浜茄子の花の咲く頃 第四章

三坂淳一

浜茄子の花の咲く頃 第四章

市郎右衛門も言った。

 「おいらは、変装術かな。隠密仕事では七方出と言って、変装術が役に立つ」

 七方出というのは、七種類の人間に変装する術であり、露見しない程度の下地は勿論必要となる。虚無僧に化ける時は尺八が吹けなければならないし、出家した僧に化けるならば、お経の一つはすらすらと読まなければならない。他、山伏、商人、放下師(ほうかし)、猿楽師、常の形(なり)(武士とか百姓)の五つが七方出の術に含まれる。

 権八も猪口を干しながら、言った。

 「おいらは、体術、特に柔だな。この小さなからだが柔では案外武器になる」

 利兵衛は遠慮がちに言った。

 「おいらは忍び込みがどちらかと言えば、得手のほうで。この要助は礫の術が得意です」

 栄助は、礫が得意と利兵衛から聞いて、要助のほうを見た。

 「礫が得手かい。おいらも手裏剣術は心得ているほうだが、実は、礫のほうが実戦においては向いているのではないかと思っているんだ。棒手裏剣は間合いが難しく、間合いの見切りを誤ると、上手く刺さらないものだ。その点、礫は狙ったところに当たれば、それて用は済むからな。で、どのくらい、当てられる」

 栄助に問われて、要助は利兵衛の顔色を窺った。

 利兵衛は頷き、話してもいい、というような顔をした。

 「十間ほどなら、一寸の的に当てられます。二十間なら、五寸の的に」

 「ほう、それは頼もしい」

 「おいらはからだの動きは機敏なほうだけんど、弟の礫はよう避(よ)けきれません」

 その話が契機となって、いつの間にか、忍び談義に話が弾んだ。

要助は栄助たちの話に耳を傾け、聴き入った。こんな機会はまたと無い。

 要助はわくわくしながら、栄助たちの話に聴き入った。

 

一刻(いっとき)ほどして、五人はその酒屋を出た。

 夜空には満天の星が輝いていた。要助は浜辺を少し歩いてから帰ると利兵衛に言い、皆と別れた。あたりは暗かったが、要助は夜目が利く。

 時々、御用意人による忍び夜廻りに遭遇することもあったが、要助は都度、気配を絶ち、誰何(すいか)を受けずに忍び夜廻りを避けて歩くことができた。

 気配を絶って、物陰に潜めば、気づく者はいなかった。

 或る一軒の農家の庭で、忍びあう男女の姿を見かけた。痩せた男と背の高い女が抱き合っていた。女が低い声で呟き、男が時々頷いていた。

 要助は気付かれることなく、その男女の脇を通り過ぎた。

 足音を消して歩きながら、ふと、おきく様のことを想った。

 どこからか、浜茄子の甘い香りが漂ってきた。

 波の音がひそやかに聞こえていた。

 朔日で、月は無かった。


六月二日 曇り、夜になって大雨


海上は深い霧に覆われ、平潟沖は終日霧の中だった。

吉田庄五郎が磐城平藩陣所の警戒の様子を探るために、関田に出向いた。

庄五郎は旅人の格好をして小浜を発っていった。栄助たちとは異なり、庄五郎は忍びでは無く、隠密だった。忍びは隠密の仕事もできるが、隠密は忍びの仕事はできない。

しかし、庄五郎は忍び働きを卑しいものと考えているようであった。

栄助たちの前では決して、忍びを馬鹿にするような言動は慎んでいたが、栄助たちには分かっていた。忍びは人の心を読む修業もさせられる。得手、不得手は忍びによって多少はあるものの、庄五郎の微かな表情の動きで栄助たちは庄五郎の本音を察することができた。引き廻し合羽に手甲を付け、振分荷物を肩にかけ、脇差を小袖の帯に差し、股引を穿いて脚絆を足に巻き、菅笠を被って小浜村を出て、関田に向かったのである。

市郎右衛門は庄五郎の出立の格好を見て、傍らで見ていた要助に囁いた。

「見ねえ、庄五郎さんの格好をよ。恰好は旅人だけんど、左肩が妙に下がっていりゃあ。本人さまは気付かねえものの、いつも、二本差しでいるから、あのようにいつの間にか、左肩が下がって固まってしまうのよ。あれじゃ、恰好は旅人でも、見る人が見りゃあ、侍だと一目で判ってしまう。おいらたちは侍のはしくれでも、常日頃、二本差しではいねえから、左肩は下がっていねえ。要助、おめえも気をつけろよ。気づかれりゃ、命が無くなることもあるものだ。他藩の隠密と判りゃあ、その場でばっさりだ。文句は言えねえ」

市郎右衛門は冷たい視線で、足早に去っていく庄五郎を見送った。


明六ツ(午前五時頃)に大津へ出向いていた栄助が昼九ツ(正午頃)には小浜に戻ってきた。押し込められている土蔵から一人ずつ、異人が名主宅に呼び出され、筆談役を交えて尋問を受けているようだ、との報告がなされた。尋問の結果の委細までは判らないものの、異人たちに危害を加える様子は皆目無し、との報告であった。

昼八ツ(午後二時頃)近く、平潟沖のほうから、霧を破って、大砲の音が二回ほど聞こえた。


昼八ツ半(午後三時頃)、市郎右衛門、利兵衛、要助の三人が百姓のなりをして大津に出立した。

要助は嬉しそうな顔をしていた。

夜四ツ(午後十時頃)を過ぎたあたりから、大雨となった。


六月三日 終日、大雨


辰ノ刻(午前八時頃)近く、大雨の中、要助が戻り、昨夜の大津浜の様子を伝えた。

昨夜、戌ノ刻(午後八時頃)あたりで、土蔵から異人たちが六人、逃亡した。

「夕餉の食事を摂った後で、監視の目を潜り、逃げたとのことでございます。早速、浜のほうを捜索したり、山手のほうを捜索したり、大変な様子でございました。それでも、結局は、裏山のほうで、茂みに蹲って隠れているのを見つけ出し、ひっ捕らえたということでございます。ただ、雨が降っておりましたので、六人ともずぶ濡れで、遠くまでは逃げることは叶わなかった模様でございます」

その後、六人はまた土蔵に押し込められた。

「この捕り物騒ぎには面白い逸話がございまして」

と、要助は続けた。

「この捕り物の際、捕り方に向かって一人の異国人が手向かってきたのでございます。ただ、この捕り方衆の中に一人、柔の達人がおりまして、手向かってきたその異国人をえいやとばかり、柔の術を使って投げ飛ばしたそうでございます」

「おう、そのような武勇伝があったのか。それは、面白い」

右馬之助が興味深そうな顔をして言った。

「はい、見事に投げ飛ばしたそうでございます。その柔の達人というのは、並みの男よりも少し小柄な男でありましたが、柔よく、剛を制すという言葉がありますように、向かってきた大男の異国人を何でも、山嵐とかいう大技で投げ飛ばし、気を失わせたということでございます」

「山嵐、という技なのか」

「小柄な男が大きな相手を相手の力を利用して投げる技ということでございます。何でも、その達人は本来は左利きで、刀は勿論右手で使うよう直されてはおりましたが、何と言っても、とっさの場合は本来の左利きに戻ってしまうのだそうでございます。異国人が襲ってきたその時も、左手で相手の半纏の右袖をまず掴み、そこに右手を相手の半纏の右襟に添えて、右の腰を入れて左方に投げ飛ばしたそうでございます。異国人はこの大技で一間も飛ばされ、地面に叩きつけられ、あえなく気を失ったということでございました」

要助は更に続けた。

「今朝、戻りがけに、その柔の達人を見てまいりました。昨夜の評判はすぐに陣所に伝わり、お手柄であったと皆がその郷士を囲んで誉めそやしておりましたので、すぐ判りました。小柄でありましたが、衣服の上からも筋肉が隆々としておる様子は見て取れ、少しぎょろめでありましたが、まさに、眼光炯々、柔の非常なる遣い手と思われました」

「大儀であった。朝餉を摂って、ゆっくり休むがよい。それはそうと、利兵衛は如何した」

「兄者は市郎右衛門さまと一緒に居ります。本日の様子を確かめてから、小浜に戻ってくるものと思います」

馬之助の許を去って、要助は庄屋宅の朝餉の席についた。

どんぶり飯と味噌汁の他に、葱が入った引き割り納豆、大根と人参の煮しめ、それに、昨夜の残りという山鯨のしぐれ煮が付いた。要助の食欲は旺盛で、お代わりをしたどんぶり飯に引き割り納豆を入れた味噌汁をかけ、さくさくと飯を平らげた。給仕についた婢(はしため)が笑いながら、要助に、おめえさまは若えから、いっぺえ、食って、大きくなんなんしょ、と言って要助の顔を赤くさせた。

巳ノ刻(午前十時頃)、大雨の中、沖合から大砲の音が雷の如く、四方に響き渡った。


申ノ刻(午後四時頃)、利兵衛が戻り、この日の大津浜の様子を伝えた。

昨夜は土蔵から逃げ出したこともあり、異国人たちは土蔵から海岸の陣所に作られた小屋に移送された。その小屋は竹矢来に囲まれており、中山備前守信(のぶ)情(もと)の家臣・松岡勢によって厳重に警固された。一人ずつ、小屋の中から引きだされ、陣所の中で筆談役を交え、尋問が始まった。筆談役は水戸藩から出張ってきた会沢恒蔵(後の正志斎、この時四十二歳)と飛田勝太郎の二人であった。筆談の結果は不明でございますが、市郎右衛門さまが残っておられるので、何か聞き出してこられるかも知れません、と利兵衛は語った。


その後、吉田庄五郎が戻り、棚倉藩と平藩の領内の海岸警備と出兵の様子をこと細かく報告した。要助も縁側に控えて、庄五郎の話を聞いていたが、庄五郎の息が臭いのに気付いた。酒臭かったのだ。

後で、利兵衛が笑いながら、言っていた。

庄五郎殿はさぞかし、関田の宿で深酒をしたのであろう。

小浜で呑めない分、思いっきり呑んだのであろう、と。

海上、ますます霧が深く、数十間先も見えず、という状況になった。


夕七ツ(午後五時頃)、栄助が猟師を九人連れて、小浜に戻ってきた。

彦四郎の命を受け、渡辺村に出向いていたらしい。

猟師はいずれも屈強な男たちで、齢はさまざまであったが、精悍な顔立ちをしていた。

そして、いずれも揃って、無口で無愛想な男たちであった。

これは、先月から御用意人として小浜陣屋に居る下川村の九人を五日間だけ、村に帰すための算段であった、と利兵衛たちは栄助から聞いた。

田の草取りとか、しかるべき農事がいろいろとあって、下川村の名主からお願いされておられたらしいよ、と栄助は言っていた。

猟師とは大違いで、下川村のこの百姓たちは揃いも揃って、いつも冗談ばかり言ってはへらへらと笑っている賑やかな者たちであった。

同じ人間なのに、育つ環境によって、えらく違ってくるものだと要助は思った。


六月四日 晴れ


昨日の大雨とは打って変わって、空はよく晴れた。

平潟沖までよく見えていたが、目指す黒船の姿は無かった。

朝方、彦四郎が小林龍蔵を呼び、下川村から来た御用意人九人に五日間の暇を与える旨、下川村名主の鈴木八右衛門に告げよ、と命じた。この命を受け、小林龍蔵は九人の百姓たちを連れて、小浜陣屋を出立した。小林龍蔵は七石役高六石三人扶持を戴き、大小姓で吟味役も兼ねていた。齢は三十歳少し前の若侍で、いつも微笑を湛え、朋輩からは微笑み龍蔵という仇名で呼ばれていた。一見、優男風ではあったが、棒をよく遣い、裸になると、その筋肉は隆々としているとの評判もある侍でもあった。


昼になって、大津から市郎右衛門が戻り、大津浜の様子を報じた。

筆談の結果、異人は当初、ロシア人と思われていたが、イギリス人であることが判明した。新事実としては、その程度であり、その後も尋問は続いているとのことであった。

また、市郎右衛門は大津に戻って行った。市郎右衛門に要助が同行して行った。

要助は関田の物見として行ったのであった。

その後、二刻(ふたとき)ほどして、要助が戻ってきて、平藩の二番手の部隊が申ノ刻(午後四時頃)に関田宿に到着した旨、報告がなされた。

総勢七十から八十人ほどの軍勢で、郡奉行、代官、火番、大筒方、徒目付、同心小者を交えた部隊で、中に、筆談役も居るようであった。


夕方、利兵衛と要助は小浜の浜辺をぶらぶらと歩いた。

波は穏やかで、波打ち際に寄せては白い飛沫を上げていた。

「今頃、おときさんはどうしてるかな」

要助の言葉に、利兵衛は少し驚いたような顔をした。

「どうしたも、こうしたもねえよ。相変わらず、おっかさんの世話をしているよ」

「兄じゃ。おときさんを嫁にはしないのか」

要助の言葉に、利兵衛の表情は曇った。

要助に向き直り、噛んで含めるような口調で言った。

「要助よ。おめえはまだ、この世の中のからくりが判らねえ。判らねえんで、そんなことを言うのだろうが、まあ、考えてもみねえ。後先の考えなしで、おいらがおときと一緒になったら、どうなると思う」

要助はじっと利兵衛を見た。利兵衛は続けた。

「今でも、ろくなものも食えねえというのに、おときとおふくろ、おいらたち、この四人は本当に食えていけるかい。霞でも食っていかなければならなくなる。おめえはここんとこ、庄屋さまのうちで、飯がたらふく食えて、本当にありがたいと思っているだろう。食えなきゃ、人は衰えて死んでしまう。しかし、米を買うにも、納豆を買うにも、豆腐を買うにも、先立つものが無ければいけねえ。つまり、銭が無ければならねえんだ。おいらたちにも、もう家にあるもので売れるものなんか、残っちゃいねえ。おときんちも同じで、売れるものは全部、売り尽くし、今着ている小袖が最後の一枚で、着た切り雀、といったありさまなんだ。おふくろさんの薬代だって、この頃は払っちゃいねえ。お医者の情けに縋っているありさまだ。栄助さんとか市郎右衛門さんだって、あれっばかりの給銀では到底やってはいけねえ。恋女房を縄暖簾で働かせたり、渡辺宿のあきんど宿の手伝いをさせているという話なんだ。まして、おいらたちは決まった給銀も無く、先だってのように、お勤めの都度、一分銀を一枚とか二枚とか戴くだけの身分でしかねえ。この先の見通しなんて、これっぽっちもねえ暮らしなんだ。好きあった者同士がそのまま一緒になれる、極楽みたいな世界じゃあ、ねえんだ。残念ながら、な」

利兵衛はこのように語り終えた後で、ふと、身をかがめ、足元の小石を掴み、おもいっきり、海に向かって投げた。石はそのまま闇に消え、潮騒だけが耳に残るばかりだった。

兄じゃに悪いことを訊いてしまった、と要助は砂を噛むような思いで後悔していた。


六月五日 曇り


朝方、村で騒ぎがあった。心中があったらしい。要助は行ってみた。

昨日の夜半に心中し、今朝、畑に行く村人が発見した。

既に、蓆が被され、心中の遺骸は見えなかったが、要助の見ている前で、村役人が来て、検分のため、蓆を捲った。要助には見覚えがある顔が二つ並んでいた。

四日前の朔日の夜、夜歩きの時に見たあの若い男女であった。

暗い中、百姓家の庭先で抱き合っていた男と女だった。

要助は忍びの訓練で夜目が利く。あの者たちに間違いないと要助は思った。

男は柔和で気の弱そうな顔をしていたが、死に顔は目も当てられないほど、苦しんで死んだ顔をしていた。女は少し顎が出ている勝気そうな顔をしていたが、死に顔は安らかだった。少し、微笑んでいるようにも思えるくらいだった。

女は胸を一突きで刺され、即死と思われたが、その後で、男は自分の胸を何度も刺したが、死にきれず、最後は、猫いらずでも飲んだらしい。苦悶して死んだ様子が男の顔に現われていた。周りを取り囲んだ村人の口からさまざまな話が要助の耳に入ってきた。

死んだ女には妾奉公の話が出ていた、とか、病気の父親を抱えて苦労していた、とか、死んだ男にも借金絡みの気にそわぬ婿入りの話が出ていた、といった嫌な話が飛び交ったいた。その中で、誰かが呟くような口調で言った。

「心中は ほめてやるのが 手向けなり」

その言葉に反応する者もいた。

「死んで花実が咲くものか」

声高にそう言う者に反発する者もいた。

「死んで、あの世で夫婦として生きる者もいるのだ」

そのしんみりした言葉に同調する者もいた。

「死ななきゃ、添えぬ縁もある」

年配の女が一人、死骸に近づき、足元に桔梗の花をそっと置いて去った。

埋葬は許されず、遺骸は取り捨て、と決められている心中者に対しては、弔いはできない。せめてもの手向けの花か。青紫色の花は見る者に鮮やかな悲しみを与えていた。

ふと、要助は村人の中に、利兵衛の顔を見た。沈鬱な顔をしていた。哀しげな顔もしていた。兄じゃは悩んでいる、と要助は思った。

要助は見番所に赴き、遠眼鏡を借り、平潟沖を見た。

海上は晴れてきたが、異国船の姿は見えなかった。


未ノ刻(午後二時頃)になって、衣笠儀兵衛が馬に乗って、陣屋を訪れた。

儀兵衛は右馬之助の父で、中老で二百石という俸禄を戴いていた。儀兵衛という名前は代々衣笠の当主が受け継ぐ名前で、今の儀兵衛がお役目を退き、隠居をすれば、右馬之助がその名を継ぎ、儀兵衛となる。大柄でやや肥満気味の儀兵衛は壮年の頃は泉藩の槍術師範としても名を馳せていた。柔和な微笑を絶やさない侍で、この時、齢は五十を数えていた。利兵衛たちの父、理介はこの儀兵衛に仕えていた。理介亡き後は、利兵衛を嫡男右馬之助付きの忍びとして雇い、何とか暮らしていけるよう、計らったのも儀兵衛であった。

挨拶に赴いた利兵衛たちに温かい眼差しを向けた。特に、要助の成長には驚きの眼を向け、あの小さい要助がこのように大きくなったと言いながら、我が子を見るような、心に染み入るような笑みを見せた。その後、何かの足しにせよ、と利兵衛に何枚かの銀子を渡した。

この日、大津浜に関する新しい知らせは何も無かった。


六月六日 晴れ


平潟沖は晴れていたが、黒船の姿は無かった。

未ノ刻(午後二時頃)、江戸詰めの本多章(あきら)が江戸勤めの藩士を連れて、小浜陣屋を訪れた。章は彦四郎の実弟で、忠順の四男であった。七十石で近習刀番を勤めていたが、齢は要助と同じ十八歳であった。秋に、百三十石を戴く亀田の家に養子として入り、冬になる前に、衣笠のおきくと祝言する運びになっていた。要助より小柄であったが、眉目秀麗で、まだ少年の面影を宿していた。いかにも貴公子然としていたが、笑うと人を惹きつける爽やかさがあった。要助は、おきくと夫婦になる章を間近で見た。

おきくの夫となるこの若い侍に嫉妬とか嫉みといったものは一切感じなかった。

ただ、哀しみを覚えた。生まれた時の境遇の違いがそのまま、身分の違いとなる現実の哀しさを感じただけであった。


未ノ半刻(午後三時頃)、本多六郎忠貞が陣屋廻りに訪れた。

彦四郎の兄で忠順の長男、嫡男であった。忠順が隠居すれば、この六郎が家老となる。

この時、齢は二十五歳に過ぎなかったが、既に貴人の趣が感じられる青年であった。

彦四郎同様、白皙長身で顔は細長く、顎はすっきりとして鰓が出ていない貴人顔であった。言語が明瞭で爽やかな印象を人に与えた。

六郎の到着で、彦四郎、亮太郎、章と本多四兄弟がこの陣屋で顔を合わせるということになった。庄屋の豊田與右衛門は大いに恐縮がり、武士用の玄関に招き入れ、奥の部屋に六郎以下兄弟四人を鎮座せしめ、歓待相勤めたことは言うまでも無い。

長兄に対する挨拶の後で、章は、父上のご様子は如何か、と訊ねた。

六郎は少し沈鬱な表情を浮かべた後で、思いきったように語った。

思ったより、重篤な病であり、この夏を何事も無く過ごせるかどうか、目下のところでは何とも言えない、と語り、その後で、万一のことも考えておくように、と付け加えた。

兄弟四人でそれぞれ近況を語り合った後、六郎は陣屋の見廻りに出向いた。


見廻りの後で、右馬之助、甘南備次郎太夫、中村弁之助、斉藤周平といった主だった家臣を一堂に集め、殿様の格段のご高配により、ここに出張った無足人衆にお手当金を支給することと相成った、と言う有難い知らせを伝えた。

三十一名の無足人に対して、一律七百文ずつを支給するというものであった。

支給対象となった無足人たちが喜んだことは言うまでもない。

この小浜じゃ、酒はご法度で呑めないが、なあに、在所に帰りゃあ、悠に七日は呑むことができる、と不謹慎なことを声高に言う者も居た。

当時の物価は百文で米が一升三合ほど買え、酒も上等な酒を四合ほど呑めた。

住み込みの下女の給金が一日五十文という時代の七百文であり、収入の少ない無足人に取っては、まことに嬉しいご褒美であった。煮売り酒屋ならば、夕飯代わりに酒を二、三合呑み、肴を二、三品ほど取って、どんぶり飯を食って、大体百文で済んだ。

利兵衛と要助は右馬之助抱えの忍びということで、このご褒美には預からなかったが、利兵衛は右馬之助と儀兵衛から貰った一分銀を何枚か懐中深く持っていた。

一分銀は四枚で一両となる。一両は四千文である。

つまり、一分銀一枚の値打ちは千文であった。

これで、当分おいらたちは飢えずに済む、と利兵衛は思っていた。

時々、懐中に手を遣り、一分銀を確認してしまう癖がついた利兵衛であった。


六月七日 快晴


明六ツ半(午前七時頃)、庄屋宅の台所近くの座敷で他の無足人と共に、利兵衛と要助が朝飯を食っていると、市郎右衛門が板の間を通って入ってくるのが見えた。

市郎右衛門も二人に気が付き、にやりと笑った。

朝飯はいつものように、野菜の煮しめ、葱を入れた納豆、若布の味噌汁といったところだったが、今日は特別に、白身の魚を磨り潰して焼いたものが一皿出た。

醤油をかけて食うと、熱々に焼いたすり身が香ばしい味を醸しだして、なかなか旨かった。薬食いの肉もいいが、こっちのすり身の焼いたやつも旨い、と要助はにこにこしながら食った。朝餉の後、市郎右衛門に誘われて、浜を歩いた。

大津から昨夜戻って来た市郎右衛門は、今は水戸藩のお調べが毎日続いているが、近々江戸の幕府からも役人が大津に来て、直に取り調べるらしいという噂がある、と利兵衛たちに話した。水戸藩では幕府の役人に対する応接に粗相があってはならないと、迎えの準備で緊張が高まっていた。これも噂であるが、と前置きして、幕府隠密として名高いあの間宮林蔵もその一行に含まれているらしい、と話した。

利兵衛も要助も、間宮某という人物に関する知識は無かったが、市郎右衛門によれば、隠密の鑑とでも言うべき侍で、常陸国の筑波の出身で、何でも樺(から)太(ふと)という北の果てにある島を幾多の艱難を乗り越えて探索して詳細な地図をつくり、幕府に献上したという偉い隠密ということだった。もっとも、それ以上のことは市郎右衛門も知ってはおらず、もし、大津に来たならば、どういう男か、何とか見てやりたいものだ、とも話していた。

市郎右衛門と入れ代る形で、栄助が大津に出立した。

海上はよく晴れ、平潟沖はすっきりと見えていたが、黒船の姿は認められなかった。

利兵衛と要助は終日、市郎右衛門の傍らを離れず、これまでの忍び働きのことなどを訊いて過ごした。磐城平藩の城下町で見聞した話、龍ケ城と呼ばれる磐城平城の様子など、市郎右衛門の話は尽きず、利兵衛たちにはとてつもなく面白かった。

市郎右衛門が語った話の中にこんな話もあった。

「もう、百年近く前の話だが、磐城平のお殿様は、今は日向の延岡に居られる内藤様だった。内藤様は我が本多のお殿様同様、ご譜代のお殿様で、公儀のお手伝い普請に殊の外熱心なお殿様でのう。莫大な借財をつくっても、お手伝い普請を一生懸命なさった、ということだ。しかし、その付けは百姓に来てのう。年貢を六割も取っておきながら、尚、上げようとしたらしい。百姓どもは怒って、一揆を起こした。何と、全藩挙げての一揆となり、数万人の百姓が、さっきおいらが話した龍ケ城を取り囲んだらしいて。囲まれて籠城はしたものの、米が無くなっての。湯長谷藩から、米を借りて急場を凌いだという話が有名な話となってござるわ。この話は湯長谷藩の忍びから聞いた。今でも、湯長谷藩の自慢話になっているらしい。一揆勢が囲む中を、米俵を積んで、百姓を威圧しながら磐城平城に入った武勇伝としてな。内藤本家を内藤分家が救ったという武勇伝よ。まあ、一揆の話は本当にせよ、この武勇伝、本当かどうかは知らんがのう。その後、一揆を起こさせた責任を問われたのか、内藤本家は延岡に飛ばされたということだ。磐城から延岡まで、気の遠くなる道のりだ。一揆を起こさせた罪は高くついたものだ」

と、話しながら、市郎右衛門はにやりと笑った。

要助は市郎右衛門の話を聴きながら、いつかはおいらも密命を受けて、他藩の領地に潜入して忍び働きをしたいものだ、と思っていた。


六月八日 朝は霧、昼頃より晴れ


朝方は霧で平潟沖は見えなかったが、午ノ刻(正午頃)あたりから、急に霧が晴れ、平潟沖の眺望がひらけた。驚いたことに、異国船が四隻も出現していた。

見番所からの知らせで、小浜陣屋の中に緊張がはしった。

未ノ半刻(午後三時)、栄助が大津から駆け戻り、彦四郎たちに大津浜の様子を報告した。

突然出現した異国船から大津浜に向けて、伝馬船が出され、渚に近づいたところでその伝馬船から黒ん坊が二人、渚に下り立つのを目撃した。その黒ん坊たちは何やら書簡のようなものを携えていた。その書簡は浜の漁師から水戸藩士に渡された。

その水戸藩士は異国人を収容している浜の小屋にその書簡を持参し、異国人に渡した。

書簡は筆談役を経由しなかったので、書簡の内容は残念ながら判明しなかった。

書簡を渡した後、伝馬船は母船に戻っていき、その後、異国船四隻は大津沖を離れ、行方知らずとなった。そこまで、見定めてから、大津浜を離れ、帰路に着いた。

途中、関田浜と小浜の間にある中田の浜に異国人が乗った伝馬船が漕ぎ寄せ、何人かが中洲に下りたという話も聞きましたが、帰りを急いでおりましたので、これが事実かどうかは確認しておりません、と栄助は続けた。

栄助の言う通り、見番所からも異国船はいつの間にか、消え去ったとの報も入っていた。

海はきれいに晴れ渡り、異国船が突然出没し、突然消え去った平潟沖は平穏を取り戻していた。

要助は海辺を歩いていた。丘には紫陽花の花が、浜には浜茄子の花が今を盛りと咲き誇っていた。ひらひらと飛ぶ蜻蛉を見掛けた。羽黒蜻蛉だった。この蜻蛉は蝶のようにひらひらと、蜻蛉にしてはまことに頼りなく飛ぶ。少し、飛んでは、飛び疲れたかのように、羽根を垂直に折りたたんでとまる。

要助には懐かしい蜻蛉だった。

小さなおきくが、この黒い蜻蛉は何、と女中に訊ねていた。

女中は笑みを見せて、おきくに言った。

「おきく様、この蜻蛉は羽黒蜻蛉と申します。今頃の季節に、きれいな小川のあたりを飛びまわる蜻蛉です」

「羽根が黒いから、羽黒と言うの」

「そういうお話もございますが、わたくしの聞いたところでは、おきく様のお母上のように、歯を黒くお染めになることをお歯黒をつけると申しますが、そのお歯黒から名前を取ったというお話でございます」

「蝶のようにぱたぱたと飛び、すぐとまるのよ」

「飛ぶのは、きっと、たいへんなのでしょう」

「疲れて、すぐ休む、なまけとんぼ、ね」

そのなまけとんぼを両手を広げて追いかける、おきくの姿を要助は懐かしく思い出していた。衣笠の屋敷の庭で紫陽花が咲き乱れていた。おきくが七歳、要助が十歳の夏だった。

浜辺には少し風が吹いていた。要助は潮のにおいに満ちた空気を胸いっぱい吸い込んだ。

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浜茄子の花の咲く頃 第四章 三坂淳一 @masashis2003

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