浜茄子の花の咲く頃 第二章

三坂淳一

浜茄子の花の咲く頃 第二章

風が吹いていた。穏やかな風だった。空はよく晴れ、雲一つ無かった。

遥か彼方に見える水平線が微かに湾曲して見えていた。

海は凪いでおり、穏やかな波が浜辺に押し寄せてきては、また静かに沖に返していた。

海(うみ)鳥(どり)が数羽、白いからだを見せて、青い空を悠然と飛んでいた。

「要助、あの白い海鳥は鵜(う)という海鳥だ。浜に近いところに島があるだろう。右手に見えるあの聳え立っている小さな島だ。あの島が鵜のすみかと云われておる」

「兄じゃ、あの島の名前は何と言う」

「確か、照(てる)島(しま)と言ったはずだ。てる(・・)はお日様が照るのてる(・・)だ」

照島と呼ばれる島は浜辺より百間ばかり沖合にぽっかりと浮くように屹立していた。

高さは二十間ばかりで、白い剥き出しの岩肌を崖のように見せていた。

島の頂には松が数本立っており、目に鮮やかな緑の葉を繁らせていた。

鵜は渡り鳥で秋に飛来し、冬をここで過ごして、春にはまた北に帰ると云う。

帰りそびれた鵜が数羽、松の木の上をぐるぐると飛んでいた。

「兄じゃ、照島の形は鮫の鰭(ひれ)のようじゃのう」

「ああ、そうじゃ。もう少し、横の方から、小名浜寄りから見ると、もっと、鮫の鰭のように見えるぞ」

土手の下の砂地には、紅い花が一面に咲いていた。

緑の葉を押しのけるようにぽっかりと咲いている花を暫く眺めた。

「要助、この花を見たことがあるか」

「泉のどこかで見たような気もするが、どこで見たか、思い出せぬ」

「お館近くの天満宮の境内に少し咲いているのよ。しかし、この小浜の浜辺にこのように咲き誇っているとは。見事なものだ」

「兄じゃ、この花、何と言う花じゃ」

「浜茄子と呼ばれているな」

「はま(・・)なす(・・)。なす(・・)はあの茄子か、味噌汁の具となるあの茄子か」

「そうだ。あの茄子という字をあてる。もっとも、茄子とは縁もゆかりも無いが、文字だけは茄子だ」

紅い花の花弁は大きく、二寸ばかりもあり、中に黄色の花芯を持っている。

花が咲き終わった頃に、親指ほどの実をつけ、秋を迎える頃にその実は赤く熟する。

甘酸っぱい実は下痢止めの効用ありとされ、この磐城では古来から珍重されてきた。

そのように語る利兵衛の言葉を聞きながら、艶(つや)やかで艶(あで)やかなこの花はまるで、おきく様のようだ、と要助は思った。少し胸が疼いた。

「さて、そろそろ、見番所に行くとするか」

花を見詰める要助の思いをよそに、利兵衛がすたすたと歩いて、丘の上の見番所に向かった。小高い丘を登って、泉藩の『唐船見番所』に着いた。

ここからは、左手に小名浜、右手に平潟の海が臨めた。


番所は簡素な小屋で、海に向かって、上に開く大きな蔀(しとみ)戸(ど)があるだけの造りであった。

利兵衛と要助が着いた時、一人の年寄が遠眼鏡で平潟の沖合を眺めていた。

「お初にお目にかかります。おいらたちは泉藩、御物頭、衣笠右馬之助様お雇いの佐藤利兵衛並びに要助と申します」

遠眼鏡から眼を話し、眼をしょぼつかせながら、不審の目を向けてきた年寄に相対して、利兵衛が丁寧な口調で言った。

「おお、衣笠様のご家来か。わしは、ここの見番を務めている郷方(ごうかた)、丹野與(よ)次(じ)兵衛(べえ)と申す」

「衣笠様の命により、本日は大津浜での黒船到来の出来事をお伝えにまいりました」

「おや、もう、お気づきで。いやはや、何ともお早い。しかし、それにしても、妙な」

與次兵衛の話によれば、昨日は終日海上が曇り、霧も出ていたこともあって、気付かなかったが、今朝、夜明けと共に、平潟の沖合を遠眼鏡で見たところ、異国の船と思しき黒船を二隻ほど番人が見つけ、泡を食って、先ほど、見番のそれがしに連絡があり、驚いて見ていたところでござる、ということであった。

「して、衣笠様はどのようにしてお知りになったのでござろうか」

與次兵衛が不思議そうな表情をして訊ねてきた。

「昨日、たまたま、大津を訪れていた者が大津浜の異変を夜半知らせてきたのでござる」

「さようでござるか。当方でも、本日、黒船を見た旨、これから泉のお館にお知らせいたす所存で」

そこに、一人の男が駆け込んできた。やたら、丸っこい男であった。

番所に入るなり、歯を剥き出して、にたりと笑った。

「おお、権八(ごんぱち)。待ち兼ねたぞ。平潟沖の異国の船発見の件、早く、お館にお知らせいたせ。黒船二隻、平潟沖に出現とな」

権八と呼ばれた男は四十を少し過ぎた男であったが、やたら丸っこい男であった。

背は低く、太っており、眉は丸く太く、目も丸く、鼻は団子で丸顔と、要助の眼には七転び八起きの達磨(だるま)が人の形をとって現われたように映った。

「ほい、がってんだい。これから、ひとっ走り、泉に行ってくっから」

そう言い残して、権八はばたばたと音を立てて、丘を駆け下って行った。

與次兵衛は呆気にとられている利兵衛たちに、恥ずかしそうな表情で笑いながら、権八のことを語った。

「あれは、わしと同じ郷方で、普段はこの小浜の田んぼの稲の出来具合を見たり、山に入っては植林した木々の生育の程度を見る仕事に携わってござるが、何を隠そう、元来は泉藩の忍者でござる。爺様の代からこの小浜に土着しておる者で、忍者としての修業はわしの見るところでは何もしておらぬようでござる。ただ、体に似合わず、駆けることだけは得手と思われる。まあ、見ての通りで、やたら忙しい男でのう」

いかにも人が好さそうな與次兵衛はこのように言って、利兵衛たちに笑いかけた。

利兵衛は遠眼鏡を借りて、遠く、平潟の沖合を観た。遥か沖合に、黒く大きな船が二隻、目に映った。帆柱は三本あり、白い帆がくっきりと見えた。

利兵衛は遠眼鏡を要助に渡し、よく見るように言った。

「大きな黒船が見える。こんな船は初めて見た。白い帆も、一枚、二枚、・・・、何と八枚ほど見える。船の大きさは比べるものが無いので、しかとは判らないが、三十間から四十間はあるかも」

「三十間から四十間の大船か。五百石船でもたかだか十二、三間しか無い。倍以上の巨大な船だ。平潟、大津では大変な騒ぎになっているだろう」

利兵衛が感心したような口振りで呟いた。

平潟村は棚倉藩領で、裏の大津村は水戸藩領となる。

「平潟は棚倉藩領で、あの有名な密夫大名の子が藩主となってござる」

與次兵衛が笑いを抑えながら、利兵衛に言った。利兵衛も思わず、笑った。

要助には何のことか、その時は分からなかったが、後で、利兵衛から委細を聞き、世の中にはとんでもないことがあるものだと思った。

平潟の現藩主は井上正春と云う。正春はまともだが、父の正甫(まさもと)には、このようなだらしない逸話が残されている。正甫は浜松藩主であった。

浜松と言えば、幕府にとって、重要なところであり、浜松を領する藩主はそれなりに幕府から評価されている大名と言える。

しかし、正甫は驚くべき失態を犯してしまったのである。

今から八年ほど前、内藤新宿あたりで小鳥狩りをして楽しんだことがあった。

狩りの途中、千駄ヶ谷村に立ち寄った。そこの農家で留守番をしていた百姓の女房を見かけた。どういう風の吹き回しだったのか、正甫はついむらむらと好色心を起こし、やにわにその女房を押し倒し、犯そうとした。そこに、その家の主人である百姓が帰ってきて、女房を押し倒して、行為に及んでいる正甫を見つけた。

百姓は怒り、おらの女房に何をするだ、とばかり、天秤棒で正甫をなぐりつけた。びっくりした正甫は刀を抜き、百姓の腕を斬りおとすという刃傷沙汰、暴挙に出た。その後、事件を闇に葬るべく、百姓夫婦を自分の領地、浜松に連れてきて、口封じを行なった。

しかし、世間の口に戸は立てられず、噂は江戸中にあっという間に広がってしまった。

正甫は江戸城に登城する際、他家の足軽から、待ってました密夫大名、とか、百姓女のお味はいかがでござったか、などと散々にからかわれたと云う。

幕閣、果ては将軍も知るところになり、結果、翌年、浜松から棚倉へあえなく左遷、転封となった。面目を失った正甫は病気を理由に棚倉には一度も入らなかったということだが、数年後、嫡子の正春に家督を譲り、隠居した。

正春は父の醜態を恥じながらも、悄然と棚倉に入らざるを得なかった。

棚倉は検地石高より実高がはるかに少ないという領地で、徳川幕府の治世では失政を犯した大名に対する幕府の処分、つまり、左遷の地として有名なところであった。

そして、次に左遷されてくる大名が現われるまでは、そこにじっと、甘んじなければならない。(井上正春はこの後、十二年間、棚倉に居た)

やがて、利兵衛たちの耳にも、昨日の大津浜への異人上陸の噂が流れてきた。

それは、漁師たちの口から流れてきた。

何名か、人数の詳細までは確固たる知らせは無かったものの、伝馬船に乗ってきた異人が大津浜に上陸したという話は確固たる事実として伝わってきたのである。

漁師仲間の噂話は身軽な伝馬船のように速く伝わる。


一方、泉藩では対応に追われていた。

本多家老に新妻栄助から届いた知らせ、息せき切って駆け込んできた小浜村の権八からの平潟沖異国船発見の知らせで、城内は蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。

藩主、本多忠知は四代目藩主でこの時、三十七歳で藩主就任後九年目を迎えていたが、あいにく、江戸に参府していた。

家老である本多忠順は病床にあり、登城して泉藩としての対応を決めることは出来ず、嫡男の本多六郎が父の名代として登城し、番頭用人など上級藩士と諮って、対応を協議することとなった。その結果、巳ノ刻(午前十時頃)過ぎに、物頭の衣笠右馬之助に対して、小浜へ出張せよ、との命が下された。

未(ひつじ)ノ刻(午後二時頃)、泉陣屋(お館)から右馬之助が率いる隊が一番隊として出発した。

※泉藩は二万石で、藩主は城主格大名とされたが、実際の城の築城は許されず、堀で囲った陣屋形式の館に居住していた。堀に囲まれた百間(百八十メートル)四方の敷地で、塀は無く、樹木が塀代わりに植えられていた。敷地は一万坪といったところ。

本多忠知は徳川家康旗下の猛将、本多平八郎忠勝の家系で家紋は本多葵として知られる立ち葵紋で、旗紋は丸に『本』の一文字を入れた文字旗である。

葵紋は京都の上賀茂神社、下鴨神社の紋であり、本多家は元々、賀茂の社職であったと云われている。

徳川の三つ葉葵より格式が高いという話もあり、この紋を譲って欲しいと家康が言ったとか、言わないとか、この紋に関する逸話は多い。

忠知の祖父の忠(ただ)壽(かず)は善政を敷いた名君であり、幕閣においても、老中にまで出世をして、参府及び江戸城登城の際、先頭の鑓の穂先に太陽を表わす赤い玉を付けることを特に許された。その名誉は本多赤玉として世に知られ、二万石の小藩ではあったが、赤玉を見た他藩の行列は敬意を表して、赤玉行列一行に道を譲った、と史書には記されている。

一番隊はこの丸に本の文字旗を翻し、且つ、種子島鉄砲を抱えて勇躍、泉を出立していった。衣笠右馬之助はその白皙長身の姿を馬上に揺られながら、小浜に向かった。

小浜の唐船見番所では、與次兵衛が遠眼鏡で平潟沖の黒船の様子を監視していたが、午(うま)ノ刻(正午頃)になって、海上が俄かに曇り、異国船が視界から消滅してしまった。

やきもきしている内に、泉から権八が戻り、一番隊の出発と磐城平藩による関田派兵の報を知らせた。

「ここに居ても、この霧では一向に見えない。霧も晴れる様子がない。ここで待つよりも、磐城平藩の出兵の様子を関田に行って、見てきたほうが良い。どんな様子なのか、面白い。その様子を右馬之助様にお知らせすれば、きっとお喜びになられるだろうよ」

利兵衛が傍らの要助に言った。要助に異存は無く、二人は與次兵衛と権八に別れを告げ、見番所を離れ、関田に向かった。関田は小浜と平潟、大津のほぼ中間にある。

そして、小浜から関田までは二里しか離れていない。一番隊が到着する夕刻までには、十分戻って来ることができる距離と利兵衛は踏んでいた。

要助はわくわくする気持ちを抑えられずにいた。勿来の関跡がある関田浜に行くのは要助にとって、初めてのことであった。十八歳の要助の心は躍っていた。

興奮を抑えられずにいる要助を見て、利兵衛は言った。

「この小浜は泉藩の領地であるから、危害を受ける心配は無いが、これから行く関田は磐城平藩の領内になる。他藩の隠密と知られれば、十中八九、命の保証は無くなる。十分に注意して赴くことになるぞ」

隠密活動は藩を常に監視する幕府のみならず、藩同士でも活発に行われていた。

水戸藩の隠密により描かれたと云われる泉陣屋周辺の詳細な絵図も現在残されている。

二人は小浜村を離れ、北西に位置する岩間村に入った。

岩間村を抜け、西に行くと、鮫川という大きな川に出る。

古来は、鮫がいるとされた川であった。

「要助、鮫川の名前の由来を知っているか」

利兵衛が歩きながら、傍らの要助に訊ねた。

「知らねえ。教えてくんちぇ」

「うん、知らねえなら、教えてやっぺ。ここいらへんは、秋になると、たくさん鮭が獲れる。その鮭を狙って、海から鮫が来るのだそうだ」

「今でも、鮭はいっぱい獲れるから、秋に来れば、鮫を見ることはできるのか」

「ああ、見ることができるとも。秋頃、また、来っか」

利兵衛がにやにやしながら、言った。

「うん、おいらは来る。絶対、来るぞ」

利兵衛は要助の真剣な顔を暫く見ていたが、いきなり、笑い出した。

「やっぱり、要助よ、おめえはいい忍びにはなれんな」

「なぜ、じゃ。兄じゃ」

「おめえは人の言うことを信じすぎる。今の、おいらの言葉はまるっきり、口からのでまかせよ。秋になっても、鮫なんか、一匹も来ねえよ。鮭が獲れるのは本当のことだが、それを狙って、鮫なんか来るものか。要助、おめえの欠点はそれだよ。素直すぎるってことだよ。人の言うことは、まず、疑え。それでなきゃ、いい忍びにはなれねえよ」

兄じゃ、ひでえや、と要助は不貞腐れて呟いた。

その呟きを聞いて、利兵衛はまた笑った。

鮫川の川幅は広いところで悠に五十間近くあり、渡し舟に乗ることとなる。

二人は舟場を探した。人が集まっているところに目指す舟場はあった。

舟場には掛け茶屋が二、三軒ほど建っていた。茶屋からは旨そうなにおいが漂ってきた。

腰掛けに座っている旅人の傍には団子と焼き田楽の皿が置いてあった。

利兵衛はにやりと笑って、要助に言った。

「要助、おめえ、腹が空いているだろう。さっきから、腹の虫が泣いているようだ」

「まさか、そんなことはねえ。腹の虫が泣くなんてことはねえが、今朝は朝が早く、食い物を喰ってねえのは間違いねえけど」

「要助、正直に言いなよ。腹が減ったって、ね。おいらも腹が減っている。右馬之助様から戴いた銭もあることだし、久しぶりに、焼き田楽でも食うべか」

利兵衛の言葉に、要助は素直に頷いた。

腰掛けに腰を下ろして、利兵衛が焼き田楽と焼き団子を二皿ずつ注文した。

焼いた豆腐田楽と団子が届く間、要助は唾が口中に溢れてくるのが分かり、利兵衛に気取られないようにそっと飲み込むのが難しかった。

利兵衛はそんな要助を横目で見て、にやにやしていたが、何も言わなかった。

やがて、旨そうなにおいと共に、焼き田楽と甘辛団子の皿が二人の腰掛けに載せられた。

急いで、口に入れた要助は、アチッと思わず呻いた。田楽も団子も焼き立てで熱かったのだ。ゆっくりと食いねえ、逃げはしねえから、と利兵衛に言われ、要助は思わず照れ笑いをした。あっという間に、食ってしまった要助を見て、利兵衛は苦笑いしながら、また一皿ずつ、要助のために注文してやった。

腹ごしらえをした二人は舟場に行った。

舟場には此岸、対岸とも、渡し舟が二艘ずつあり、船頭も二人ずつ居た。

渡し賃を払い、鮫川を渡った二人は関田宿に向けて、足を速めた。

須賀というところを過ぎ、中田というところに差しかかったところで、川に出遭った。

蛭田川という川で、鮫川よりは流れが狭い川であり、橋がかかっていた。

橋を渡り、浜辺を左手に眺めながら、急ぎ足で歩いた。

空はどんよりと曇り、海上には薄い霧が出始めていた。

「この霧では、小浜から平潟沖は見えないだろう。霧は濃くなる一方だ」

海を見ながら、利兵衛が呟くような口調で言った。

「兄じゃ、随分と長く続く浜じゃのう。おいらは小名浜のあの長い浜を思い出す」

「小名浜の浜もここに負けず、長い浜だ。もう、ここいらあたりは、関田の浜よ。もうすぐ、関田宿も見えてくるはずだ。あそこらへんが、そうかのう」

利兵衛が指差したところを見ると、確かに家が密に建っていた。

いよいよ、関田宿か。要助は緊張した。

「要助、宿場に入ったら、あまりきょろきょろするんじゃねえぞ。怪しまれっからな。但し、周囲への目配りは怠っちゃなんねえぞ。分かったな」

利兵衛の言葉に、要助は軽く頷いたが、本当のところは分かっていなかった。

目配りするということは周囲を注意深く見るということだ。

きょろきょろと見ることと同じことなんじゃないか。要助はそう思っていた。

「要助、目配りするということは頭を動かさずに、眼だけ四方八方に動かすということだ。頭を動かして、見るんじゃねえぞ」

なるほど、そういうことか、と要助は悟った。


関田宿に入った。やたら、侍の数が目立った。磐城平の安藤様ご家中の侍か、と要助は思った。当時の磐城平藩主は安藤対馬守信義で齢は三十九歳で、幕府の奏者番というお役目に就いていた。奏者番は若年寄、老中へと進む、大名としての出世階段の一つである。

要助は利兵衛の後にくっついて歩いていたが、時折、浜辺の方に目を遣った。

関田は海苔の名産地であり、浜辺には海苔を天日で乾かしている風景が至るところで見ることができた。昼までは晴れていたが、午後になって、大分雲行きが怪しくなってきた。 

漁師の女房たちがぼちぼち、干してある海苔を片付け始めるといった光景も見受けられた。潮のにおいと共に、海苔のにおいも漂っていた。悪いにおいでは無く、要助にとっては、食欲を誘うにおいであった。さっき、食ったばかりなのに、おいらの食い物に対する欲は強い、と要助は思わず、自分を嗤った。

「要助、なこその関跡でも見物するかい」

と、言いながら、利兵衛は街道から離れ、関跡に向かう間道に入った。

なこその関は、八幡太郎源義家が詠んだ歌で名高いところである。

吹く風を なこその関と 思へども 道もせにちる 山桜かな、という歌である。

要助はこの歌を父から初めて聞いた時、道もせにちる、という言葉の意味を取り違えていた。せにちる、背中に散る、というのはどういう意味だい、と父に訊いたら、父は一瞬、言葉に詰まったが、その内、笑い出した。

要助よ、道も背中に散る、では意味がまるで取れない。道を狭(せば)めるように散る、という意味じゃよ、と父の理介は幼い要助の頭を撫でながら言った。

優しい父であったが、磐城で疫病が流行った時に、母と共に、まことにあっけなく、この世を去った。利兵衛の後を追って、細い間道を歩きながら、要助は父との会話を懐かしく思い出し、一抹の寂しさを覚えていた。

関跡はほぼ小高い山の頂にあり、そこに立つと松の樹越しに関田の浜が一望できた。

その時になって、要助はようやく利兵衛の考えが判った。

ここに登れば、関田浜がひらけて見え、磐城平藩の警戒の様子が見える、ということか。

浜の右手に突き出して、岬が見える。鵜の子岬である。岬の手前が九面(ここづら)というところで切り通しの街道が通っている。岬の裏が平潟の浜となっている。

そして、磐城平藩の警戒番所はこの関跡から見て、左手の浜辺にあった。

馬が四頭ばかり、侍、足軽が二十人ばかり、小さく蠢(うごめ)いていた。

陣幕を張り出したようだ。上がり藤を染めぬいた旗差しものも何本か、立てられている。

この程度の陣容ならば、泉藩も引けはとらないだろう。要助はそのように思い、傍らの利兵衛に視線を走らせた。利兵衛もじっと見詰めていたが、要助と同じようなことを考えていたのか、口元に薄い笑いが浮かんでいた。

「そろそろ、引き返すとするか。もう、十分見た。大した陣容では無い。戻り、右馬之助様にお知らせするとしよう」

二人は関跡を離れ、急ぎ足で山を下り、浜街道の道に戻った。


申(さる)ノ刻(午後四時頃)、衣笠右馬之助が率いる泉藩一番隊が小浜村河岸(かし)陣屋に到着した。

本多の馬印を染めた陣幕が小浜の海を臨む小高い丘に立てられた。

衣笠隊に少し遅れて、本多彦四郎正道が騎馬で陣屋に着いた。

彦四郎は右馬之助、利兵衛と同じ齢、二十二歳で家老本多忠順の次男である。

藩主の家系に連なる侍で、この時、大筒方を兼務する番頭用人を勤めていた。

石高は百四十石で、泉藩二万石では立派な年寄格の上士であった。

右馬之助同様、白皙長身の若者で広い額を持ち、目は細めであるが、眉太く、鼻筋は通って高く、まことに見栄えのする若侍であった。ただ、欠点と言えば、唇が薄く、少し歪めて笑う癖があり、知らぬ者から見れば、酷薄な印象を与えてしまうという点が挙げられるくらいであった。これが少し、損をなさっているところだが、実は人情機微にはなかなか通じておられる、と右馬之助は何かの折、近しい者に語ったことがある。

彦四郎には、影のように、新妻栄助がひっそりと付き添っていた。栄助は忠順の忍びであるが、忠順病床とのことで、今回は彦四郎の忍びとして小浜に同行していた。

馬から降り立った彦四郎のもとに、右馬之助が挨拶に訪れた。

「これは、本多様。陣屋見廻り、恐悦至極に存じます」

「貴公が居れば、何の心配もございませぬ、と父上には申し上げたのだが、どうにも心配性でなあ。六郎兄上が行くまで、ここに滞在し、何かことがあったら、栄助を使いとして泉に寄越せ、ときつく命じられたわ」

「して、ご家老のご病気のほうは如何で」

「うむ。あまり思わしくは無い。もともと、胃弱なほうであったのだが、ここ数年で急にお弱くなられた。大分、お気も弱くなられた」

そう言って、彦四郎は沈鬱な表情を見せた。

夕刻、陣幕近くに高張提灯が立てられた。また、彦四郎の命により、小浜の浜辺に篝(かがり)火(び)が焚かれた。篝火の手配は小浜代官の庄子佐一右衛門が行なった。

篝火近くには、松の折り枝、松の割木などの打ち松が山のように積まれた。

庄子代官は金四両二人扶持を戴く徒士(かち)無足で、この時、五十歳を少し越えたばかりの四角い顔をした男であった。篝火が焚かれた頃、御用意人が到着した。御用意人は緊急事態が起きた場合、近在の村から派遣されてくる百姓たちのことで、人選などは事前に村の庄屋によって決められていた。今回も、滝尻村、下川村、小浜村から総勢で二十人ばかりの百姓が陣屋に集まってきた。右馬之助が率いてきた諸士無足人と呼ばれる足軽、郷士と合わせ、五十人近い男たちが小浜河岸陣屋に集結したのである。


夜を迎えて、宿舎の手配がなされた。無足人たちは小浜村庄屋で泉藩の蔵番も兼ねている豊田與右衛門宅、そして、御用意人たちは小浜村名主の兵左衛門宅にとりあえず投宿することとなった。庄屋、名主ともに村を代表する豪農であるが、簡単な裁判権を持つ庄屋に対して、名主は村一番の貢納者ということではあるが裁判権は持っていなかった。

しかし、庄屋のいない村では、名主が庄屋として裁判権を持つことは許されていたのである。庄屋の豊田與右衛門は苗字、帯刀を許されており、この時、六十歳の還暦を迎えていたが老いてますます元気な男で、人あたりは柔らかく、いつも微笑を絶やさない、どちらかと言えば、百姓というよりはむしろ、商人風な感じを与える男であった。

しかし、いざとなれば、殊の外、冷徹な応接をする男、油断のならない男とも見られていた。彦四郎が陣屋に着いた時も、小袖に紙子の羽織をぞろりと纏い、白足袋を穿き、扇を構えて、お泊り下さいますよう、お迎えに参上つかまつりました、と彦四郎に如才なく挨拶をした。一方、名主の兵左衛門は四十を少し過ぎたばかりの中年のぎょろめ男で、極めて如才ないが、多少がさつな感じを与える男であった。上には厚く、丁寧に応接するものの、小作人に対しては普段に威張り散らすという評判も取っている男であった。

庄屋宅に宿泊を手配された無足人たちは、下男部屋が付いた長屋門を通って、屋敷の玄関に案内された。玄関は二つあった。百姓用の玄関と、武士用の玄関と二つあった。

屋根は藁葺では無く、瓦葺であり、敷地には五頭ほど入る厩、納屋が四つ、大きな土蔵が三棟ほどあり、豪気な感じを与えていた。そして、広い母屋には広い土間、竈が三つ、内便所が二つあり、更に、村の裁判を行なう白洲も設けられていた。一方、名主の兵左衛門宅は母屋こそ広く大きかったが、屋根は藁葺であり、白洲も無かった。

酉(とり)ノ刻過ぎ(午後七時頃)、あたりが薄暗くなってきた頃、利兵衛と要助が小浜に戻り、庄屋宅を訪れ、右馬之助に関田の磐城平藩の陣構えの詳細を報じた。

彦四郎は中座していたが、彦四郎の耳として、新妻栄助が利兵衛たちの話を聞いた。

話が済んだ頃、豊田與右衛門がにこやかな顔をして現われ、利兵衛たちを夕餉(ゆうげ)の席に案内した。夕餉の食事としては、盛り切りのどんぶり飯、若布の味噌汁、葱を刻んで入れた納豆、豆腐の冷奴、人参と大根の煮しめといった簡素なものであったが、利兵衛たちの目には豪勢な食事と映った。更に、薬食いで精をつけなんしょ、と山(やま)鯨(くじら)(猪の肉)のしぐれ煮が丼に盛られて出てきたのには驚かされた。要助は、山鯨は初めてだったが、頬張り、噛みしめるとじわっと肉の旨味が出てくる味わいには陶然となった。旺盛な食欲を発揮する要助を見て、利兵衛は笑いながらも、負けじとばかり、山鯨に喰らいついていった。

どんぶり飯のお代わりを運んできた下働きの女が、利兵衛と要助の様子を見ながら、お仲間の中には、おいらは山鯨より紅葉(もみじ)(鹿肉)がいい、と言って、周りから場所を心得よ、と窘(たしな)められた人もいますよ、と言って笑っていた。

夜中、御用意人による忍び巡廻がなされた。忍び巡廻ということで、提灯は持たず、暗闇の中をひっそりと村内を巡り歩いた。この巡廻には、新妻栄助と吉田庄五郎も加わった。

吉田庄五郎は泉藩で十五石を戴く諸士無席郷士であったが、忍びでは無く、隠密であった。目は細く、三白眼で肌の色は病的に白く、眉は薄く、不気味な感じの男であった。

齢は四十ということであったが、齢より若いようにも、老けているようにも見える不思議な人物のように要助には見えた。忍び巡廻とは別に、足軽小頭による見廻りもあった。

彦四郎から、村人はともかく、出張してきた者には酒を売ってはならないという禁止通達がなされ、違反している不届き者がいないかどうかを調べて廻っていた。

この夜、子(ね)ノ刻(夜の零時頃)になって、水戸表から大津浜への出兵が始まった。

大津浜現地からの急使連絡に基づく水戸藩としての措置であった。

また、夜間見廻りの後、彦四郎の命を受けて、栄助が平潟、大津浜へ忍び物見として小浜を秘かに発った。


五月三十日 曇り、後、雨


海上、霧が深く、視界が利かず、平潟沖の黒船の様子は一切判らなかった。

朝方、磐城平藩に属する植田村の名主が来て、小浜村名主の兵左衛門に、黒船に関して今までに判明していることがらを訊ねた。愛想よく、とにかくよく笑う男であった。

大柄で雄大な鼻を持つ男で、精力絶倫で若い妾を三人ほど囲って、奉公させているという噂もある五十男であった。

「黒船が二隻ほど現われて、何名かが、伝馬船に乗って、大津浜に上がったということしか、おいらは知らねえ。いっそ、泉のお館から来られた本多の若様に訊いた方が早いのではなかっぺか」

兵左衛門はそのように言い、植田村名主を本多彦四郎の許に連れて行った。

くどいほど馬鹿丁寧な挨拶を受けた彦四郎は薄い笑いを口元に浮かべながら、その名主に言った。

「わしに訊くより、植田なら関田に近い。関田村の平藩の藩士に訊いたほうが早いぞ」

そのように皮肉っぽく言いながらも、今までに判明していることはそう多くは無いが、まあ、こんなところだ、と兵左衛門が語った話と同じようなことを語ってやった。

その名主が兵左衛門と肩を並べて去った後、彦四郎は傍らに控えていた右馬之助に笑いながら言った。

「平藩では、名主に隠密の役をやらしているのじゃな。黒船の話はともかく、こうして来れば、泉藩の守りの委細を十分見て、承知して帰ることができる。まあ、名主も使いようじゃな。ここから帰ったあの名主はそのまま、関田に行き、ここの様子をご注進することと相成る」

「昨日の利兵衛、要助の役割を公然と果たすことができる、ということでしょうな」

右馬之助もにやりと笑いながら、そのように言った。

巳(み)ノ刻(午前十時頃)あたりで、平潟、大津の方向から大きな音がした。

周囲に轟き渡るような大きな音で、これが噂に聞いた黒船の大砲の音かと噂し合ったが、何分、霧のため、視界が利かず、その音が異国船からのものかどうか、判明しなかった。


霧が深く、平潟沖も見えず、無聊を囲っていた彦四郎の許に栄助が大津から戻ってきたのは、午ノ刻(昼の十二時頃)が過ぎ、梅雨空から雨が降り出してきた頃だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

浜茄子の花の咲く頃 第二章 三坂淳一 @masashis2003

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る