第五章 バルビナ
マリアは、レイヴァンとともにひとけの少ない場所でレジーの帰りを待っていた。レジーはというと口笛なんて吹きながら魚釣りをしている。自由なレジーにマリアは、そっと笑みを浮かべる。それからまた弓の練習を始めた。レイヴァンはずっとマリアの弓の練習を眺めている。
マリアの矢は、きれいにまっすぐ飛ぶようになっていた。それを見つつ辺りの警戒を怠らない辺り、レイヴァンらしい。手には剣が握られている。いつ襲われても守れるようにと刃がむき出しだ。
それを見てマリアは苦笑いを浮かべる。そして、弓を射る手を止めて矢が突き刺さっている木に近寄り、矢を回収した。
「そんなずっと、警戒していてはレイヴァンだって疲れるだろう? 少しは休んだ方が」
「いいえ、いつ追っ手が来るのかわかりませんゆえ。それに、マリア様は可愛らしいですから。変な男がよってこないように見張っております」
「レイヴァン、わたしは王子だぞ。それにこんな辺境の地だ。このようなところで新しい出逢いなど、無いだろうよ」
「いいえ、油断なりませんよ。どこでどんな出逢いがあるのか」
レイヴァンの物言いにマリアは思わず、からかいたい衝動に駆られてしまう。
「じゃあ、レイヴァン。お前は、辺境の地でなにか良い出逢いでもしたの?」
「え?」
図星のように声を上げるものだから、思わずマリアの目がぱちくりする。
「まさか本当に?」
「いえ! そのようなことは」
「そういえば、わたしはレイヴァンの色恋話を聞いた事がないぞ! レイヴァン、恋人がいるのか? いや、好きな人?」
矢継ぎ早に言うマリアにレイヴァンが、たじろぎ後ずさる。それから、意を決したかのように口を開いた。
「確かに、好意を寄せる者ならいますが」
「な、なんだって! 好きな者がいるのにわたしのせいでお前の恋路まで邪魔してしまったというのか!」
項垂れるマリアにレイヴァンが近寄り、難しそうな顔をする。
「それは、その今はマリア様の側が一番安心しますから。今はこのままでいいです」
「レイヴァン、すまない。いつか必ずお前に自由を返そう。それまでは、我慢してくれないか」
「そうですね、今は我慢しないといけませんよね」
レイヴァンの言い方に少々、引っかかりながらもマリアはまた弓の練習を再開する。そのとき、何やら魚の焼けるにおいが漂ってきた。
「お昼ですね」
「ああ、いただこう」
告げるとマリアは、手を止めてレイヴァンと共にレジーの元へと向かう。レジーは火を起こしたまわりに棒で突き刺した魚を周りに囲み焼いていた。
「そろそろ、焼けますよ」
「ありがとう、レジー」
告げるとマリアの表情がやわらぐ。それを眺めつつレイヴァンの瞳がきらり、と光る矢を捕らえた。瞬き、一瞬のあと。マリアの体は宙に浮き、マリアがいた場所に矢が突き刺さる。マリアの顔が呆けた顔をしていたが、少しづつ状況を理解してきて、自分を抱きかかえているレイヴァンを見上げる。
「レイヴァン、これは、追っ手?」
「いいえ、こんな弓は訓練されている者は使いません。これは、盗賊ですね」
レイヴァンがそう答えれば、レジーは「お借りします」といい、マリアから弓と矢を取ると矢の放たれた方向に向かって矢を射った。刹那に木の上から、ボロボロの服を着た男が落ちてくる。
「ぎゃあ!」
マリアを地面に降ろすとレイヴァンは、男に近寄り剣を突きつける。男の体がたちまち、震え上がる。
「言え、何故このお方を狙った」
低いドスの利いた声。その声に男は、たちまち体を震わせる。マリアもあまり聞かない声であるからか少々、体を強ばらせていた。
「ち、違うんだ! おれはこの辺りに住んでいるのだがお金が無くなって」
「こんな山の中で住んでいる人間に何故金がいる?」
レジーがほわほわとして調子で問いかければ、男は観念したように言葉を口にする。
「コーラル国の連中が、王子を探していると言った。それから、おそらくはひとけの付かない場所を移動するから見つけ次第、知らせてくれと」
「知らせてくれ、と言われただけなのに命を狙ったのか?」
ドスの利いた低い声がさらに低く唸る。
「だ、だって、王子を殺せば賞金をもらえると思ったんだよ。おれはこんな山の中で終わるような小物じゃないってことを証明するために」
「そんなこと、誰に証明するの?」
静かに問いかけたのは、マリアだ。静かな声が響き渡れば男は、額に汗をかいて歯を食いしばる。
「決まってんだろ。世間様にだよ。王は有能なおれを秘書官として雇わなかった! これはこの国にとっての大きな損失だ。それと、これは王の罪だ」
興奮気味に話す男にマリアはそっと近づく。
「では、もしあなたを雇ったとしてどんないいことがあるの?」
「もちろん、税金の廃止だ。今まで重税を強いてきたのだ。無くしたって何も困らない。それから、ここからが重要だ。王政の廃止。それから王族は全員、断罪すべきだ! 王族に荷担した者すべて」
「父上が正しかったわ」
マリアがぼそりと呟けば男は半狂乱するかのようにマリアの襲いかかるが、その前にレイヴァンの持っていた剣に脇腹を切り裂かれた。
「貴様も同罪だ! このおれさまを」
男はうずくまりながらもマリアに手を伸ばす。その手をレイヴァンが振り払う。その目は、まるで氷から産まれた人間のように冷たく冷ややかな目であった。その氷の刃のように細められた瞳に男は、萎縮する。
「早くここから立ち去りましょう。その方が安全です」
「ああ」
マリアは答えると荷物を整えて木々の間に姿を消した。その後ろをレイヴァンとレジーも追う。レジーの手には、しっかりと焼き魚が握られていた。
しばらく行ったところで足を止めるとレジーが「食事にしましょう」といって焼き魚を二人に渡して自分ももくもくと美味しそうに食べ始める。マリアは苦笑いを浮かべてそれを見ていたが、焼き魚に少しだけ口を付ける。
「先ほどの男なら、気になさらなくても大丈夫ですよ」
レイヴァンが気を遣ってマリアにそう言えば、マリアは腑に落ちないかのような表情をして顔を曇らせる。
「いや、わたしはずっと気になっていたことがあったんだ。わたしはこのまま王子として過ごして良いのか。王政廃止という考えは、初めて知ったが。わたしが玉座について誰が幸せになろうか」
「マリア様……」
「ご、ごめん! ちょっと血迷った」
マリアの言葉にレイヴァンの瞳がゆるやかに細められる。
「あなた様が王族であることには違いありません。ですが、あなた様がしたいようになさいませ。あなたがどんなことを望もうと俺は、あなたの一番の従者ですから」
レイヴァンの言葉は、優しくマリアの心に溶けてゆく。それを聞いてマリアは、ほんわりと微笑む。その視線は若干、熱を帯びている。
「レイヴァン、わたしはお前に救われてばかりだな」
レイヴァンは、マリアに微笑みかける。そうして、さらさらと流れる薄い金の髪を指で絡め取る。その髪に口づけした。マリアの青い瞳に影が差す。
「レイヴァン、そんなふうにわたしを励まさなくて良い。わたしはわたし自身を見つめ直さなくてはならないんだ」
「マリア様は、そのままでいいんですよ。だから、自ら武器を持つ必要だって」
ぱっとマリアが顔を上げる。マリアの瞳がレイヴァンを捕らえた。青い瞳にレイヴァンが息を飲む。
「だめだ、レイヴァン。それでは、わたしはいつまでも無能な王子のままだ」
マリアの貫くような視線がレイヴァンの心さえも射抜くかのように見据える。レイヴァンの瞳が悲しげに揺らめいた。
「どうやったら、あなたはあきらめてくれますか。どうすれば、武器を持ち戦おうとするあなたを止められますか?」
「いくらお前でも止められぬ。わたしは、無知で無力な自分が許せない。だから、わたしは無知であることを認めて戦うべきなんだ」
無知であることを理由に、弱いということを理由に救えるはずの誰かを見捨てたくはないともつむがれて黒曜石の瞳が見開かれる。
自分が守らなければ、消えてしまいそうなお姫様であったはずなのに、いつからか戦場を駆ける戦士のように勇ましくも美しい。自分が戦場を行くことすらもいやがったのは、もしやそういう一面の表れであったのかとレイヴァンに考えが浮かぶ。同時に心に
「わかりました。はじめて王の意志に背きます。俺もあなたに武器のきちんとした使い方をお教えしましょう。ですが、武器を持つことを許したつもりはありません。追っ手が来ても、どこかに隠れてください」
マリアが頷けば、レイヴァンの目がふと優しくなる。
「レイヴァンは、何を教えてくれるんだ?」
「あなたにはまだ、弓の練習を続けてもらいます。接近戦なんてまだ早いですから」
「お前は堅物過ぎるんだ。剣の稽古もしたい」
「駄目です」
堅物とマリアが拗ねて言えば、レイヴァンの柔らかく暖かな声が降ってきた。
「よかった」
「え?」
「いいえ、何でもございません」
首を傾げるマリアにレイヴァンは、苦笑いを浮かべる。そして、「早く食べてしまいましょう?」と声をかければそれ以上、追求せずにもそもそと食べ始めた。
***
そのころ、バルビナはイリスの家を訪れていた。家の玄関先でバルビナは自分の予想が当たったことにうれしさも混じって声を上げる。
「え? マリア様とレイヴァンが」
「つい先日、ここに来てそれから父さんの手紙を読んでオブシディアン共和国に行くって言ってた」
「わかりました、すぐに私もそちらへ向かいます。ありがとうございました」
バルビナは、そう頭を下げてイリスに背を向けた。
「もう行っちゃうの?」
「ええ、マリア様が危険な目に遭っているかもしれないですし」
「兄貴が一緒だから大丈夫よ」
イリスの言葉にバルビナは「確かに」と頷いて見せたが
「だとしても、この目でマリア様の安否を確認しなければ。それに、レイヴァンにばかりマリア様に良いかっこばかりさせられたくないですし」
バルビナの言葉にぱちくりさせたあと、声を上げて笑う。
「そっか、そっか。バルビナはうちの兄貴のことが好きだったものね。マリア様に兄貴を奪われたくはない訳ね」
「そんなわけでは! それに私は別にレイヴァンが好きな訳じゃなくて」
頬を真っ赤に染めてバルビナが反論すれば、イリスがからかうような口調になる。
「照れなくてもいいのに~、知ってるのよぉ。バルビナがうちの兄貴に好意を寄せていることぐらいね!」
「そ、そんなことは」
「でも、あたしはバルビナがお姉ちゃんになってくれたら嬉しいなぁ」
イリスの言葉にバルビナは、苦笑いを浮かべる。そして、悲しげに目を伏せた。
「レイヴァンの眼中には、マリア様しかいないのだもの。無理よ、レイヴァンのマリア様に対する感情は、もはや主従を超えているわ。私なんか彼にとってはただのマリア様に使えるメイドでしかないんだわ」
「そんなことないですよ! レイヴァンだって、口にはしなくてもバルビナのことを心配しているはず」
「だといいけれど。ありがとう、イリス。あなたのお陰で少し元気になったわ」
バルビナはそう言ってイリスに背を向けて歩き出す。それから、夕方頃についたときバルビナは目を見張った。そこには、血に塗られた惨状がまだ残っていたのだ。そこらじゅうに散らばっている赤い鮮血。それから、レイヴァンの剣でやられたであろうコーラル国の兵士達の亡骸と馬たち。血と泥に塗られたコーラル国の軍旗。
おそらく、ここまでコーラル国がマリア達を追ってきたのであろう。それをレイヴァンが全て倒したのだろうか。地面には、赤い血に混じって薄い金の髪が落ちていた。その髪と並ぶように落ちているのは、黒い漆黒の髪。おそらく、マリアとレイヴァンのものであろう。さらに奧へと進むときれいな飾りが施されている剣が地面へ落ちていた。その剣には、血がこびり付いている。けれど、レイヴァンの剣ではない。ましてや、マリアは武器を持ってはいない。
「これは?」
レイヴァンかマリアが刺されたのだろうか。いや、レイヴァンなら、マリア様が刺されようなものなら身を挺してでも守るはずだろう。それに武器を持って襲ってきた相手をレイヴァンが殺したはずだ。しかし、ここには剣の持ち主と思しき屍はない。ならば、レイヴァンやマリア以外に誰か一緒なのだろうか。それとも、マリアが殺されそうになって逆にマリアが相手を刺したのか。いや、まさかレイヴァンが彼女に武器を持たせるなんてことをするだろうか。今まで彼女がどんなに武器を持ちたがっても決して彼は武器を持たさなかったのだ。持たせるはずがない、とそこまで考えて首を振る。そうして、また歩き出す。近いうちにマリアと出逢えることを信じて。
あの血のぐあい、兵士達の状態から見てまだそれほど時間が経っていないはずだとバルビナは目星をつける。ならば、歩みを止めてはならない。彼らはここでかなり、足止めを食らった。だったら、きっとまだそう遠くない所にいるはずだ、と想いながら道を進んでいくと夜になってしまった。バルビナは少しだけ王妃からもらったパンを囓るとたいまつをたいて夜の道を進んでゆく。
(マリア様が命を狙われている今、レイヴァンはできるだけ人目の付かない道を通ってオブシディアン共和国へ向かうはず。なら、山道をいま通っているはず)
バルビナは、山の麓までさしかかると山を見上げながら息を吐き出す。夜は凍えるように冷える場所なのだ。たちまち、息が白く濁る。それでも、歩みを止めるわけにもいかず山道を昇り始める。それから闇に包まれた夜道を進んでゆくと、どこからか梟(ふくろう)の鳴き声と狼のうなり声が聞こえてきた。
(夜行性の動物たちは、この時間が一番活発なのかしら。けれど、こんな山の中を進んでゆくのだもの。レイヴァンだってマリア様が心配のはずだからこの時間でも起きているでしょうね)
バルビナがたいまつで道を照らしながら進んでゆくと、男のうなり声が聞こえてきた。その声の方向へ進んでいきたいまつでそこを照らすと地面の上で男が伸びていた。
あの、とバルビナが恐る恐ると声をかければ、男はぱっと顔を上げる。そして、体を起こした。
「たすけてくれぇー! あの王子の従者にやられた」
この男の言う王子というのは、マリアのことだろうか。ならば、従者というのはレイヴァンの事であろう。よく見れば彼の脇腹から血が流れている。その切り傷を見て確信する。レイヴァンの斬った跡だ。レイヴァンには、妙なくせがありバルビナは彼が斬った跡の切り傷を何となく見分けることが出来るのだ。おそらく、くせというよりも彼の剣が特殊なのだろう。なんでも、若いときのクリフォードが使っていた剣らしくこの国では珍しい形状をしていた。そのため、切り傷も何だか他の人と違うのだ。ベスビアナイト国では主に練習にはレイピアを使い、戦場ではクレイモアを使う。けれど、レイヴァンはブロードソードを用いる。護身用には皆と同じようにレイピアを帯剣しているが。そのため、マリアの側にいるときもわざわざブロードソードは置いておいてレイピアを帯剣していた。わざわざ、変えなくてもいいのにとバルビナが一度言ったことがある。そのときは、マリアが怖がるからと彼は答えていた。けれど、彼はきっと今はブロードソードを持ち歩いていることだろう。戦場からマリアの元へ駆けつけたのだ。マリアは怖がったりしただろうか。いや、そもそもマリアに剣の種類などわかるだろうか。マリアのことだから、剣が違うことよりも血の方に驚いていそうだ。なんと言っても戦場も知らぬ、武器を持つという意味もわかっていなさそうな姫君なのだ。きっと、血の方に驚いたことだろう。今はもう、慣れたかどうかは分からないが。
なんて、昔のことを思わず思い出す。ふと我に返り男に駆け寄った。
「大変!」
バルビナはそう言って男の脇腹に布を当てて止血をして包帯を巻いた。
「この場しのぎでしかないけれど、とりあえずこれで大丈夫です」
そう言って顔を上げると男は、頬を赤く染めている。かと思ったら、バルビナの手を握る。
「あの、どうかおれと一緒に来てくれませんか。お、おれは」
「申し訳ございませんけど、あなたのその傷。もしかしなくとも、この国の王子に何かをして出来た傷ではございませんか?」
「ええ、そうですよ! 信じられない連中です。王はおれを秘書官として雇わないし王子は王子で王が正しかったと等と言う! ですが、あなたはおれを助けてくれた。あなたのような方と一緒ならば」
「お気持ちは嬉しいですが我が主を傷つけようとしたあなたと一緒にはいたくありません」
「なんですって! あなたはあの王子につかえているのですか? ああ、なんとおかわいそうに命令されて」
「私の意志でつかえております」
バルビナが強めに言えば、男の目の色が変わる。
「あんなやつにつかえるなんて、もったいない人ですね。ですが、あんな王子につかえているとはあなたもその程度。このおれをふったのをあの世で後悔するがいい!」
男は叫ぶと短剣を取りだしてバルビナの心臓へと突き刺そうとした。が、それよりも早くバルビナが動く。バルビナは、ゆるやかな動きで外套の下に隠し持っていた短剣を引き抜き、男の心臓へと突き立てた。男は血しぶきを上げて地面へ倒れ込む。
「マリア様に手を出そうとしたこと、あの世で後悔なさい。あの方に触れるなど、お前には千年も早い」
(レイヴァンも甘いわね。こんな男を生かしておくのだもの。こういう男はすぐ裏切る)
さも当然のごとく男の屍を土の中へ埋め込むとたいまつを持って歩き出す。凍えそうなほど冷たい空は、バルビナの体温を随分と奪っていた。手はかじかみ足も氷のように冷え切っていて棒のようになっていた。それでも、歩みを止めず進んでゆく。
はあ、と息を赤くなった手に吹き掛ければ少し暖を取ることが出来たもののすぐに夜風にさらわれて冷たく氷のようになる。
(夜になるのが早いわね。こんな夜は、とても長いわ。それに今夜は月も星も見えない。永夜のようなこんな夜は、よくマリア様が怖がって私の所にくるまりに来ていたっけ)
そんなことを考えて空を見上げる。氷のような空は、何も見えず星の光すらも今夜は届かない。この星全体が氷の中に閉じこめられたかのように冷たい夜。
バルビナはマリアを恋しく思っていた。けれど、マリアの姿はおろか、闇ばかりで木々の姿も動物たちの姿も見えない。
(マリア様)
自分の主に想いを馳せる。すると、どこからか風を切る音が聞こえてきた。その音は確かに弓を射る音である。バルビナは警戒しつつ辺りを見回しながら深い闇の中を進んでゆく。少しずつ、音が近くなってくる。闇に身を潜めながら進んでいくと風を切る音が近くで聞こえた。顔をあげた刹那。闇に隠れていた月が顔を出して弓を射っている人物の姿を映し出す。その姿を見てバルビナは息を飲んだ。
月明かりに照らし出された少女の姿。くっきりと映し出すその姿は、凛としておりまっすぐに前を見つめている。少女によく似合う薄い金の髪は、月光を浴びて淡くきらきらと光を放つ。その髪が夜風に煽られてさらさらと流れる。彼女の来ている外套もまた風で戦場を駆けめぐる兵士のマントのようになびいた。まるで月の使者か月の精霊のようなその姿にバルビナは息を飲む。それほどまでも、あたりは幻想的で夢見がちな乙女の心をくすぶられた。
言葉を失って見つめているバルビナの口を背後から無骨な手が塞いだ。もがこうとするバルビナの耳に低く心地よい声が響く。
「静かに」
声に聞き覚えがあり、バルビナは解放されると共に相手の顔を見る。そこにいたのは、レイヴァンであった。思わずほっとして力を抜けば、レイヴァンもバルビナを見てほっとしたような表情をする。存外に彼もバルビナを心配していたようだった。
「バルビナ、無事だったんだな。マリア様が心配していた。自分のせいでバルビナが犠牲になったってな」
「そんなこと、気になさらなくても良いですのに。けど、マリア様らしいです」
バルビナがくすりと笑う。それを見てレイヴァンも微笑んだ。黒曜石の瞳には、マリアが映り込んでいる。
「ああ、そんな主であるから目が離せない。俺たちはマリア様のよき理解者で一番の味方でなくてはならない」
「ええ。けれど、レイヴァン。今、弓を射っているのはマリア様なのですよね。あなたが武器を持つことを許可なさったのですか? マリア様が武器を持たなくても」
「ええ、俺もそう思います。ですが、マリア様はこれ以上、自分のせいで誰かが傷つくのは嫌だと。だから、俺に武器を教えてくれとお願いしてきたんだ」
バルビナが息を飲む。そして、弓を射っているマリアを見つめる。
「マリア様がそのようなことを」
バルビナが言葉を零したときだった。マリアの金の髪が揺らめいてその髪の間から宝石のような青い瞳がバルビナの姿を捕らえた。月明かりに照らされたその瞳は、淡い光を放っている。その瞳が柔らかく光を放てば、表情も軟らかくなる。その一秒後には、先ほどまでの幻想的な雰囲気が消えて子どものように甘えるかかるような声が発せられた。
「バルビナ、よかった! 無事で」
マリアが駆け寄ってそう言えば、バルビナも表情を軟らかくする。
「マリア様も、ご無事で何よりです」
言ってふとマリアの首筋に目がいく。外套から少しばかり見える“何か”。思わず首筋に手を伸ばし、外套を少しだけはだけさせた。
失礼、といってはだけさせた白い肌からはっきりと首筋に紫色の“跡”が付いている。マリアの肌はまだ柔らかく雪のように白い。そのため、その“跡”はとてもよく目立つ。当の本人は気づいていないようだが。そんなマリアにバルビナがこの跡どこで付けられましたか、と問いかければマリアはたちまち首を傾げて息を漏らす。
「跡って?」
マリアは気づいていないようだ。首筋に、と言ったバルビナの言葉で合点がいったらしく「ああ」と息を漏らして答える。
「追っ手が来たときに不安がっていたら、レイヴァンがつけたんだ。お守りだと言われて」
バルビナの目が見開かれる。そして、「そうですか」とぼそりと呟くとマリアの外套を直しながら何かの本で読んだ知識が頭の中に流れ込む。首筋への接吻(キス)は執着の証。だが、まだ幼い少女に過ぎないマリアが知るはずもないのだと自分をいましめる。
「バルビナ?」
「いいえ、なんでもございません。それよりも、マリア様これを」
バルビナは、マリアにペンダントを渡す。ペンダントに付いている石は青い色をしていた。
「わあ、素敵。これは?」
「王妃様からです。マリア様に渡してほしいと、お守りだそうです。旧友のバートという方からいただいたと申しておりました」
「バート? 母上もバートと知り合いだったのか」
「俺たちはバートという者のところへ向かう途中なんだ」
「そうだったのですか。それから、マリア様。これを落とされていましたよ」
バルビナの懐から一冊の本が出てきた。それはマリアが落としていた本であった。本を呆然と見つめて、自分の体をまさぐる。
「本落としていたんだ。ありがとう、届けてくれて」
「いいえ、かまいませんよ。それに想いも吹っ切れましたし」
マリアが首を傾げるとバルビナは小さく笑う。その表情はどこか苦しげであり無理矢理、笑顔を浮かべているようにしか見えない。長年マリアとバルビナは共に過ごしてきたが、そんな表情を見るのは初めてであった。バルビナの思いの丈を計ることは出来なかった。
「いいえ、こちらの話です。それでは、マリア様、どうかご無事で」
一緒に来ないのかと不安そうにマリアが、問えばバルビナは、首を横に振る。そして、しばらく王都で王妃様と一緒にいるといってから、王様の安否をまだ確認していませんからと付け加える。
「そうか、母上は健在であったか?」
「ええ、とても。コーラル国に一泡吹かせてやると意気込んでおりました」
「母上らしいな。よかった、とりあえず母上とバルビナが無事だと分かって」
王都はどうだった、とレイヴァンが問いかければバルビナの表情が少し曇る。そして、重々しくも口を開いて王都の様子をあくまで客観的に述べる。
「コーラル国の兵で溢れかえっておりました。女子どもは家の中にかくまい、外を自由に歩けるのは男性だけでした。なんでも、いい女を見つけるとコーラル国の兵が連れ去ってしまうとの事でした」
そうか、と呟いてレイヴァンが少しばかり顔を伏せる。マリアも悲しげな表情をしていた。
「ありがとう、バルビナ。教えてくれて」
「いいえ、それくらいなんてこと無いですわ。マリア様、どうかご無事で。私はまた王都へ戻ります」
「ああ、母上を頼んだ」
にこり、と微笑むとバルビナはまた夜道を進んでゆく。その背中もすぐに見えなくなった。
今日のバルビナなんだか元気がなかったような、とマリアが呟いた。いつもなら、レイヴァンが何か言葉を返すのに黙っていたため、マリアの言葉に反応する言葉はなく、ただ黒い木々が風に遊ばれて揺られているだけであった。
心配になり、マリアはレイヴァンを見上げる。その表情があまりに悲しそうだったものだからマリアも言葉を失ってしまう。思わず、そっとレイヴァンの無骨な手を握りしめていた。
「マリア様?」
「すまない、つい。あまりに悲しそうな顔をしていたものだから。わたしはいつも悲しいとき、バルビナや母上がわたしの手をこうして握ってくれていたんだ」
にっこりと微笑んでマリアが言えば、レイヴァンの表情がほぐれる。
「ありがとうございます。もう大丈夫ですよ」
レイヴァンがマリアの小さな白い手を優しく振りほどく。その表情は優しげであるにもかかわらずどことなくぎこちない。それを見てマリアはふと、レイヴァンはバルビナが好きだから離れるのが惜しいのだろうか、と思う。じっとレイヴァンの方を見つめればレイヴァンは闇に溶けたバルビナの方をずっと見つめている。それを見てほぼ確信に近いとマリアは判断した。
(レイヴァンがバルビナのことが好きなのなら、少しでも早く二人がまた会えるように努力しよう。それが、今のわたしに出来ることなんだ)
この時、マリアは思い違いをしているなんて想いもしなかった。
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