第18話
直子は、油揚げを焦がさないようじっくり弱火で炙った。
炙った油揚げを細かく切り、スライスした玉ねぎと合せて市販の甘酸っぱいドレッシングをかけると、ちょっとした酒の肴になる。
簡単なわりに
早く着いたので時間的には煮物を作っても十分だったが、味付けに文句を言われるのも
さっき黙って立ち去らず、少し喋れば良かったか、とも思う。
直子は別に口が利けないわけではない。センテンスの短い言葉なら綺麗に話せた。
ただ発音の乱れが、よほど親しい間柄でないと気になるだけ。
ドアの前で筆談するのも……
まだ陽のある内のスナックにぽつんとひとりでいると、なんだか不思議な気持ちになる。真央の様子は、やはり友達としての嫉妬だったのだろうか。
変なふうに考えた自分が、可笑しく思えてくる。
〔きっぱりと縁を切る!〕らなくて、本当に良かった。
「おはよう。あれ、直ちゃん。今日トレーナーじゃないんじゃね」
沙織が出勤してきた。
|ど う し た の ? は や い ね|
メモに走り書きして、沙織に聞く。
「ゴルフやったんよ、ママと上田さん達と一緒に。面倒だし店で着替えよう思って。ママ達は8時位になるんと違うかな。食事してから来るぅ、言うとったけん」
「ふ~ん」
「可愛いいわ、直ちゃん。その方がずっとええわ。いっつもトレーナーばっかり着んでもいいのに。ママは、直ちゃんがお客さんにかまわれたら、嫌なんじゃろうね」
|おじ い の 一人 や 二人 騙 く ら か し て 稼 い だ る|
直子は油揚げを炙りながら、ガッツポーズを取った。
「……頼もしい」
沙織は笑いながら、奥の部屋に着替えに行った。
“人の印象とは、見る側の思い込みに過ぎない”
戸髙の妻から一本の電話があった。
最後に喫茶店で会った印象を彼女の本当の姿だと思っていたが、万引きの件で会った時の錯乱したほうが、その全体像に近いのではないかと、今は思う。
もちろん離婚するというのは、大変なことではあるのだろうが……。
期せずして引き金を引いた形の勲は、後ろめたさもあって、その時は耐えた。
戸髙の妻から二本目の電話があった。今はウイークリーマンションにいるらしいが、そのことは言わない約束になっている。
戸髙とは度々連絡を取っていて、あの後、一度だけ弁慶で酒も飲んだ。
「迷惑かけたな」焼き牡蠣の塩気の固まる前で、最後に戸髙はポツリと言った。
戸髙の妻から……もう何度目か分らないそれに、ついに勲は出るのをやめた。
ホームページが突然、閉鎖され、連絡が付かない人がいるとウーロンが困っている。この手のものにしては参加人数が多く、ウーロンはそのほとんどと交流があったらしい。
実生活でもある話だが、回避する手段をあらかじめ取って置かないと、ネットの世界では連絡がつかない事態に陥ってしまう。
“寂しい”と彼女は言った。時代が違うのか、勲の方がおかしいのか。
現実とは違う人間関係を、人はどれほど持っているものなのだろう。
ある日、連絡が出来なくなると困るから電話番号を教えてくれと、ウーロンに言われた。教えた直後、携帯が鳴る。
「もしもし、わー緊張する。はじめまして」
耳元で少し上ずった綺麗な声が響き、――四十歳のおっさんではないのだな――と、喋る話題を探す。
「私、電話苦手だから。なんかあったらこれで連絡とるね」
話題を見つける暇もなく、唐突に電話は切れた。
「これでいいの?」
真央は、直子に呆れ顔で聞く。
直子は、両手でOKのサインを出し、それを下ろして胸元にハートマークを作る。
「誰やねん、この男。えらい渋い声の男やな。この女だけは、油断できんな~」
直子は、胸のハートを両耳に当てた。
アルバイトはきつくて辞めたが、今回の
若者は、多かれ少なかれ耐性がない。働きやすい母の店だからこそ、逆にそのことがよくわかる。単調な日々に、直子は少し飽き飽きしていた。
沙織が営業中は吸わない煙草に火をつけるのを見て、直子も手を出そうとする。
「こら、ママにしかられるよ。それでなくても私、睨まれてるんじゃけ」
|自 分 吸 う の に 矛 盾 し て る|
「ママはいいんじゃろうけど……年配の人が多いからね、ここは。女が吸うの嫌うんよ。まあ、私も客から見れば若いってことじゃけん。この店で働く分にはしょうがないんよ」
沙織は、まだ長い吸い口をもみ消しながら言った。
|ラ ウ ン ジ と か は ?|
「ええ年やのに親がうるさいんよ。笑うじゃろ。上田さんの紹介やから働いてもいいって納得しとるだけやけん。それにここは客層が良いから通用するだけやぁ思うわ」
|You are number one|
「ナンバーワン? あは、ありがとん。でも他所で働くのはハンパなくきついきね」
|変 な こ と 聞 い て い い ?」
「香織やろ? 婚約破棄の話やろ。ほんましゃべりやきに、あいつは」
地元が近いホステスの名を挙げ、内容も言い当てて、沙織は二本目に火をつけた。
「うぎゃあ」直子はおどけて見せる。
「名前も一字違いでまぎらわしぃちゅうねん。ふふっ、別にええよ。直ちゃんもそう言うの興味あるんじゃね。女やね~。なんちゃないんよ。公務員でさ。面白みがない男でさ。つまらんくなってきてさ。今考えると勿体ないかもしれんけど……勿体無かったかな~」
「あらら」
「直ちゃんもきぃつけや。男は変わるんよ。自分のもんやと思うと途端じゃけね」
|I love ヤ ン キ ー|
「ぷっ、なによぉそれ。そうかなあ~? 私はかなり年上の人のほうが、直ちゃんに合ってる思うんじゃけどね。なんかそんな気がする」
「教授?」
ハレーション・ノイズ(補聴器に生じる音)が、小さく響く。
「あは、ちょっと教授じゃ年行き過ぎ。まあ、あの人若い時は男前やったんじゃろうけど、背も高いしね。そうじゃなくて私が思うんは、安心感のある優しい人のほうがなんとなく良いと思っただけじゃけ」
沙織が三本目の煙草を消した。
教授とは広大に勤務する年配の客で、決して学者ではないのだが、品が良くておさわりもしてこないので、直子が隣に座って接客する唯一の客だ。
いつも
|勿 体 無 い|
「根元まで吸うの嫌いなんよ、性格じゃけんね。でも、今から吸えんけぇ、ニコチンは量、欲しいし。あー今思ったじゃろ。なんや男もとっかえひっかえみたいな」
|フ ロ イ ト の 深 層 心 理|
「また、教授の受け売りかいな。今日水曜やから、教授くるんとちゃう?」
|来 た ら 座 れ る|
「教授、教授って、立ち仕事が疲れるからかいな。若いのに、なに言うちゅう」
「おはよう」
香織が出勤して来たのを見て、
「おはよう。カオリン」
二人同時にふり返る。
そろそろ開店の時間だ。
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