第7話
大阪環状線、
戸髙の父は在日韓国人で、既に帰化しており、戸髙は生まれも育ちも日本だ。
ただ、食に関しては本格的な素材を求め、妻の裕子にここまで買いに行かせるほど熱心で、だから大阪に来て一年余りの彼女には、数少ない馴染みの場所と言うことになる。
待ち合わた喫茶店は雑誌も碌な物が無く……言い訳を考えるには、かえって都合が良い。相手は、今回は時間どおりに来るだろう。
店内では、マスターと奥さんらしき太ったおばさんが何やら揉めている。
学生時代、戸髙は自分が在日韓国人だということを隠さなかった。
万事控えめで人の良い戸高が、その話題にだけは熱心に熱く語っていたのを思い出す。田舎育ちで身近に民族差別やそれに対して考えた事もなかった勲は、自分の無知を少し恥かしく思ったものだ。
だから、ネットなどで差別問題が目に留まると、戸高の笑顔と優しい印象がインプットされている勲には、最近おかしいまでに攻撃的なその内容に、なんだか違和感を覚える。
彼らは、誰からも反撃されない匿名の庇護のもと“手段”の為に“目的”を選ばない。
人は人を傷付けずにいられない?
(夫婦間暴力)
マスコミで踊るこの話題が、身近に、しかも信頼している親友にある現実として目の前に現れるとは、自分自身思ってもみなかった。眺めただけでは、男と女は分からない。
暴力の後ひどく優しくするのは、やくざが情婦にする手口に似ている。
彼らは“目的”の為に“手段”は選ばない。
普通の男がそれをするのは、ひとつの精神疾患なのかもしれなかった。
いちど暴力に頼ると、歯止めが利かないとも聞く。
アイスコーヒーの氷が、小さな音を立てた。
律儀に蝶ネクタイを結んだマスターが、奥さんに怒鳴られている。
「すまない、どうしても言えなかった」
裕子を目の前に、勲はそう切り出した。
デニム地のブラウスに白のセミフレアのスカートの裕子は、年齢より若く見える。
マスターと奥さんはまだ何か揉めていて、深刻な話をするには都合が良かった。
「いえ、岩本さんに相談して彼が逆上しないかどうか、あの後凄く不安で」
「うん、いきなり切り出すのは、やはりどうかと思ったよ、俺も」
(じゃあどうすればいい? ……愚かな先送り)
答えも無いまま、話を合わせるしかない。
「彼の実家とは疎遠ですし。恥かしい所を見られた上に、でも相談する人がいなくて……」
「いや、話してくれて良かった。誰も知らないところで悩むよりずっといいと思う」
「彼、謝ってくれるんですけど」
「俺はあいつの友達だ。あいつが悪い人間じゃないとは思っている。だから……ある種の病気なのかもしれない。あれから少しDVについて色々読んだんだけど、男だし俺だって思わずカッとなって感情で自分より力の弱い人を傷つけることもある。それが、一時的なものかそうでないかの違いが……」
彼らが結婚して10年以上。それまで幾度となく二人で話し合って駄目なものが、果たして解決できるものなのだろうか。
(いやもしかしたら、時間と共に若気の至りとして、後で笑えるくらいの……)
「私は、別れたくはないんです」
刺繍の入ったハンカチをぎゅっと握り締めた、彼女の決意は固いように思える。
これほどの愛情をもって、我慢できない暴力。
勲は戸髙の笑顔とその隠された暴力を、未だ頭の中でつなぐことが出来なかった。
「やはり、もう一度機会を作るよ。今度は必ず」
裕子の美しい顔が一瞬固くなり、でもそこに、やはり安堵の表情が浮かんだ。
彼女が先に帰った後も、勲はまだ喫茶店でぐずぐずしていた。
休日に、最近はすることがない……パチンコにでも行ったら大損だ。
慣れてみれば、この古い喫茶店は妙に居心地がいい。
やっと重い腰を上げ、レシートをレジに持って行くと、太った奥さんがまじまじと勲の顔を覗き込み「大変やね」 と言った。
居心地のいい場所は、そう都合良く見つからないものだ。
【ヒーロー誕生】
大袈裟かもしれないが、限られた世界の中でそれはまさに適切な表現だった。
被害者は、大内 武 22歳 無職 加害者は、中村祐樹 17歳 塗装工
名前こそ出なかったが、そのニュースは地方紙の片隅に載り、市内のボーリング場での若者の激しい暴力事件として取り上げられていた。
加害者は、被害者を土下座させ、全治三ヶ月の暴行を加えたと書いてある。
もちろん新聞に、その背景については、触れられていない。
だが、限定された仲間内にとって、その背景こそが重要なのだ。
被害者の大内は元暴走族で、引退後も仕事をせずふらふら数人の仲間と遊び歩く、質の悪い男。もともと族の中でも下っ端で、ただ性格が野卑でずる賢く、その意味で皆から嫌がられ恐れられていた。
事件の
人気のある後輩の名前を使って女を呼び出し、残虐な行為を繰り返したことを、まるで羨ましいかとでも言わんばかりで、見せられた客は眉をひそめる。
その時、背後で数人の男たちが動く。
まだ10代に見える彼らは、男の口から出た、ある名前に反応したのだ。
へらへらと笑う男の肩を、その中の1人がそっと叩く。
中村祐樹は、最高。
(広場)はまるでお祭り騒ぎだった。
話題は、彼女でもない女の為に逮捕覚悟で蛮勇を奮ったナイト1人に集約された。
英雄と言っていい。
不幸な事に、女子高生の荒い画像はもう収集の付かない所にまで広まってしまったが、もはやそんなことは、みんなの関心を集めていなかった。
むろん、違う場所では大騒ぎになっていたが……画像ではなく、珍しい“音声”付の流出動画として。
直子の指先が、カタカタと激しく動く。
一体どれだけの人間が、この限られたコミュを覗いているのだろうか。
何を書いても罪悪感のない、飴玉みたいな“本物の祭り”に、蟻の如く人が群がる。
そして、それは恐ろしいほどのスピードで、事件の謎を解き明かして行く。
被害にあった人間が、実際に現れたインパクトは大きい。
どうやら警察も捜査しているらしく、その動向まで克明に晒される。個人的な思惑や嘘、にわか者や根拠の薄い書き込みは瞬時に叩き落とされ、
……濁流のような聖者の行進は続く。
もはや、そこには直子の存在は影も形も無かった。
真実が、嘘を駆逐する。
現実の世界で、その逆が多い分だけ、その転換は鮮烈だった。
最初から憶測の噂話で、書いた本人さえ、その事を忘れたかのように。
直子の脳と部屋と外界と現実にすっぽりと貼られた膜がゆっくりと溶けていく。
もう外に出ることも怖くない。
闇の中の心無い言葉など知らない風で振舞えばいいのだ……あの時と同じように。
無責任な外野と同じく、直子にとっても中村祐樹は現実のヒーローとなった。
しかし同時に、その存在が今までより遠くに感じる。
……寂しく感じて。
自分でも、わけの分からない矛盾。
つまらない、ちっぽけな真実。
直子の中で、ひとつの恋が終わった。
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