第5話

 やはりそう言うことだった。

 何かを感じていた、感じていたなら断れば済んだはずだ。


 曖昧な意識の中で、矛盾する行動の理由を、自分で探すことができない。

 車から降り、後ろ向きに歩き出す。少し経ってから、エンジン音がむなしく響く。


 祐樹が来るからと電話で呼び出されたとき少し舞い上がっていたのかもしれない。

 最初は、軽く体を触られるのを冗談でかわしていた。

 しかし、次第にそれが深刻な事態なのだと気づく。


 恫喝どうかつ

 その一撃で、抵抗する気力は失われていた。

 手足を押さえつけられ、二人の男が執拗しつように乳房に吸い付いてくる。

 やめてと言葉にするが、もう時間が過ぎるのを願うしか無かった。

 恥ずかしい姿勢を強要され、屈辱くつじょくの言葉が半笑いの男達から浴びせられるうち、少しどうでも良くなる自分がいる。

 せめてもの救いは、その場に祐樹がいないことだけ。


 すべてが終わった後、男達に現金を差し出され、激しく首を振った。陵辱した時はハイエナみたいだった彼らが、急に自分たちがしたことに不安を覚えたようだ。

 最後の気力を振り絞り、彼らが面白半分に撮った携帯の画像を消すように懇願こんがんする。

 もし消さなければ警察に行くと、………… 残されたプライド。 


 流れ川通りを、出向いたままの格好でとぼとぼと歩く。

 卑劣な男達にも不用意な自分にも怒りが込み上げてきたが、涙は出てこなかった。

 コンクリートの固さが足に響く不思議な感覚で、自分の神経が限界であることに気付く。目の前に走ってきた路面電車に乗り、スエード調の座席の中に年配の婦人しかいないのを確認し、下を向いて、そこで少しだけ泣いた。


 電話で、断ってさえいれば……破壊された時間は、もう元には戻らない。

 曖昧な行動は、抜けない棘を心に突き刺す。


 真横の太陽が、殆ど水のない川に乱反射し、電車の窓と、うつむいたままの彼女を交互に光らせる。


 やがて、少女の中に恐ろしいほどの攻撃性が生まれた。

 ……自分の心を、守るために。











(…………なぜ? こんな嘘っぱち)

 私の顔は硬直し、マウスを握る手が小刻こきざみに震えた。


 母のスナックの客と、私が寝ていると噂を流された時と同じ。

 一欠けらの嘘は、次第に数を増やし、もう誰にも止めることが出来ない。

 最初、私を匂わす“特徴”だったものが、憶測が飛び、それを裏付ける背景までもが捏造されていく。嘘が嘘を加速させる。


(誰が……?)

 私はまるで複数の手で暗闇に引きずり込まれるような感覚を覚えた。


 人気のある暴走族のメンバーを餌に、何人かが犠牲になったのは本当らしい。

 背景は分からない。暴走族とけつ持ちのやくざとの関係は深い。脅されて風俗にでも……だが、そんな事はどうでもいい。


(何故、私が……被害者にされているの?)

 個人的な(広場)のほうがもっと残酷だった。

 私が祐樹のファンなのは、親しい人間なら誰でも知っている。

 噂話のコミュから離れ、仲間同士の会話の中で既に、私の名前は出されていた。


〔彼氏が仲間内から聞いた〕

〔もともとヤリマンだから喜んで行ったんじゃないの?〕


(どうして……いつも私なの?)

 身に覚えのないレイプの被害者にされ、もう三日、家から出られないでいる。家族はまだその異変に気づいてはいない。高校時代のいじめの延長のようなものだから、恵さんや真央に相談するわけにはいかない。ましてや知られたくもない。言いようのない焦燥と絶望が、胸を締め付ける。



「直ちゃん、桃むいたから食べんか」

 最後の心の糸を引っ張って、祖母の部屋で一緒にテレビを見る。

 優しい祖母は、孫といる時が一番楽しそうだ。

 彼女の好きな映画は、のんきな音楽と共に、のんきに始まる。


 私は、自分の生きている場所と別世界の画面をぼんやり眺め、

(このテキヤのおっさんは、おっさんの癖にセックスの匂いがしない)

 その事が、今の自分にとって、すごく神聖なことであると感じた。












 焼いただけのししとうに削り立てのかつぶしを掛けポン酢を垂らす。それだけで、その香りの良さと旨みに思わず唸ってしまう。

 居酒屋弁慶べんけいは、細長いカウンターだけの粗末な作りで、厨房ちゅうぼうも驚くほど狭いが、それでいて呆れるほど美味い料理が出てくる。

 戸髙に連れられて以来、勲はこの店に足繁あししげく通うようになっていた。


「岩本ちゃんは、旨そうに食うねぇ」

 短い白髪頭しらがあたまの大将が嬉しそうに、それでも下ごしらえの手を休めず話しかける。こんなにゆったりした気持ちになるのはいつ以来だろう。リストラされパートで働くようになってから、飲み屋はとんとご無沙汰だった。

 それが、少し堰を切ったようになったか。

 シャコと胡瓜きゅうり、珍しいショウサイ河豚ふぐ白子しらこを合わせた、冷たい一品にはしを運びながら、テレビに映る若い女優を眺める。


 結局あの時、戸髙に何も言えなかった。

 彼女が取り乱したのは勲に対する偏見ではなく、結婚当初から続くドメスティックバイオレンスのせいだと聞かされたとき、なんとかしてやらねばと思ったが……。

 幾つかの思考と言い訳が、サスペンスの犯人探しの邪魔をする。


(外づらの良い男が、それを指摘されたとき、事態は悪化するのではないか)

(果たして戸髙の妻の言い分は正しいのか。自分との関係を疑われるのではないか)



 テレビのニュースが、不況を喧伝けんでんしている。

 思えば輸入卸の会社で、本分のキャリアを積まずに第三セクターの出店に手を上げたのが人生の失敗の始まり。見込みの甘さと役人の垂れ流し経営で、夢の施設は数年で大阪市のお荷物になる。


 テレビのニュースが、幼女連れまわしの話題に切り替わる。

(……ここ最近、この手の話が多いな)


「俺が、言うなっての」

 勲は、呟きにもならず、苦笑しながら口の中で唱えた。

(可愛かったから? 違う。俺はロリコンの趣味なんかない。まして誘拐など)


 戸髙の妻とのことで期せずして引っ張り出された過去の記憶に、自分自身が不意に対峙させられた気がした。









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