第3話
ニューヨーク・ダウの動きに、岩本 勲はため息をついた。
最初は面白いほど儲かったが、潮目が変わって資金は嘘のように目減りしている。
だがリストラの割り増し退職金を半分以上溶かした今も、勲はこのギャンブルから抜け出せないでいた。借金があるよりまし。たどり着くのは、いつも単純な逃げ道。
スーパーの仕事は好きになれない。
比較的、気のいい人間が集まっている職場だけにパートとしては年齢も経歴も異質な彼に気を使っているらしい雰囲気も勲を憂鬱にさせた。音のないテレビの灯りだけ頼みに、ウイスキーを探し、眠る為だけに空っぽの自分に流し込む。溢れ出る感情は暴れだし、ベッドで横になっても頭の中をぐるぐる回る。
人生に逆転はない。それを喉元に突きつけられて、三十を過ぎた男が震えていた。
「雑だよね。きっちりしないと、全部ロスカットだよ。わっかてる?」
勲は曖昧に笑うしかない。
川本は大阪に数店舗を構えるこのスーパーの正社員で上にはぺこぺこするが下には威張りちらす典型的な嫌な男。時にはパートの主婦にセクハラまがいのことまでするので、みな辟易していた。川本の言う通り仕事をすれば、必ずミスが出る……要領のいいパートはそこを見越して仕事をするのだが、はじめて半年も経つのに勲にはそれが出来ない。
愚鈍。……彼の人生に、いつからかこの暗い雲が覆いかぶさっていた。
「あのすいません。斉藤さんが応接室にこられました」
二人のやり取りに、最近入ったパートが割ってはいる。
「あ、もうここはいいから岩本君行ってきて。きっちり仕事してよ、ほんま」
パートの主婦が少し美人なので、川本は自分の威厳でも出そうとしたのか大柄に言うと、ぷいっと惣菜売り場の方に歩いて行った。
(斉藤さん)。 人の弱みが好きな川本なら、いつもは喜んで行くところだが……ここ何回か30分以上泣き喚く(斉藤さん)や逆切れして殴りかかろうとする(斉藤さん)が続いたので、勲に押し付けたのだろう。
(斉藤さん)とは万引き犯の隠語で、応接室ならぬ荷受場片隅のプレハブ小屋で、契約している警備会社の社員に捕らえられ事情を聞かれているはずだ。
勲が勤めるスーパーでは基本的に万引き犯は警察に引き渡すことになっているが、商品と単価、以前から疑わしかったかどうかなどの確認の為、一応同席する。
最初の2、3回こそ、興味本位で面白かったが、気の重い作業だ。
バックヤードからすえた匂いのするスーパーの裏手に回り、プレハブへと向かう。夏の熱気で火傷しそうなドアノブを握り、中に入ると、そこには見知った顔がある。
勲は意外に動揺しない自分自身に驚きながら、出来るだけ自然な動きでパイプ椅子に腰を掛けた。
25歳には、25歳なりの振る舞いがあり言動がある。
悩みも25歳なりで、セックス経験も、…………まあこれには自信があるが。
住所は神奈川県横須賀市に設定。何度も使った場所なので万事抜かりはない。
地方の女の子は、首都圏のほうが、食いつきが良いのだ。
“なりすまし” はお手のもの。
25歳のOLを装い、不倫話を餌にしながら巧みに会話を進めていく。
いじめグループの一人とこうしてメールするようになってどれくらい経つだろう。
別に弱みを見つけて復讐してやろうとか、そんなつもりは無い。動機は恐怖心からか固執からなのか。好奇心と言う単純な呪縛に取り込まれているだけかもしれない。
HPやブログの悪口をチェックする行為が、やがて別人になりすましてやり取りをするまでになり、その世界は、いまや独立した別人格としてそこに存在していた。
「広場」に飛ぶ。
最近、私が金髪の女とコンビニでたむろしていると書かれてある。
下品な格好、卒業デビューですか? みたいに面白おかしく。
真央といる所を誰かに見られたらしい。
私の話題を書かれることも最近少なくなっていたので、少しドキッとした。
私のことはいい。以前のように話の流れがエスカレートしなければそれでいい。
ただ、真央のことを悪く言われるのには腹が立つ。
あいつがどれほど仕事をがんばっているか、こいつらは知らない。
メールの返信が来た。
母の店の客と私が援交してると噂を流した人間が人の生き様について語っている。
嘘の噂でどれだけ人の心が傷つくか、こいつは知っているのだろうか。
自ら覗き込んだ癖に、人間の二面性を目の当たりにすると、少し憂鬱になる。
返信のメールは、不倫相手にアナルセックスを強要される内容にした。
経験は無いが、そこは想像力と願望でカバーして……。
こいつはどんなリアクションするだろう?
ネカマと疑われてメールが止まってしまうかな?
送信してから、ちょっと失敗したかなっと思う。
まあ、どっちでもいいや。
大阪の南部にある私鉄駅のバスターミナルはそこまで来る路線の風景から比べるとぽつんと小奇麗で、吹き抜ける柔らかい風が真夏に心地よく感じられる。急作りの街なのか視界には喫茶店も無く、30分以上早く着いてしまった勲は、不自然に多い緑を眺め、暇を潰すしかなかった。
ほどなく、クラクションが鳴る。
どうやら、相手も早く着きすぎたようだ。
少し躊躇いながら助手席のドアを開け、静かに車に乗り込む。目線をわざと外したが、相手はサングラスをかけプレハブ小屋で見た少し疲れた印象とは違って見える。
大学時代の親友である戸髙の妻は近くの短大に通っていた、勲達の2歳年下。二人は学生時代から同棲しており、卒業して二年後に結婚した。地味な戸髙に美人の彼女が出来たので、当時、やっかみも含めて良くからかったものだ。
三十を過ぎ若い頃には無かった色気が備わり、元々、美しかった顔立ちがますます魅力的に見える。
(地味で実直な男を選んだ、派手目の美人か……)
勲は、二人の生活のズレを頭の中で勝手に想像しながら、知らずに彼女を観察している自分に気づき、あわてて前の車列に視線を向けた。
卒業して地元広島の家電量販店に就職した戸髙が、一年ほど前、転勤で大阪に来てから何度か飲みには行っていたが、彼女と会うのは学生以来だ。
…………むろん一週間前、無言で出会ったのは別にして。
「久しぶりだね」
そう言うしかない。
「この前のことだけど」
それには答えず、唐突に言葉がさえぎる。
「主人には黙っていて欲しいの」
やはりそう言うことだった。
後悔は先に立てて置くべき。こんな事はある程度予測出来たのだから。
曖昧な意識の中で、矛盾する行動の理由を、自分で探すことができない。
車から降り、後ろ向きに歩き出す。
少し経ってから、エンジン音がむなしく響く。
彼女から現金の封筒を差し出された時、勲は驚いて、やんわりとそれを押し戻す。彼女の顔は切迫感で押しつぶされ、正常さを見失ったのか、半ば滑稽にさえ見えた。
人には様々な事情がある。
それよりは寧ろ、見咎められた相手を自分と夫の生活を脅かす危険な人間なのだと彼女が認識し、一種パニックになったことの方がよほどショックだった。
勲には、それが何故か思い当たらないではない。
十数年前の取るに足らない小さな棘に、歯車の狂った人生のここに来て、チクリと刺された気がした。自分でも忘れかけていた、つまらない出来事。
あの時、警察にも話を聞かれただけだったし親も知り合いもその後、自分に対する態度が変わるようなことはなかった。ただ、彼女は勲に対してある種の印象を持っていたと言うことか? それ以外に、思い当たる節はない。
しかし、……事情は違っていた。
彼女に安心するよう告げ、気まずさから逃げるみたいに車を降りたので、最寄り駅までの中途半端な距離を、少しうんざりしながら歩く羽目になる。
曖昧な行動は、新しい棘だけを心に残した。
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