アミちゃんの行き先

葵上

水色に近い、二人の部屋で

 愛水ちゃんはまた次の家を探さなくてはいけなかった。

 これ以上白崎さんが辛い思いをするのは可哀想だと思ったから。

 不思議と感情はあまり波立たなかった。

 実を言えば、いずれ近いうちにこの部屋を出なければいけないことはなんとなく分かっていた。

ただ、もう一度だけあの笑顔が見たかったなあと、少しだけそんなことを思ったけれど、どうにもそれは叶いそうもないから、彼の頬にそっとキスをするだけで我慢した。


 愛水ちゃんは部屋の中でころんと横になりながら窓の外をぼぅっと眺めているのが好きな、そんな女の子だった。空が青いのを見て落ち着き、白い雲が通っていくのを見て感心し、たまに鳥が過ぎ去っていくのを見て高揚するような、そんな人だった。もっと言えば、愛水ちゃんの世界には、つまらないことなんて一つも存在していなかったのかもしれない。

 それは何も考えずに過ごせるような、ふらふらとした人間だったからかと言えばそうではない。

 愛水ちゃんは高校に入るまでずっと学年でも上位の成績をとり続けていたし、それ以外のどうでもいいようなこともたくさん知っていた。お父さんがお医者様だったから、周りからは「サラブレット」なんて言われたりもしたけれど、競走馬みたいに必死に勉強をしている姿は一度も見た事がない。

 愛水ちゃんは、勉強が好きとか嫌いとか以前に単純に記憶力が良くて、三回も教科書を読めば、その内容がほとんど覚えられてしまうほどだった。愛水ちゃんに言わせれば、それは良いことばかりではないらしく、どうにも煩わしく思えることが定期的にあった。

「何か一つ話そうと思って口を開くと、次から次へとどうでもいいことばかり浮かんできて、そっちのこともあっちのことも話したくなってしまう」

「とうとう最初に何が言いたかったのか分からなくなってきて、どこに会話を着地させたらいいのか、自分でもどうしようもなくなる」

というのは愛水ちゃんの弁で、身近な友人に何度かそう嘆いていた。

 もちろん本人にも悪癖であるという自覚はあったけれど、そんな風にぐるぐるした話をするのも嫌いじゃなかったから、それが改善されることはついになかった。

と、いうか、嫌いになるとはどういうことなのか、愛水ちゃんにはまるで分からなかったのだ。好きとか嫌いとかで世界を分けてしまうことは勿体無いと感じていたし、その二つの境界線っていったいどこにあるんだろうと考え出すと、二つの目玉がぐるぐるしてしまって、どうにも出来なかったのだ。

 

 だから、愛水ちゃんは誰のことも恨んだりしなかった。

 上靴や筆箱を隠されたり、黒板いっぱいに悪口が書かれていたり、お気に入りのハンカチが女子トイレの便器の中で馬鹿みたいにプカプカ浮いている様子を見ても。

もちろん何も感じなかった訳ではない。心無い行為を突きつけられた日は、一体誰がこんな事をしたのだろうと思案し、晴れない気持ちでぐずぐずと過ごした。でも、次の日になるとそんな感情はため息みたいにどこかに消えてしまうのだ。世界の再評価と想像。それが愛水ちゃんの性質だった。

 

十七歳の時に、ドライブに行こうと呼び出され、そのままレイプされた時もそうだった。普通、そんなことがあれば世界のあらゆる面が真っ黒に見えてしまうのだろうけど、それからも愛水ちゃんは車が嫌いになったり、男の人を嫌いになったりはしなかった。

 とても痛かったし、とても怖かったし、しかもそれは愛水ちゃんにとっての初めてのセックスだったけれど、それでも愛水ちゃんはそのままだった。ドライブに出かける時の高揚感とか、異性への興味とか、自分の身体を何か得も知れぬものが登りつめて行くあの感じとか、そういったものの方が愛水ちゃんには大事に思えたから。

 ただ、暴力という仕打ちをくれた彼への嫌悪感だけは確かなものとして愛水ちゃんの中に残った。何故この男性は何の約束も無しにこんなことが出来るのだろうと、いくら考えてみても理解は追いつかなかった。そんな疑問が頭をよぎるたびに愛水ちゃんの白くて細い身体を強い憤りが貫いて、感情を持て余した。血液と精液で股の間をぐちゃぐちゃにしながら、愛水ちゃんは、これだけの過ちを犯してしまった彼の身に、或いはその人生に、何かとんでもない不幸があるに違いないと確信して、それは悲しいことなのかもしれないと思った。不幸な方向にしか力を振るえない目の前の男性がひどく哀れに見えて、そんな人間に好きにされている自分が情けなくもなった。

 結局、その三日後の晩に、彼は交通事故にあうことになる。スピードの出しすぎが原因で、電柱に思い切り衝突し、自力での歩行さえ困難になるような大怪我を負ったのだ。

「意外とこんなものか」

 話を聞いた愛水ちゃんは、ただそれだけを空に想った。


それからも愛水ちゃんは、楽しい、或いは楽しそうと思えるようなことを繰り返して生きた。まるで、散歩でもするみたいに。

 大学進学はとてもつまらないような気がして、あっさりと働きに出た。十九歳で上京し、工事現場で赤い棒を振り回して見たり、夜の店で「美亜」として生きてみたり、ライブ会場で売り子をやってみたりした。最初はアパートも借りていたけれど、男の人の家を転々とするうちに、帰らない日が増えたので引き払ってしまった。愛水ちゃんは、抱かれてもいいな、と思える男の人がいるとすぐに声をかけた。その日のうちにセックスをして、一晩だけで離れてしまう人もいたし、何ヶ月もの間、その男の人の家に住むこともあった。


 白崎さんも、そんな男の人のうちの一人だった。白崎さんは柔らかい笑顔と、大きくて暖かい手の持ち主だった。他の部分はどこにでもいるような四十三歳のおじさんで、髪の毛が少しごわごわしていたり、指の第二関節のところから毛が長く伸びていたり、爪の先がたまに黒くなっていたりして、つまり、全く愛水ちゃんのタイプなんかじゃなかったけれど、この人ならいいかもしれないと思わせる清廉さがあった。

白崎さんは今までの誰よりも丁寧なセックスをした。愛水ちゃんの知る限り、それはとても普通なセックスの仕方で、白崎さんに言わせれば普通のことなんて世の中にはないらしいのだけど、愛水ちゃんの世界では、ちょうど真ん中にあるみたいな方法と手順だった。階段を一つ一つ丁寧に登らせてくれるような触り方をするから、突然二段飛ばしをしてびっくりしたり、いきなり階段を転げ落ちてがっかりするような事も無かった。

白崎さんは初め

 「ぼくはミステリアスな男で居たいから」

 とカッコつけて何も話そうとはしなかったけど、今年で四十三歳になる独身男性で、印刷会社に勤めるB型の合唱曲好きであることはその日のうちに分かってしまった。愛水ちゃんは、聞かれればなんだかんだと何でも話してしまう姿を見て、すごく人がいいんだなあなんて驚いたりもした。

「どうせ行く先も決まって無いなら、うちに来たらいいじゃないか」

服も着直していないうちからそんなことを言うものだから、愛水ちゃんは少し慌ててしまった。

「え、押しかけてもいいの?」

ほとんど形式的に聞いたつもりだったけれど、白崎さんは真面目な顔をして答えてくれた。

 「うん。もし愛水がそれで助かるなら何泊でもしていけばいいよ」

 「なんでそんな風にしてくれるの?」

 「愛水のことが大事だからだよ」

まだ出会ったばかりなのに不思議だなあと思ったけれど、口には出さない事にした。


この時の愛水ちゃんは、ちょうど前に住んでいた男の人の家を抜け出してきたばかりで、行くあてに困っていたところだったのだ。

それまで一緒に暮らしていた人、狩野くん、はとても優しい声と優しい目をしていて、愛水ちゃんはそれに夢中だった。狩野くんは働いていたり働いていなかったりしていて、月末になると親に電話をかけ、電波を介して殴り合いの親子喧嘩をした。電話の最中よりもむしろ後の方が大変で、部屋の中を全部ひっくり返すみたいして暴れたり、もの投げては奇声を発したりと、とにかく感情のまま動いた。愛水ちゃんと目が合えば、身体をつねるようにして抱き上げ、あっという間に怒張したそれを挿入し、それから何度も何度も腰を打ち付けた。怒りが鎮まるまで、いつまでも。

行為自体は激しかったけれど、事後は決まって優しく振る舞ってくるのが心地よくて、愛水ちゃんは必ず狩野くんより先に眠りに落ちた。今までそんな風に寝たことなんて無かったから、愛水ちゃんは抱かれるたびに新鮮な気持ちになれた。

周りの友達からは、狩野くんはやめた方がいいよとか、そんな上面の優しさに騙されないでとか、声をかけられたりしたけれど、愛水ちゃんにはまるで良く分からなかった。上面の優しさってなんだろう。髪を優しく撫でるこの所作の、どこに嘘があると言うのだろう。

狩野くんの部屋はまあまあ居心地も良かったけど、自分の代わりに二百万円を借りてくれないかと頼まれたから、愛水ちゃんは逃げることした。狩野くんの事は、今でもいい人だったなあと思うけれど、お金に追い回されるように生きていくのは嫌だったから、そうするしかなかった。狩野くんはそれから随分と愛水ちゃんを探したけれど、愛水ちゃんは携帯を持っていなかったし、その時やっていたキャッチの仕事も無断で辞めてしまったので、見つかる事は無かった。


 それからホテルで朝をむかえ、その足で白崎さんのマンションに転がり込んだ。主寝室に入る途中で通ったリビングには、堂々と作業着が部屋干しされていて、さらにその胸元には社名が刺繍されいたり、ポケットからネームプレートがはみ出していたり、その隣では生年月日の書かれた賞状みたいなものが飾られていたりして、それは愛水ちゃんの目に瑞々しく映った。

 ふらふらと女の子を自宅に連れ込んでしまうような人間が、なぜこんなに無防備でいられるのだろうとひどく感心してしまい、以来、白崎さんのことを「おなかを見せたまま寝るワンコ」のような生き物として認識している。


 それからもう半年くらいが過ぎようとしていた。

 愛水ちゃんはいつも昼くらいに起きて、まずはお風呂に向かう。シャンプーの泡で髪の毛をいっぱいにしてからお湯に浸かって、それから大きな声で鼻歌を歌う。この時のお気に入りは「流浪の民」だった。いつだっか白崎さんが教えてくれた歌だった。お湯が冷めないように、うんと細くしたお湯を出したままにして、たっぷり一時間くらいは水の中でそうして過ごす。

 お風呂を出たら、簡単に髪の毛を乾かしてから、誰もいない主寝室に忍び込む。音をたてないように静かに扉を開けてから、大きなベットに勢いよく身体をぽんと放り投げて、それからはしばらく自分の重力を肌で感じていい気分になる。ベットが少し沈み込んだ分。これが自分が生きている証なのだと実感して。

 愛水ちゃんはよく、こんな風にぽかぽかとしながら最初の夜の事を思い出す。忘れた事はないから、思い出す、というのは変かもしれないけど。大事だからだよ、と言われたままに口に出して反芻してみるけれど、それは自分でもびっくりするくらいに寒々しい響きがして、何がこんなに違うんだろうと考え込んでしまったりした。そもそも白崎さんは、一体何がそんなに大事なんだろう。

大事だからだよ。大事だからだよ。


部屋の奥にある真っ白なカラーボックスは白崎さんの秘密の棚だ。吊るされたこげ茶色のカフェカーテンをめくると、数えきれないくらいのCDがぎっしりと並べられていて、自分もこんな風にしまわれる時が来るのかもしれないと思うと、少し可笑しかった。愛水ちゃんは白くて細長い指でそれを一枚一枚丁寧に取り出し、中を開けては歌詞カードを取り出し、綴られた言葉を声に出しては、端からフローリングの上に並べていった。知らない曲がほとんどだったし、時々、英語の歌もあったけれど、深く気にせず、読めるように読んでいった。

 やがて床がいっぱいになってくるとキッチンに向かい、自分では使ったこともないような調味料の瓶を開けては匂いを嗅ぎ、おいしそうな匂いで胸をいっぱいにしてからまた主寝室に戻り、それからふらふらと部屋の主の帰宅を待った。


「ただいま」

暖かい声が家の中の空気を入れ替えてくれるのを感じて、愛水ちゃんはいつも感動する。やっぱり白崎さんは不思議だ。

「おかえりなさい」

おかえりなさい、というようになったのはそう答えるように言われてからだ。もちろん常識として知ってはいたけれど、愛水ちゃんの家にはこんな風に挨拶を交わす習慣なんて無かった。何の意味があるかは分からなかったけれど、そうして欲しいと言われたので、とりあえず教わったことをその通りに口にした。

 「今日もたくさん散らかしたんだね。何かいい言葉は見つかったかい?」

白崎さんは、部屋が散らかっているときは決まって上機嫌になる。だからいつもわざと片付けはしないままにしていた。掃除なんて面倒くさいだけの愛水ちゃんにとっては都合の良い事だった。

あまり覚えてないの、と答えると、

「また思い出したら教えてもらうよ」

と、楽しそうに言うのが、離れていた時間を確かめ合う儀式だった。

愛水ちゃんはお昼に暖めた冷凍のチャーハンの残りを暖め直して、白崎さんは新しく買ってきたお弁当の片方を冷蔵庫に閉まった。白崎さんの帰りはいつも遅くて、面白いテレビは全部終わってしまっているから、愛水ちゃんはいつも「今日見たテレビ番組の報告」をしながらご飯を食べた。それが愛水ちゃんには最低限の礼儀に思えたから。

ワイドショーで見た、どこそこのゲイノウジンがフリンした話とか、テレビショッピングで宣伝されていた掃除機がいかに素晴らしかったかとか、時代劇でやっつけられたおじさんが、善良な顔をして裏ではどれだけの悪事をはたらいていたか、とか、一生懸命に説明した。愛水ちゃんは相変わらず迷子みたいな話の仕方しか出来なかったけれど、それでも辛抱強く、うんうんと聞いてくれるのが白崎さんの美徳だった。

しっかりと話を聞いてくれる白崎さんを見て、ああ大人だなあ、と思うのと同時に、自分ももう二十歳を過ぎていたことをふと思い出す。子供とか大人とかって一体誰が決めているのだろうと訥々と考えてしまい、考え始めるともう止まらない。

耳の辺りが熱くなりだし出したところで

 「ねえ。お風呂の水は、出たら止めてくれると嬉しいなあ」

 なんて唐突に言ってくれるものだから、愛水ちゃんはなんだか助けられたような気持ちになって、ああ、やっぱり白崎さんは大人なのだ、と妙な納得をした。小言を言われてますます笑顔になる愛水ちゃんを見て、反対に白崎さんの顔が困ったそれに変わっていく。ずっとこの顔のまま、冷凍保存出来たらいいのに。それが無理なら、チャーハンと一緒食べてしまえたらいいのに。愛水ちゃんは最後の一口をぱくりと胃に放り込む。


真っ白なシーツの上で、白崎さんはいつも愛水ちゃんの髪を撫で回した。色素の薄い茶色がかった髪をとても大事に扱うものだから、それはただの髪の毛だよ、と教えてあげたくなって、そんな衝動を抑えるのがいつも大変だった。くるくると水をかくような指の使い方で、でもとても安心してしまうような触り方をするから、ふとお母さんみたいだなと思った。愛水ちゃんにはお母さんなんていないのに。

愛水ちゃんのお母さんは、愛水ちゃんが産まれてすぐに居なくなってしまった。フリンをするような、汚い女だから追い出したのだとお父さんは言っていた。お父さんは、愛水ちゃんが見上げてしまうくらい大きな病院で働いていて、なかなか家には帰らなかった。まるで敵討ちでもするみたいに働いているお父さんは、とても辛そうに見えた。

だから愛水ちゃんはいつも一人だった。寂しいとか悲しいとか、そんな事を覚えるより前にひとりぼっちになってしまったから、愛水ちゃんは小さい頃からずっとずっと自分自身を大事に育ててきた。そうするしかなかったから。ふんわりと覚えているのは優しい声と、暖かい手だけだった。


一晩経てばどうでも良くなると思っていた。今までずっとそうしてこれたから。髪の毛しか触られなかったせいなのか、お母さんみたいだなと思ったせいなのか、次の日になっても愛水ちゃんは沸々と湧いてくる疑問と戯れることになってしまった。

白崎さんは何が違うのだろう。あの夜自分に襲いかかった彼と、一体どこが違っているんだろう。

愛水ちゃんは、どうして自分は流浪の民がこんなに気に入っているんだろうと思いながら、また昼間からお風呂で鼻歌を歌うことにした。歌詞はいつまで経っても理解出来なかった。


間延びしたようなチャイムの音がした。

ここのベルが鳴る時は決まっていて、管理人さんが来る時か、そうでなければ宅配便が届く時だった。白崎さん、今度は何を頼んだろう。前は白い筋がたくさん入ったお肉だったし、その前はズワイガニの冷凍だった。

人を待たせるのは気持ちが良くないから、愛水ちゃんはバスタオルだけ持って玄関へと向かった。

スコープを覗くと、大学生みたいな男の人が立っていた。堀が深くて、目が鋭くて、まるで何か許しを請うているような暗い雰囲気で、いつか美術館で見た、宗教画から抜け出してみたいだと思った。お父さんに似ている気がするとも。

その手には何かカタログがたくさん詰まった袋があるだけで、美味しそうな物は何も持っていなかった。

でも、愛水ちゃんはすぐにドアを開けてかれを招き入れた。

「おかえりなさい」

なんて美味しそうなのだろう。

それから愛水ちゃんは彼をお風呂に誘った。それは素晴らしい思いつきに思えた。

彼は少し驚いたふうにして、それからためらいがちに靴を脱いだ。

「きっと前世か何かで約束してたんだね」

愛水ちゃんは思わずにんまりとした。それを見た彼も。

意外なことに、愛水ちゃんにとっては何も意外ではなかったのだろうけど、彼は暑苦しい衣服を脱ぎ捨てても、すぐには手を出したりはしなかった。一緒に浴槽に入っても、しばらくはとりとめのない会話をした。どこで育ったとか、星座に詳しいのだとか、好きな歌は何かとか。そんな話を聞く中で、彼の名前はけんたろうだと知った。

唇と唇が触れ合ってからはすぐだった。


弾けるような音が鈍く響いたのは、暗くなった主寝室の中でだった。白崎さんが、愛水ちゃんの頬を叩いたのだ。

「どうして?」

そう聞いたのは愛水ちゃんの方だった。

白崎さんは、すぐには答えなかった。

部屋の中では何かが確かに膨張を始めていて、それが息苦して辛かった。

「ごめん。そうだよね」

ようやくそれだけ声にした白崎さんは、力無くそのこぶしを緩めた。

白崎さんの顔は腫れたみたいに真っ赤だった。

愛水ちゃんには分からなかった。ただ、けんたろうと交わった事を話しただけなのに。この部屋にいるのがこんなにも好きなのに。

「大丈夫だよ」

頬はもう痛くなかったから、それだけ報告したつもりだったけど、膨らみ出した何かはちっとも小さくならなくて、愛水ちゃんには目の前の男の人を、どう扱えばいいか分からなかった。


朝になっても白崎さんは泣いていて、愛水ちゃんは今日が日曜日である事を思い出した。今日はこれから二人でたくさんのテレビを見ないといけない。

「愛水はここを離れてしまうんだろう」

そう聞かれたけれど、何も答えられなかったし、特に何も考えていなかった。

「離れないといけないの?」

そう聞き返すと白崎さんは更に大きな声で泣き始めた。

別にけんたろうのことなんて、好きでもなんでも無いのに。どうして白崎さんは泣いているんだろう。ただ、一度交わっただけなのに。

頬を叩いた事を謝っているように思えてきて、もう痛くないから大丈夫だよ、と言うと

「悲しいね。愛水ちゃんは、悲しいよ」

と何度も繰り返すから、今度は愛水ちゃんが困った顔のままになってしまった。

愛水ちゃんには分からなかった。自分は悲しい子なんだろうかと考えてみたけれど、よく分からなかった。いじめにあったり、レイプされたり、お母さんがいなかったりしたから、だから悲しいのだろうか。別に何も悲しくなんてないのに。ずっとそんな風だったから、それが当たり前だったから。それでも自分は悲しい生き物なのだろうか。

二つの目玉がぐるぐるとし始める。どうしようもない思考を巡らせていると、白崎さんは、そっと手を握ってきてくれた。

暖かくて大きくて、やっぱり良いなあと思っていると

 「好きだよ」

 と声をかけられた。

愛水ちゃんも同じように好きだよ、と返してみたけれど、何かが違って聞こえた。また好きだよ、と聞こえたから、また同じように繰り返してみたけど、やっぱり同じようには出来なかった。鼻歌みたいな響きしか、そこには残らなかった。


エレベーターのベルが一階への到着を告げる。

愛水ちゃんは、ホールを抜けて、ついさっきまでいた建物を振り返ってみた。白崎さんの部屋はカーテンが閉まっていなくて、窓から漏れ出した灯りがいやに神秘的に見えた。紫色の夜にぽっかりと浮かぶ、楽園に繋がるトンネルみたいな気がして。

ほんの一瞬、そこから身を乗り出している自分自身が見えたような気がして、愛水ちゃんの頬に何か冷たいものが走った。

なんでだろう。

 しばらく考えたけれど、それがどうして溢れた涙なのか分からなかった。

 「大事だからだよ」

最後にもう一度だけ口に出してみる。

あんなに一緒にいたのに、柔らかく笑っていた白崎さんの顔をまるで思い出せない。

愛水ちゃんは、月明かりを頼りにマンションの隙間を歩く。白崎さんがまた他の女の子にも、同じようにお腹を見せているところを想像して、また、何かが頬を伝った。どうしてなんだろう。

頭の上を飛行機が飛んでいくのが見える。全く知らない女の人と、男の人があの中にもいるんだろう。

愛水ちゃんはそれを見送った。流浪の民の、難しい歌詞を口ずさみながら。

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アミちゃんの行き先 葵上 @aoiue1

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