恋をした。なのに、彼の想いは――

あおいしょう

桜木美緒の恋

奪われたくない少女の想い(前編)

 少女はいつも疑問を持たなかった。


「……だから、これはお姉ちゃんが使うね」


 四歳上の姉は、いつも何かを長々と説明し、最後にはその言葉を言って、妹から物を取り上げていた。


 これはミオには扱い方が難しいから。


 これを使ってミオが怪我しちゃったら大変だから。


 この前、この子ぬいぐるみのくちばし引っ張ってたでしょ? だからもう、この子はミオのこと嫌いになったんだって。ミオと一緒にいると嫌な気持ちになるって。ミオもこれ以上、この子に嫌な気持ちさせるの嫌でしょ?

 

 これはね、呪いがかけられてるの。小学校の高学年になる前に身に着けると、一生不幸になる呪いがね。あたしは大丈夫だけど、ミオが使ったらミオが呪われちゃう。


「――だからお姉ちゃんが使うね」


 そんな姉の言葉を、少女――桜木さくらぎ美緒みおは、物心ついた頃から、疑わなかった。

 残念に思ったり、悲しい気持ちになりながらも、最後には「わかった」と頷いていた。

 母からは、「お姉ちゃんの言うことをよく聞くのよ」と言われていたから、素直に聞いていた。


 「ミオがこの子にいたずらしたってわかったら、お母さん、きっとミオのこと怒るから、このことはお母さんには秘密だよ?」


「呪いとか、怖い話は、お母さん大の苦手だから、この話はお母さんにはしちゃダメだよ」


 毎回言われるそんな言葉も、美緒は信じていた。


 姉が、母の前ではこういった類の話を絶対にしないということを、美緒は気づいていない。


 美緒が生まれて間もない頃、母親の「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」という言葉をかけられたことや、今でも小さくて愛らしい美緒ばかりが可愛がられる状況に、姉は強い嫉妬を抱いている、ということを美緒は知らない。


 他の者が聞けば無茶苦茶な論理に聞こえるだろう、姉の言葉を、美緒は私のことを考えて言ってくれている、といつも納得していた。


 そんな素直な美緒が――素直ゆえ――皆に愛されていることに、姉の莉々りりが今でも面白く思っていないことを、美緒は知らない。



    * * * *



 美緒が小学二年生、莉々は小学六年生の六月。

 莉々が家に、クラスメートの少年を連れてきた。


 莉々が「ただいま」と、家に帰ってくるなり「ほら、あたしの部屋、一番奥のドアだから、先行ってて」としゃべっていた。


「おかあさーん。ホノボノのシュークリームあったよねぇ。どこだっけー?」


 と言いながら莉々が台所へ行く気配がした。

 姉が誰か連れて来たのだ、と、美緒は興味を引かれて、自室のドアを細く開いて廊下を覗いてみた。


 すると、その少年と目が合った。

 驚いた美緒は、そのままドアを閉じようとしたけれど、少年は快活に、しかしやわらかく、笑った。


「こんにちは」


 美緒には、男性の美醜の評価はよくわからなかったが、優しい笑顔の人だな、と、一瞬少年に見惚れた。

 すぐになんだか照れてしまって、体が熱くなったけれど、嫌な感じはせず、美緒は小さな声で「こんにちは」と返事をして、でもやっぱり恥ずかしくて、そっとドアを閉めた。


 その日の彼との接触は、それだけだった。

 隣の部屋から、テンションの高い歓声が聞こえる。

 男子にも女子にも人気のある、可愛い敵キャラが多いゲームの人気敵キャラの、一メートルほどある等身大のぬいぐるみを見て、はしゃいでいるようだった。


 買ってもらったのは美緒だったが、「このキャラは水属性のキャラだから、水色の壁紙のお姉ちゃんの部屋の方が、この子は落ち着くんだよ」と言って、莉々の部屋に行くことになったぬいぐるみだ。


 ――あれはあたしのだから、あたしが紹介するべきかな。


 美緒はそんなことを思ったが、今、盛り上がっている二人の間にいきなり入っていくのは恥ずかしい気がして、一人でお絵かきをすることにした。




 次にその少年に会ったのは、雨の日だった。

 美緒は傘を忘れて学校の玄関で途方に暮れていた。


 こんな時、いつもなら、一緒に帰る友達の傘に入れてもらうのだが、この日は運悪く居残りさせられてしまったのだ。

 居残りと言っても、悪い居残りではなく、美緒が書いた作文が良くできていたからコンクールに出すので、もう少しだけ、いい作文に書き替えようと、担任教師から提案されての居残りだった。


 しかし、残ったおかげで雨に降られてしまい、ほんの、ほんの少しだけ『コンクールのバカ』と、心の中で思ってしまった。


「あれ? 桜木の妹だろ?」


 と、唐突に声をかけられて美緒は飛び上がるほどに驚いた。


「あはは、今すっごいビクッてなった。あ、いや、ごめん。驚かせたよな」


 一瞬、美緒は『誰だっけ』と首をかしげた。でもそのやわらかい笑顔を見て、すぐに思い出した。


皐月さつき君! もぉ。『教室で待ってて』て言ったのにー」


 怒っている風でありながら、頬を膨らまして『怒ってるあたしも可愛いでしょ』とでも言いたげなしぐさで、莉々が美緒の方に向かってきていた。


「桜木、ションベン長すぎー」

「ちょっと! 皐月君、言い方!」


 間違いなかった。この間、家に来ていた優しい笑顔の人だ。

 少年――皐月は傘がまばらになりつつある傘立てから、緑の傘を取る。迷彩柄で、いかにも男の子、といった風合いの傘だ。


「あれ? 桜木妹、もしかして傘ない?」

「え? そうなのミオ?」


 あ、そうだった。

 びっくりして傘を忘れて困っていたことを忘れていた。それを思い出して、再び美緒は困った表情をする。


 莉々は、嬉しそうに――少し何かたくらみを持っているような笑みを顔に浮かべる。


「じゃあ、美緒。お姉ちゃんの傘、貸してあげる」

「え?」


 姉の言葉に、美緒は驚いた。

 以前、美緒が『綺麗な傘だね』と言うと、莉々は『この傘はね、大人になった印の傘なの。だから、美緒にはまだ早いかな』と言っていたのに……。


 世間的には小六はまだ子供だが、美緒にとっての小六は大人だ。

 だから『貸して』とも言っていないのにそんなことを言う姉に、深い疑問を覚えずに『そうなんだ』と思っていた。


「ミオ、この間ひとりで電車に乗ったじゃない。だから、もう大人だよ」

「え? そうなの? でもじゃあ、お姉ちゃんは……?」

「あたしは大丈夫だよ、皐月君に……」


 莉々は美緒が初めて見たと感じるほどに、晴れやかでうれしそうな笑顔で『皐月君に』と言いかけたその瞬間――


「え? 桜木、もしかして走って帰るのか? 妹と一緒に入っていけばいいじゃん?」

「え?」


 美緒が初めて聞いたと思えるほど、姉の『え?』の声は低かった。


「え? なんで『え?』? 俺なんか変なこと言った?」

「ううん。なんでもない。そうだよね。それが一番いいよね」


 そんな会話の末、雨の中を三人で帰った。

 道中、彼はやわらかい笑顔で、


「二人並ぶと、なんか、宴する猫たちの、ミーやんとナツさんみたいで、かわいいな」


 と言った。


 猫耳を付けて歌うバンドの、宴する猫たち。そのボーカルのミーやんと、キーボードのナツさんのふたりは、いかにも女の子、というふわふわな雰囲気のキュートな女の子だ。


 その二人も姉妹なのだが、姉妹つながりで彼は、私達を見て連想したのだろうな、と、美緒は思った。が、でも、可愛いと憧れている、ミーやんとナツさんを連想してくれるなんて……と、美緒は気持ちを高鳴らせる。


「ん? そう言えば、桜木妹の名前、ミオだっけ? じゃーそのままミーやんじゃん!」


 すごいことに気づいた、という風な満面の笑みで皐月は言った。


 美緒は胸がキューっとしめつけられるのを感じた。


 初めての感覚に、わっ、なにこれ、と思ったものの、嫌な感覚ではなかった。なんだか恥ずかしいけれど、顔がほころぶ。


 憧れのミーやんと同じだと言ってもらえて、とてつもなく嬉しい。

 もしかして嬉しすぎると、心臓ってキューってなるのかな、なんてことを美緒は考える。


 姉も喜んでいるだろうと、隣を見上げた。

 すると莉々は、顔を赤く染め、驚いた表情で固まっている。足だけが機械的に動いているようだ。


「? お姉ちゃん、どうしたの」


 莉々は固まった表情のまま「え、えと……」と口ごもる。


「皐月君。あたし、ナツさんみたいなの?」

「うん、うん。可愛い!」


 莉々の固まっていた表情が、笑顔で崩れた。

 莉々一人の時は、莉々は可愛いとよく言われていた。しかし、美緒と並んだ時、美緒ばかりが可愛いと言われてきた。美緒と並んで可愛いと褒められたことは、莉々はほとんどなかった。

 それが、皐月の屈託のない笑顔での『可愛い』は、莉々にとって本当に嬉しいことだった。


 しかし、美緒も一緒に、可愛いかぁ……と、莉々は考える。

 でも皐月君には……皐月君だけには私だけを可愛い、と言って欲しい……と莉々は考える。


 姉がそんな思考を巡らせていることに、隣の美緒は、気づいていない。



    * * * *



 それからちょくちょく、皐月は桜木家へと遊びに来るようになった。

 莉々の部屋で、皐月と莉々と美緒の三人で遊ぶことになる。


「さつき君、いらっしゃい!」

「おっす。みーやん、こんにちは」


 美緒は無邪気に皐月に飛びつく。皐月は笑顔で美緒の頭を撫でる。

 なんでだろう。皐月に頭を撫でられるたび、美緒は考える。

 ――なんでさつき君に頭を撫でられるとこんなに嬉しんだろう。


「いらっしゃい、皐月君。飲み物用意するから、先にあたしの部屋に行ってて」


 無邪気に抱きつく美緒を見て、莉々は考える。

 なんで美緒があんなに皐月君とくっつくことができて、あたしの方が、独りでお菓子の準備をしなきゃいけないんだろう。

 あたしだって、気兼ねなくあんな風に皐月君に触れたいのに……。


 三人分のお菓子とジュースを用意して、莉々は部屋に向かう。

 部屋の前で、二人の話声が聞こえる。


「えー? このガンゴン、みーやんのだったんだ?」

「うん。誕生日に買ってもらったの」

「じゃあなんで桜木の部屋にあるんだよ?」

「この子は水属性だから、水色の壁紙の部屋がいいんだって」

「え? そんな理屈なのか? うーん。でも、こいつ。一番マスターに忠誠心の高い奴だから、やっぱり持ち主の所が一番いいと思うぞ?」

「え? そうなの?」

「なぁ、もしかして桜木、これを自分の部屋に置いておきたくて――」


 そこで莉々は扉を開いた。


「皐月君。リンゴジュースでよかった?」

「お? おお」


 皐月は少し戸惑った表情で返事をする。

 そして莉々は少し気まずい空気を感じながら、美緒はその空気を全く感じないまま、三人でトランプを始める。


「さつき君、手かげんしてよぉ! 強すぎ!」

「俺の方針としては、年下だからって手加減してはいけない。年上に勝てるって自惚れるようになっちゃダメだからな。ちゃんと現実の力関係を教えてやるのが、俺の流儀だ」

「ちぇーっ」


 美緒は口をへの字に曲げて、ずずずーっ……っとりんごジュースをストローで飲む。

 でも楽しい。不機嫌な顔をしてみたけれど、すぐに顔が緩んでくる。

 実はさっきからトイレに行きたいが、それでもこの場から離れたくないくらいに楽しい。


「あれー? みーやん、もしかしてションベンしたいんじゃねぇの?」

「えっっ?」


 美緒は顔を真っ赤にした。足をモジモジしていたのがバレたらしい。


「皐月君、言い方! ってミオ、そうなら早く言えばいいのに」

「変なこと遠慮するなぁ。漏らす前に行って来いよ」


 莉々と皐月に促されて、美緒は部屋を出る。

 部屋を出た途端、なんだか楽しかった気分がスーッと遠のいていく。

 速足でトイレに向かい、用をすます。その間、なぜか『お姉ちゃんは今さつき君と二人きりなんだ……』ということが美緒の頭の中で回っていた。


 走らない程度に速足で、莉々の部屋に戻る。ドアを開けると「おかえり」と皐月が笑顔で迎えてくれた。


「喜べ、みーやん。みーやんのガンゴン、今日からみーやんの部屋に行くんだって」

「え」

「うん。やっぱり、あいつの忠誠心は飼い主のみーやんにあるみたいだからさ」

「そうなの?」


 美緒は晴れやかな笑顔を浮かべる。


 莉々が美緒から奪ったものが、初めて美緒の所へ戻った瞬間だった。



    * * * *



 それ以来、皐月が何か言って、美緒が持っていて莉々の所へ行ったものが帰ってくることが多くなった。


この子ぬいぐるみと喧嘩したから? じゃあ、謝って仲直りすればいいじゃん」


「子どもが持ったら呪われる? うーん。桜木がどこからその話を聞いたのかはわからないけど、ガセネタつかまされたんじゃないかなぁ? それと同じヤツ、ミツミネ妹の二人が持ってたし。普通に元気そうだったしさ」


 そんな風な助言で、いろいろな物が美緒の所に戻ってきた。

 しかし決して、皐月は莉々を非難しなかったし、理屈がおかしいと指摘することもなかった。


 だから、大きくなるにつれ薄々、美緒が思っていた『お姉ちゃんのいつもの長々とした説明は、本当にホントウのこと?』『本当はウソで、お姉ちゃんは独り占めしたいんじゃ』という疑念が、確信に変わることはなかった。


 しかし、三月。

 莉々と皐月が、小学校を卒業式の日。莉々は家に帰ってきて、美緒に満面の笑みで告げた。


「皐月君と付き合うことになったの!」


 美緒は目を見開いて、心が停止したように何も返事ができなくなった。


「皐月君、中学校は私立の学校に行っちゃう、って言うから。だからね、離れちゃうのは嫌だったから、思い切って告白したの。そしたらオーケーしてくれたんだ!」


 今まで生きてきて受けたことのないショックに包まれる。誰があたしの頭を殴ったのだろうと錯覚するほどの衝撃に襲われる。


「ごめんね。あたしさ、今まで変な理屈つけて、いっぱいミオから物、取り上げてたよね。ミオだってもう、あたしがムチャクチャなこと言ってるって気がついてたでしょ? でもね、もうこれからはやめる」


 美緒の頭の中に、ウソだ。と、やっぱり、とが混じり合う。

 お姉ちゃんはいつもウソをついてたんだ。やっぱり、独り占めするためのウソだったんだ。

 また頭を殴られた錯覚をする。


「だって、ミオも皐月君のこと好きだったのに、またあたしが奪っちゃったでしょ? 一番大切な人があたしの所へ来てくれたから、もう、それでいいよ。もうミオの物は取らない」


 薄々気づいていたけれど、確信したくなかったこと。

 それが今、姉自ら突き付けてくる。


 取られていた。お姉ちゃんはあたしから物を取っていた。あたしのことを考えて言ってくれてたんじゃなかった。

 あんなに寂しくなったけど、お姉ちゃんがああ言ったからお姉ちゃんに渡したのに。あんなに使いたかったけど、お姉ちゃんが言ったから、お姉ちゃんに使ってもらったのに……。


 それに――


 涙が流れた。

 それに――さつき君も、奪った……?


 あたし。あたしは……。


「え、ウソ。ミオ……泣くほど皐月君のこと好きだったの?」


 あたし……さつき君が好きだったんだ……。


 でも、気づく前に、お姉ちゃんが、奪った。


 あたしの気持ちを知っていて……。


「やだ、泣かないでよミオっ」


 そんな姉の声が、美緒の耳には遠くに聞こえる。



    * * * *



 そして、美緒は小学五年になった。


 五月に、美緒のクラスに転入生が来た。綺麗な顔をしている男子だった。一部の、少しませた女子たちが「イケメンじゃない?」とはしゃいだりした。

 美緒はあまり興味がわかなかった。


 ただ彼はあまり笑わなかった。何か複雑な事情で転校してきたのかもしれない。


 けれど、一度だけ、笑顔を間近で見たことがある。

 その男子にぶつかって、持ち物を廊下にぶちまけてしまったとき。

 彼は、美緒の持っていたフニャりんネコのマスコットを見て、


「あはは、なんだこいつ。気持ちよさそうにぺちゃんこになってるっ!」


 その笑顔は、やわらかかった。初めて皐月を見た時の、その笑顔のように。


 徐々にクラスに打ち解けて、徐々に笑顔が見られるようになったその転入生に、女子たちが「カッコいいよねぇ」と、噂しているのを時々耳にする。


 何もしないでいたら、誰かの物になってしまう。あの笑顔が。

 また。


 姉の時と同じように、奪われてしまう。


 もう奪われたくない。


 美緒は、心からそう思った。


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