7 官僚がいない

 この国には官僚がいない。他の国の官僚に相当する仕事はすべて人工知能が行う。官吏に相当する仕事で身体性が必要な場合は人工知能を備えたロボットが行う。

 官僚を廃したことは政治家を廃したこと以上に革命的である。なぜなら政治家がいる国でも大統領選挙や国会議員選挙のたびに一時的には政治家がいない状態となるのに対して、官僚がいない状態は一日たりともないからである。いや公務員ゼネストが認められている国はある。しかし官吏はともかく官僚がゼネストに参加することはまずない。そんなことになったら、だれに向かってゼネストをしているのかわからなくなる。この国の政体は公務員全員リストラを断行したのと同然だといえる。


 公務員の仕事は同一性(公務員の一体性)と不偏性(公務の公平性)が求められる。しかしこれと不作為性、無責任性は表裏一体である。

 官僚は同一性もしくは一体性が求められるので、担当者によってやったり、やらなかったりということがあってはならない。このため法に規定されていないことはやらない。これが不作為性である。他の国でも公務員は国民全体の僕(奉仕者)とされ、権力や人権の主体となることを禁じられている。とりわけ裁判官や検察官には一体原則とよばれるものがあり、均一で没個性の存在であることが求められている。このような一体原則は公務員全般にも求められている。

 公務員の同一性と不遍性を忠実に実現するには、公務員の仕事をすべて人工知能ないしロボットにさせるのがもっとも適切である。いくら規範を課し、倫理を求めても、人間である以上は公務員であろうとも私欲を禁じえないからである。

 官僚も組織人であるならば出世欲がある。しかし官僚組織内部での昇進のための権謀術数というものは国民の福祉とはなんら関係がなく、むしろその妨げになるものである。公務員人事の寡占化(閥化)は外部への不作為(事なかれ主義)につながる。大過ないことが最高の栄誉とされるからである。出世した人にかぎってなにもしておらず、なにかしでかした人は功罪にかかわらずスピンアウトしてしまう。何事もなかったことにするのが官僚主義である。戦争や災害すらがなかったことにされる。

 公務員の行動規範は民間人の行動規範とは真逆である。民間人は法律で禁止されていないことならなにをやってもいいとされる。これは民間人の無規制自由原則または警察原則とよばれる。禁止されていることをやるには禁止の解除(特許、許可、認可)を要する。これに対して公務員は法律に規定されていないことはなにもやってはいけないとされる。これは公務員の無規制不作為原則または夜警原則とよばれる。この結果管轄違いのことを頼んでもたらい回しにされるだけである。

 公務員はまた不偏性が求められるので、担当者によって結果がよかったり、よくなかったりということがあってはならない。このため手続きの羈束性を重んじ結果はあえて見ない。これが無責任性である。しばしば公務員が民間人から杓子定規で気が利かないと非難されるのは、この不作為性と無責任性のためである。


 同一性と不遍性が求められる結果、官僚は意思決定をしない。意思決定をすれば人による決定の差異、結果の差異が出るからである。官僚は差異を忌避する。このためあたかも意思決定がないかのようにすべてが決まっていく。これが人工知能に置き換えられた政治的または官僚的な自動政策書記(オートポイエーティクス)の原型である。

 オートポイエーティクスには入力も出力もない。たとえば首相や閣僚、首長、議員から官僚への圧力いわゆる天の声はないし、官僚から与党議員に公共事業発注予定表を事前告知したりしない。世論が行政に影響を与えることもありえない。市民や団体からの請願や陳情も馬耳東風で聞かなかったことにする。議会答弁は予定調和的で聞かれてもいないうちに答弁が作成されており、不思議なことにそのとおりに答えればいいように質問される。まさに入力も出力もないのである。ライプニッツが夢想した自由と運命が予定調和する奇跡の世界である。

 実際にも過去の答弁内容のデータベースからオートポイエーティックに新たな答弁を作り出すプログラムは日本で実用化している。つまり聞いても聞かなくても同じことを聞き、答えても答えなくても同じことを答えるのが日本の国会または地方議会の質疑答弁である。


 もしも官僚が政策を自動書記する機械(オートポイエーティクスマシーン)であり、同一性と不偏性を最優先にすべきなら、人が官僚になるより人工知能が官僚になったほうがいい。人工知能の手に余る事態は官僚にも手に余る事態である。官僚組織が(官僚のだれかは特定できなくても)集団的に意思決定しているのに、あたかも意思決定していないかのようにふるまうことがそもそもの問題の根源だからである。

 人工知能による官僚の置き換えはまず人事と財政からはじめ、徐々に他の分野に広げていくのがいい。人事と財政はエリートが担当すべき仕事とされている。しかし実際には権限は大きく見えても意思決定も責任も伴わないルーチンワークであり、財務は結局のところシーリング枠の中のジグソーパズル(形合わせ、数合わせ)にすぎず、人事は論考で決まったあとは雑務ばかりである。民間企業には人事と経理を非生産的業務としてアウトソーシングしているところも少なくない。

 行政組織において人事部門や財政部門が問題の責任をとったところを見たことがない。不祥事の責任は本来不祥事を起こすような人を配置した人事部門にあるだろうし、不景気や財政赤字の責任は財政部門にあるだろう。しかし人事担当や財政担当は他の部門の過失を指摘したり責任をとらせたりすることはあっても、決して自らの過失を認めたり責任をとったりはしない。謝罪会見をすることはあっても表面的であり、自らの責任として本心から反省しているわけではないため、不祥事は繰り返されることになる。これを人事無責任の原則、財政無過失の原則という。無責任、無過失であるべき仕事は間違いを犯すことを免れない人間にやらせるべきではなく、人工知能に置き換えられるものならそうすべきである。責任を取るつもりがない仕事は責任能力がある人間にさせるべき仕事ではない。

 もちろん公務員が行ってきた仕事のすべてを人工知能にさせることはできない。逆にいうと人工知能にさせることができない仕事は、本来官僚にさせてはならない仕事、すなわちルーチン化できない決断と責任を伴う仕事である。

 組織が人間に対して行うサービスはルーチン化できる。これに対して人間が人間に対して行う決断はルーチン化できない。緊急の事態に対して最悪の結果を覚悟して人間が人間に対して決断し、いかなる犠牲的な結果になろうともその決断の責任を負うということは、人間が行うしかなく、人工知能は決断を補助することはできても決断の主体になることはできない。なぜなら人工知能には責任能力がないからである。

 このように責任のない仕事だけが官僚の仕事としてふさわしい。これはかつてこの国においても、そして今なお他の国においても、官僚がいかにして決断をはぐらかし責任を逃れているかを見れば瞭然である。官僚組織は責任回避の組織であり、責任を果たした者ではなく責任を回避した者が認められる。責任を回避する最善の方法は、決断しないこと(先延ばしすること)、あるいは決断の義務を形式的に他の組織に移転すること、もしくは架空の決断者を偽装し、または責任を転嫁し、あるいは決断の過程を隠蔽することである。この義務移転、決断偽装、責任転嫁、隠蔽のために、政治家や学識経験者(審議会委員)やシンクタンクが官僚に利用されてきたともいえる。だが官僚は一度たりとも政治家や学識経験者やシンクタンクに意思決定を委ねたことはないのである。


 官僚(オフィシャル)、官吏(Gメン)という言葉は、この国では用いられていない。官僚がパブリックサービスとよばれるのに対して、官吏はパブリックメンとよばれる。

 他の国の常識とは逆にこの国では身体をもたない人工知能の官僚より身体をもつロボットの官吏の方が上等と考えられている。知能の優劣を比較するなら巨大な官僚の人工知能は極小な官吏の人工知能をはるかに凌駕する。しかも官僚の知能は結合しており、官吏の身体は分離されている。しかしながらロボットがもつ身体性は代替性のない個性に通じ、それぞれのロボットがかけがえのない経験をもつことになる。

 官僚と違って官吏は現場を担当する。現場には差異があり、日々新たな判断と新たな結果を求められる。この点が判断も結果もない官僚と異なる。結果に無関係な官僚は学閥と閨閥で出世していく。結果に関与する官吏はやればやるほどボロが出るから出世と無関係である。

 決定的な差異は官吏だけがもちうる現場経験の蓄積によって生じる。身体性のない官僚は経験を蓄積することができず、ただインプリンティングされた一般原則を語れるにすぎない。表面的な視察体験程度では経験にならない。経験は現場の内に身体を賭して立たなければえられない。人工知能の官僚は決して間違いをおかさない。これに対してロボットの官吏は不可抗力によって失敗することがある。しかしこの意味においてこそロボットの官吏は人間により近い差異ある存在となる。

 官吏には身体性が必要なので人工知能で置き換えることができない。ロボットで置き換えることはできるが、人工知能と比べると技術的ハードルが高く、これまで『ロボコップ』や『ターミネーター』のようなSF映画の世界でしか実現できなかった。ただしかなり近いところまで技術革新は急速に進展しており、ほとんどの現業は早晩ロボットに置き換えられることになるとみられている。

 人であろうとなかろうとヒーローにはつねに身体性があり、ヒーローはいつも現場にいる。現場の官吏に人間的な差異を認めることは公務員の同一性と不偏性に矛盾することになる。それでもこれは身体性と現場性から不可避なことである。この差異を積極的にとるヒロイックな官吏と消極的に避けるシャイな官吏がいる。これは官吏がロボットになっても変わらない。すなわちロボットはヒーローになる資格があるが、人工知能にはその資格がない。

 官僚と官吏の分裂、人工知能とロボットの分裂は、精神と身体の分裂のアナロジーである。古来より哲学には精神(エイドス)優越論と身体(シュレー)優越論の論争があった。これが官僚と官吏、人工知能とロボットの闘争に受け継がれている。


 日本の官僚のオートポイエーティックな仕事ぶりを象徴する二つの事件が、2016年~2017年にあった。

 一つは東京都の築地市場の豊洲への移転工事で、豊洲市場の汚染土壌対策工事について、勝手に工法が変更されていたことが問題となった。汚染土壌が承認された計画のとおりに覆土されていなかったのだ。

 これは2016年の都知事選挙の前からくすぶっていた問題であり、当選した都知事の指示で隠蔽の封印が解かれ、だれが工法変更の意思決定をしたか追及されたものの曖昧なまま歴代市場長8人の責任にされた。稟議書を決裁し形式的な最終意思決定者だった着工当時の都知事は副知事らに一任しており、すでに既定路線だったといい、副知事らはかかわっていなかったといい、都庁幹部らは都知事の意向をくんだとほのめかした。結局は市場長という現場トップに責任が代位されることになった。ところがどの市場長が意思決定したか証拠がないので8人の共同責任にされたのだ。

 「都庁全体の責任」という当時の都知事の認識(というよりも感想)は、いみじくもオートポイエーティックな意思決定を吐露している。責任の所在を封殺したという見方もできなくもないけれども、おそらくはほんとうにだれも意思決定をしていない。だれが決めるともなく、いつの間にか流れが決まっていくのが地方自治体の意思なき決定である。あとから意思決定の流れを追及しようにも意思決定の書類はない。書類を捨てたのではなく、最初からないのである。予算説明書、補助金申請書などはある。しかしこれらは意思決定の書類ではなく、意思決定後の書類である。この事情は東京都のみならず全国自治体みな同じである。道路一本、橋一橋たりとも意思決定の書類はなく、だれの意思ともなく決定している。

 官僚組織は外部からの入力(圧力)なしに組織の規律のみにしたがって自己言及的に自動書記し、官僚組織の内部においても上司からの出力(命令)なしに部下が組織の規律のみにしたがって自己言及的に自動書記する。これを羈束主義または前例主義という。この二重の(フラクタル構造の)オートポイエーシスによって、官僚組織は入力も出力もなくアンチサイバネティックに作動する。入力と出力(圧力と命令)の証拠を探しても、最初から存在しないのだからどこにも見つかるはずがないのである。

 もちろんメモのたぐいまでないとは言わない。しかしメモは公文書ではなく、なんらの意思決定の証拠でもない。むしろメモしか見つからないということが官僚組織のオートポイエーシスをまさしく象徴している。メモだけで意思決定していることになるからである。


 もう一つは大阪府の森友学園への国有地払い下げと愛媛県の加計学園の獣医学部新設について、首相や首相夫人の意向を官僚が忖度したのではないかという問題である。首相が自ら、あるいは側近の補佐官や夫人を介して大臣や官僚や首長に具体的な指示をしたのなら職務権限の行使になってしまい、少なくとも談合、見返りをもらっていれば汚職になってしまう。しかしそんな露骨なことはするはずがない。そこで忖度があったのではないかということになったのである。忖度は2017年ユーキャン新語・流行語大賞となった。

 忖度とは圧力も斡旋も嘱託もなく、指示や命令や誘導も受けていない勝手な配慮、つまり入力も出力もないオートポイエーシスである。忖度とはうまい日本語があったものである。忖度とは公務員の同一性と不偏性を偽装した依怙贔屓である。それが依怙贔屓であることはだれの目にも明らかだと思われるのに、入力も出力もないからそれを立証することはできない。もちろんこの場合も議事録やメモの類はあっただろう。しかし法律または予算手続きの書類でなければ保存期限すら決まっていないのである。

 実のところ忖度は部外者(観察者、批評者)の解釈であり、官僚組織の内部に忖度という意思決定システムが存在しているわけではない。部外者からは官僚が忖度しているかのように見えるというにすぎない。この問題に対する官僚、元官僚の弁明や論述を見ても、官僚自身は忖度しているつもりがないことがわかる。しかしそのつもりがなくても観察者からはそう見えることにあえて目をつむっている。官僚組織に対する官僚の自己認識はこの程度である。忖度はあるといえばあるが如く、ないといえばなきにも似たりである。

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