第2話 月喰狼 《クルトー》
キュルルルル……
聞いたことのない鳴き声だ。
甲高く震えるような声。鳥のようだが、音は
同じ場所からカサコソと草をかき分ける音もする。姿は見えないが大きいものではないだろう。火あぶり猫と同じくらいか、あるいは少し小さいか。
それでも、吸血ネズミよりかは大きいはずだ。
推測にはいくらか願望が混じっていた。腹を満たすほどの獲物はいつ以来か。期待が飢餓感を煽り無意識に足が早まる。
落ち着け、まだあわてるような時間じゃない。
はやる気持ちを抑え、心のなかでクールに呟く。獲物を逃さぬため、何より命を危険に晒さぬために、今はまだ情報を集めるべきだ。
クレバーにやれ、私は獣ではないのだから。
いつもと同じように、自分で自分に暗示をかける。足を止め、深く息を吸い込む。そうして
四つ足だった頃の名残りだろうか、
瞬間、大きな耳がいくつもの音と振動を捉えた。この
この足音、二本足か。
四色猿、だろうか。
いや違う、奴らは地面をこんなに長く歩きはしない。ならばゴーレムか、だとしたら最悪だ。あれは強い、しかも食えない。
キュルルルルゥ――
また声がした、やはり知らない鳴き声だ。しかし分かったこともある。これはゴーレムではない。この音は、あの厄介な人形のものではない。
これで、戦い損という最悪の事態は避けられた。
ならば
距離を保ったまま風下へと回りこむ、気配を殺し、静かに、静かに。
獲物の姿はまだ見えない。風に乗って匂いだけが漂ってきた。
この匂い、
ああ、間違いない。
姿は見えなくともわかる。何者か知れずとも断言できる。ならば問題は一つだけ、私とあいつどちらが強いか、私にあれを殺せるか否か。
キュル、キュルルル……
鳴き声は止むことなくつづいている。
音のする方へ少しずつ距離を詰めてゆく。
獲物に逃げる気配はない、同じ場所をグルグル回っているようだ。
求愛行動でもしているだろうか、それとも何かを――
いや、いい、もう考えるはよそう。どのみち、諦めることなど出来ないのだから。
「……行くぞ」
気づかれることを承知で声を出す。
動きからするに、おそらく足は速くない。いざとなれば逃げればいい。
茂みを抜けると視界が広がった。獲物の姿が見えてきた。ああ、やっぱりだ、間違いない。
彼らはもちろん初対面である。
違うとき、違う場所で生まれた別の種族である。
しかし思考は
黒い獣はわずかに口を開き唸り声をあげた。白い幼女は薄ら笑いを浮かべている。
言語は違う、されど意味は同じ、ふたつの声が重なった。
「間違いない……こいつ超ウマイ!」
もう腹ペコなのである。
そうして彼らは向かい合い、二つの視線が絡み合う――わけだが、ここにきて黒い獣に疑問が生じる。この獲物、なぜ逃げないのか、なぜ怯えないのか。
黒い獣、
ときに食べたり食べられたり、稀に死んだり殺したり。いわゆる普通、つまりは並の魔物である。
しかし、それはあくまで
しかもこの個体、過酷な樹海を生き抜いてきた
だからこその困惑である。
何かがおかしい――月喰狼は考える。
なぜ逃げない、なぜ怯えない。状況が理解できないのか。
それにこの見た目、これではまるで――
「
あり得ない。ここは黒の樹海、強者のみが生存を許された地、魔が魔を喰らう修羅の森によだれを垂らした
「……よだれ」
ああそうか、そういうことか。そんな見た目をしているが、お前も私と同じなのか。
もはや殺気を隠す必要はなかった。視線で奴を制し、その隙に後ろ脚に力を込める。そうして駆け出そうとした瞬間、戦慄が体を走った。
やはりこいつ、人の子などではない。
「化け物め!」
咄嗟に動けたのは獣の本能ゆえだろう。
恐怖をねじ伏せ一気に間合いを詰める。闘争の日々のなかで、殺すための最適解は身体に深く刻み込まれている。
死ね、死んで私の糧となれ!
殺意に身を任せれば、流れるように体は動く。
わずかに揺らした右前足は
「へへっ……」
奴は笑っていた、全裸のままで両腕をおろして、ヘラリヘラリと笑っていた。
ノーガード!
「舐めるなよ……服も着てない
咆哮とともに左前足を振り下ろす。奴はまだ動かない。
いや、違う、わずかに右腕が――
気づいた瞬間、衝撃が頭蓋を貫いた。
「あしたのために、その3」
崩れ落ちる身体、薄れゆく意識、見下ろす勝者の瞳は赤く、
「打たせて打つ、肉を切らせて骨を断つ相打ちの必殺パンチ。相手が全力で打ち込んでくるその腕へ十字型にクロスの交差をさせ同時に打ち返す。カウンターパンチは相手の勢いづいた出鼻を打つため、相手の突進と自分のパンチ力で威力は倍増する。ましてクロスさせた場合、相手の腕の上を交差した自分の腕が滑り、必然的にテコの作用を果たし、三倍、四倍の威力を生み出す」
そうか、お前は……
「あしたのためにその3、クロスカウンター。テンカウントは……必要ないな」
私の意識は、そこで途絶えた。
ぶらん、ぶらーん、揺れている、私が、逆さまで。
頬骨が
キュルルルル……
痛い、痛いとメソメソ泣いているところに、例のあいつがやってきた。
音は変わらず鳴りつづけている。しかし奴の可愛いお口は少しも動いていなかった。
そうか、あれは鳴き声ではなく腹の虫か。
今さらそれがわかったところで何がどうなるわけでもない。むしろ状況はより絶望的になったと言える。腹ペコ、
しかし、これは……
彼女の縄張りを見てみれば、それは何ともあからさまだった。
見つけろ、と言わんばかりの開けた場所、音と匂いを垂れ流しうろつき回る
いや……だったじゃない、おそらく今も継続中だ。
腹の音、吊るした
対象を問わない不特定多数に向けられた罠、樹海の深部でそれをやる。
一体どれだけ自信があるのか、悪鬼蠢く魔性の森で、強者ひしめく黒の樹海で、何が来ても殺せるとこの
どうやら、とんでもない化け物に喧嘩を売ってしまったらしい。
悔やんだところでもう遅い。あのよだれと腹の音、彼女の我慢の限界はたぶんそこまで迫っている。
「……やっぱり食べよ」
感情のこもらない声で、
ラテン系ではない。
たどり着いた答えは、最後に残った希望の灯火。彼女が自分と同じであるなら、残った記憶と常識が
そんな期待を胸に幼女を見れば、彼女は簡素な
「鍋、鍋……」
どこからか持ってきた亀の甲羅を、幼女が
「次、水……」
幼女は着々と調理の準備を進めている。
しかしこの手順、もしや丸ごと私を鍋に突っ込むつもりか。
お嬢さん、ちょっとものぐさすぎますよ。
せめて殺して茹でて欲しい。ささやかな願いをあざ笑うかのように、幼女はマーライオンよろしく、口からドバドバ水を放出し始めた。
何だこの生き物は……
口から火を吐き水を吐く、スッポンポンの
いかん、思考を切り替えろ。そんなのは今考えることじゃない。
釜茹でまでのカウントダウンはすでに始まっているのだ。
「……へ、ヘイ、ロリータ」
生きるためだ、と決意してなんとか発したその声は、恐怖のせいか、思った以上にか
「……ん」
それでも
美しい
「ヘ、ヘロー、リトゥガール」
人形じみた造形に
そうだ、意思の疎通さえ出来れば。
勝算は十分にあった。獣の本能に引きずられてはいるものの、かつての習性や倫理観は己のなかにいまだ根強く残っている。
そして彼女もまた、それを持っていると思われる。言語を操り調理をする、それは理性がある証拠。
ならば対話は可能……というより、これは普通に親しくなれるのではないか。
生命の危機は去っていない。しかし私は高揚していた。
自分たちのような存在は、世界にどれほどいるのだろうか。でもきっと、そんなに多くはないはずだ。それがこうして巡り会い、不幸なことに殺し合い、そして今は和解しようとしている。
そのあとは、一緒に冒険したりするのだろう。
ああそれはなんて素敵な物語だ。何しろ相手はあの
浮かれた気分のまま、笑顔で
「ヘイ、ロリータ。テュ、ニ、ニホン、ニホンジンネ……」
「ん?」
「ア、アナタ、ニホンジン、ワタシ、フランスジン、OK?」
「……ああ、N’importe quoi アーンド、ファックユー」
「え? な、なに? Fuck? お前……今、フランス語」
まさか、こいつ……
「気づいていたのか」
すべてを知りながら、私を食おうとしていたのか。同じ世界に住んでいた自分と同じ
「外道……いや、骨の髄まで魔物ということか」
彼女にはもう人の心は残っていない。身体だけではなく、心までも怪物に成り果てていたのだ。
「魔物……私が」
何かを言った
これは、怒りか。
何が彼女を不快にさせたのか、私にはよくわからない。しかしそれも、もはやどうでもいいことだ。
どうせ泣こうが喚こうが、こいつは私を殺すのだ。そうしてモグモグ食べるのだ。
でもせめて……
「せめて、殺してからに欲しい」
「ダメ、薄汚い魔物は、苦しんで死ね」
可愛い口から出てきた言葉は、きっと救いのないものだ。
今日、私の二度目の人生が終わった。
フランスの王狼に因んで、自らをクルトーと名乗った魔物。彼が何者であったのか、それを知るものは誰もいない。
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