第3夜 忘却
緊張した表情で、鳥壱は質問した。
――僕に、何かが起ころうとしているのか?
彼女は男の質問を受け、まるで吟味するかのように間を置くと、緊迫した男とは対照的に素っ気なく答える。
「さぁ、どこかしらね?」
「……えっと……」
あまりにも素っ気ない答えが返ってきたので、鳥壱は心の中でこけた。
「ちょっと待ってくれ……」
鳥壱は眉間を寄せ、目頭を押さえる。
「……つまり、君も分からない。そういうことか?」
「まぁ、端的に言えばそうなるかしら。それと、『君』という呼び方は止めてもらえないかしら? さっき自己紹介したばかりでしょう?」
鳥壱に『君』と呼ばれたのが余程気に入らなかったのか、彼女は眉をひそめていた。
「美奈……さん。これで、いいの……かな?」
照れながら、鳥壱は彼女の名を呼んだ。
それで満足したのか、彼女は眼を細めて微笑する。
「ええ、改めて宜しくね。鳥壱さん」
「え? あ、はは……。よ、よろしく」
彼女の笑顔に照れたのか、鳥壱は再び熟れたリンゴのように頬を赤くし、痒くない頭を掻き、挙動不審気味に辺りを見渡した。
すると、つい先程までは気にならなかったシルエット達が眼に付いた。
「ところで、『アレ』は一体何なんだ?」
半透明で青紫の物体達。
どこをどう見ても、普通の乗客には見えない。
人の形を成しては居るが、あれらを人と呼ぶには抵抗感があった。
何故今まで気にならなかったのが不思議なくらいである。
「……アレ?」
彼女は首を傾げる。
男はシルエット達を刺激しないように、こっそりと右手で指差した。
「ああ、彼らね。……怖がらなくていいわよ、別に噛みついたりしないから。ついでに言うと、動いたりすることもないわね」
「そ、そうなのかい……?」
鳥壱は警戒しつつも、シルエット達を再びまじまじと見つめる。
だが、見れば見るほど、目の前にある摩訶不思議な物体に困惑するだけだった。
「お化け……じゃないよな?」
「そうね、そんな俗っぽいものではないと思うわ」
「人……でもないよな?」
「そうね。アレが人だなんて、冗談にしては過ぎるわね」
「妖怪……かな?」
「なら、この列車は百鬼夜行の最中かしら? お化けの方がまだ説得力があるわね」
「――で、結局のところアレは何なの?」
彼女は両肩をすくめ、おどけたように、さぁ? と微かに首を傾げながら言った。
鳥壱はその答えを聞き、眉間に皺を寄せ、目頭を押さえながら思った。
――あのシルエット達は、イースター島にあるモアイ像のように、解明できない摩訶不思議現象の一つなんだ。
鳥壱はそう思い込むことにして、考えることを放棄した。
分からないものは分からないと見限った方が、楽だからである。
「……もう一ついいかな?」
鳥壱は少しだけ身を乗り出し、核心にでも迫るように質問する。
「君は一体、何者なんだ?」
正体不明のシルエット達に囲まれ、動揺する素振りも見せないこの彼女こそ、ここを知る上での最重要の人物なのだと鳥壱は思った。
しかし彼女は、その質問を聞き、やや興奮している鳥壱とは対照的に、冷めた様子で少々呆れ気味答える。
「貴方って質問ばかりなのね。まあいいわ、答えてあげましょう。鳥壱さん」
それを見て、彼は既視感(デジャ・ビュ)のような目眩に襲われた。
なぜなら、彼女は先程と同じように両肩をすくめ、さぁ? と微かに首を傾げながら言ったからだ。
「……君は何も知らないのか?」
鳥壱は不躾に言った。
「ええ、特に何も」
そう彼女は素っ気なく答えた。
鳥壱はまたしても軽い目眩に襲われ、眉間に深い皺を寄せながら目頭を押さえた。
そして、思った。
――ここで起こっている事は全て超常現象であり、ナスカの地上絵のように科学では説明できないものばかりなんだ。
鳥壱は、そう割り切ることに決めたのだった。
そんな小難しい事は学者に任せて、解明された事実だけを知れば良い。
どうせ自分は、しがないサラリーマンでしかないのだから。
しかし、そうは思っても、今その摩訶不思議で謎の超常現象に巻き込まれているのだ。
解明する云々はともかく、何が起こっているのかは把握したかった。
鳥壱は眉間に皺を寄せ、目頭を押さえたまま何かを考え込む。
そして、三度彼女に質問する。
「逆に、逆にだ。美奈さんはこの列車の何を知っているんだ?」
鳥壱の質問を受け、彼女は記憶の彼方でも探るように宙を見つめた。
時折眼をつぶり、頭の中に存在する辞典を開き、自分にとって必要な言葉を検索する。
しばらく間を置いた後、彼女の辞典でようやく見つかった言葉は――。
「そうね。ここに来る人達は、何かしらの悩みを持った人達が来る……ということかしらね」
思わず、鳥壱は訝しげに彼女を見た。
「悩み……?」
「そう、悩み」
「……なぜ僕に悩みがあると思う?」
彼女は両肩をすくめ、微かに首を傾げながら言う。
「さぁね。私には、貴方が悩みを持っているかどうかなんて知らないわ。ただ、この列車に乗ってくる人たちの多くは、何かしらの悩みを持っているわね。だから、あくまで確率的に、よ。絶対じゃないわ」
彼女の言葉を受け、鳥壱は眉間に深い皺を寄せながら、目頭を押さえた。
そして、自分に悩みがあったかどうかを記憶のアルバムを開きながら考え始める。
――僕に悩みがある……? それは何だ……?
――ここへ来てしまった事か? いや、違う。
――今の生活に対してか? いや、違う。
――彼女居ない歴五年を突破したからか? それも違う。
――給料が安月給な事か? ……確かにあれは安い。残業代もたまに出ないし。でも、違う。
――じゃあなんだ? 何なのだろうか?
――思い出せない。思いつかない。
そのことに関して、鳥壱は死ぬほど悩んだ筈だった。
鳥壱の人生全てを変えてしまうような、重大な考えだった筈だった。
なのに、思い出せない。
深い霧に包まれてしまって、『それ』は見えない。
掴めない。
酷く、もどかしい気分だった。
子供の頃にあった冒険心や好奇心、全てを恐れず、どこへでも行けたその強さ。
それらを全て井戸の底に放り投げてしまったような、そんな喪失感に包まれる。
――僕はいったい、何を忘れてしまったのだろうか……? 僕はいったい、何を……。
「仕事は、うまくいっているのかしら?」
彼女がふと呟いた言葉で、鳥壱の思考は中断された。
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