第4章:誰も世界を救えない(1)
ベルカの街は、今日も雑然とした喧噪の中にあった。
コロシアムを牛耳っていたザリッジが、最高の殺戮劇を見せるといきがって大失敗し、魔物を閉じ込めておく地下牢の通路で、頭を撃ち抜かれて物言わぬ死体になっていたのが発見された時には、さすがに街中が震撼したものだ。が、コロシアムは別の人間が後を引き取り運営する事になって、十日と経つ頃には、喉を通った熱さを忘れて、元の暮らしを取り戻していた。
『名無し』と呼ばれた紫髪の少女が姿を消した事さえ、自分達に害を及ぼしかねない脅威がこの街から去ったもの、と、安堵さえ覚えていたのだ。
だから今日も、コロシアムでは奴隷剣闘士と魔物の戦いが繰り広げられ、街の通りには酔っ払いが闊歩し、裏街では化粧の厚い娼婦が客引きをして、男達は目ぼしい女を探してぎらぎらと目を輝かせている。
そんな男の一人が、裏街をゆく少女に目をつけた。腰に剣を帯びた旅装束だ、決してこの街の娼婦ではない。だが、女一人でこんな場所を行くとは、不用心にもほどがある。男は無精髭の生えた顔をにやつかせながら、少女の後を追った。
つけられていると気づいていないのか、少女は振り返りもせずに裏通りを行く。肩口までの髪は太陽光を受けて黄金色に輝き、歩を進める度に外套の裾がひらひらと揺れている。
「よう、ねえちゃん」
男は早足で彼女に追いつくと、少々強い力でその肩をつかみとめた。華奢に見えたその身体は、存外肉付きがよく、適度に鍛えている事を感じさせる。まあ、それはそれで、好む客もいるものだ。その前に、自分がちょいと味見をしてもいいだろう。男は笑みを深く刻む。
「こんな所を一人で歩いてるなんて、不用心だな。悪い大人にさらわれちまうって、ママに言われなかったのかい?」
まさしく自分が『悪い大人』である事を自覚しつつ、ねばついた声で顔を近づけると、少女が不意にこちらを振り向いた。
それと同時に、男は、ぎゅうっと心臓を締めつける感覚に襲われた。金の睫毛に縁どられた春の海のような碧の瞳に見つめられて、目を離せなくなる。
いや、感覚だけではない。実際に心臓に鋭い痛みを感じて、呼吸が苦しくなる。少女から目を逸らしたくても、全身が凝り固まってしまったかのように、指一本すら動かせない。
「欲情。下心。計略」
少女の薄い唇が、言葉を紡ぎ出した。ひどく冷たく、機械的に。
「蒐集に値しない感情と判断。破棄すべき」
直後。
風船が破裂するような音を立てて、自分の身体が四散し、鮮血を振り撒くのを、男はまるで他人事のように知覚し、そして、永遠に意識を失った。
それまでにやにやしながら様子を窺っていた周囲の人間達が、たちまち青ざめて悲鳴をあげる。少女は、そんな恐慌が聞こえていないかのように、二度と動かない死体と化した男を冷めた目で見下ろしていたが、靴先に引っかかった男の手を、汚物を払うように蹴り飛ばすと、無感情の顔で周囲を見渡し、そして。
「恐怖。絶望。悲嘆。積極的に蒐集すべき感情と判断する」
その台詞を爪弾いた直後。
ベルカは業火に包まれ、大陸の地図上から消えた。
「
「ああ」
メイヴィスが『氷結律』でミルクを少しずつ凍らせて作ったアイスクリームを、午前の掃除後のおやつに食べていたエクリュは、ミサクが切り出した話に、スプーンをくわえたまま小首を傾げて、「はしたないですわよ」と隣席のリビエラにたしなめられた。
ロジカの訪れからこちら、敵の襲撃は無い。向こうが諦めたと見なすのは早計に過ぎるが、毎日びくびくしながら過ごしていても仕方無い、というのが皆の共通の認識で、一日一日を平穏無事に過ごしていた。
「人数が増えて食材が減ってきたからな、買い足しに行きたい。それと、お前達の服も揃えてやりたい」
ミサクの視線が、エクリュから、左隣のロジカに移る。『信仰律』を取り除かれ、その傷痕もリビエラの『回復律』で消してもらった彼は、エクリュを『姉上』と慕い、雛鳥のように後をついて回り、こちらの真似をしてリビエラに掃除や洗濯を習って、積極的にエクリュの役に立とうとした。言葉遣いは独特で、記憶障害は相変わらずなものの、人として基本的な生活の術は身についている。ただ、料理については致命的に下手で、試しに目玉焼きを作らせてみたところ、焦がす、を超えて火を噴かせ、
『やっぱりオレがやらないと駄目?』
とメイヴィスがどこか遠い目をして嘆息したものだ。
そんなロジカは、今はメイヴィスの服を、エクリュはリビエラの服を借りて過ごしている。だが、ロジカは身長差で、エクリュは膨らみの点において、身に余る。サイズの合う服を買うと言うミサクの提案は、二人をこの家の住人として認めてくれた証としても、ありがたいものであった。
「ここからだと、そうだな、シャンテルクか。必要な物は大体揃う」
「美味しい食べ物もあるのか」
「ああ、あるぞ」
エクリュが身を乗り出すと、ミサクが苦笑いといった態で相好を崩した。ベルカ以外の街を、というか街並というものをまともに見た事の無いエクリュの胸が、期待に弾む。
「ロジカも興味がある」
無言でもきゅもきゅとアイスクリームを食べていたロジカも、顔を上げた。
「人間達の生活、店の業態、並んでいる商品の種類。知識を集めるにはうってつけだと判断する」
「相変わらず、よくわからない喋り方しやがりますこと」
リビエラがひとつ息をついて、つつましくスプーンですくったアイスクリームを口に運び、よく味わってから、「でも」と続ける。
「言ってる事は大体、何にでも好奇心示す子供と変わりない事は、よくわかりましたわ」
「ロジカはリビエラの理解に感謝する」
「……何でそこでそうなりますの」
リビエラは謝辞を述べられる事に弱い。礼を言われたり、褒められたりすると、すぐに赤くなって顔を逸らす。この数日の間に悟った事だ。
メイヴィスも、よく自分を過小評価するが、料理の腕前は、今ここにいる六人の中で一番だ。それだけでなく、戦闘能力も高い。ミサクに『試しにやってみろ』と言われて、お互い短剣を手に向かい合った時、意外とばねになる筋肉のついた身体で、エクリュに引けを取らぬ軽やかな身のこなしを披露してみせたので、つい、禁じ手にされていた魔法を使って、『敏捷律』で素早さを上げ、何とか上手を取り勝利を収めた。
こうして、互いと向き合い、知り合う事で、理解を深めてゆく。それが、『ともだち』になるのに必要な事なのだろうとエクリュは推測し、今朝がた、三日に一度のユージンの診察を受けた際に、彼女に洩らしてみたのだが、魔族の医師は『うーん』と首をひねった後、苦笑を見せた。
『友達っていうより、もう、家族かな』
『かぞく』
また新たに出てきた単語をエクリュが反芻すると、ユージンは『そう』とうなずいた。
『エクリュはミサクと血が繋がってるだろ? あんた達はそれだけで充分に家族だ。だけど、一緒に暮らして、お互いを理解しようと努める仲は、「家族」と呼んで良いと思う。現にアタシは、ミサクとメイヴィスを大事な家族だと思ってるし、あんたとも家族になりたい』
直後にまた注射針を刺されたので、痛みに顔をしかめて、その先を訊くどころではなくなってしまったが、『かぞく』は『ともだち』と同じくらい良い言葉である、そんな気がした。
「とりあえず、近くの町までは徒歩だ。その後馬車を借りて駆ける。三時間もあれば余裕で着くだろう」
エクリュがぐるぐる考えている間に、ミサクはそう言い置いて立ち上がり、アイスクリームを食べ終わった食器を流し場に突っ込んで、少年少女を振り返る。
「欲しい物を紙にまとめて、身支度をしておけ。準備が出来次第、出発だ」
「わかった」「うん」「かしこまりましたわ」「承知した」
エクリュ達もめいめいに返事をした。
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