第10章:望みは儚く消えゆきて(4)

「……何だ?」

 突然始まった城の微震動に、ナディヤの肩を借りて何とか歩いていたミサクは、足を止め、周囲を見回した。

「城が堕ちるのです」

 何という事は無いかのように、ナディヤが淡々と答えた。

「実験を受けている中で、あのユホという魔女が口走っていたのを聞きました。魔王城は、デウス・エクス・マキナさえ望めば、唯一王都を滅ぼす為に天空から落とす事が出来ると」

「では」

 今、この城はアナスタシアを滅ぼす為に、王都へ堕ちる為の秒読みを始めているという事か。ならばシズナは、どうなったのか。デウス・エクス・マキナに敗れたのか。

 咄嗟に踵を返そうとしたミサクを、「どちらへ行くつもりですか」ナディヤが意外と強い力で引き留めた。

「このままここにいては、墜落に巻き込まれます。一刻も早く脱出しなくては」

「だが」

 誓ったのだ、幼いあの日に。彼女を守り続けると。最後まで見守り続けると。

 それでも、ミサクの心情を理解していると思われる複雑な表情を見せつつも、ナディヤは敢えて厳しく言い放ってきた。

「貴方が心配している方が、貴方が命を落とす事を望んでいるとお思いですか」

 そう言われて、ミサクには返す言葉が無い。シズナなら、彼女ならきっと今の状況を見たら言うだろう。

『私は大丈夫。だから、貴方はどうか生きて』

 あの声で強気に笑いかける様が、ありありと想像出来る。

(シズナ、シズナ)

 心の中で何度も、大切な少女の名前を繰り返し、歯を食いしばる。

 大事だった。何を犠牲にしても守りたいと思っていた、同じものが二つとして無い、半身。

 同じ日に親を同じくして生まれ、エルヴェとイーリエそれぞれに引き取られ、別々に育つ事になった。エルヴェの庵があの老獪なヘルトムートに見つかって、シズナに万一の事があった場合の為の、勇者の身代わりとして王都に連れてこられ、手練れの医師でなくては取り出せない位置に『呪詛律』を埋め込まれ、剣を持てば呪いが発動して死ぬ、魔法も使えない身体にされてなお、彼女の事を想い続けた。

 彼女を愛していた。彼女がいなければ、自分は生きていられなかった。だのに今、彼女を守り抜く事が出来ずに、一人生き延びるのか。

 ぽたり、と。

 雫が金属の床に零れ落ちる。アナスタシアの騎士になってから誰にも見せる事の無かった涙を、ミサクは今、流す。それを痛ましげな表情で見つめていたナディヤが、彼の腕を引いて促す。

「さあ、行きましょう」

 魔王城の震動は増してゆく。ミサクは最早気力を失って、引かれるままに歩みを進めるしか無かった。


 その運命の日、突如唯一王都上空に現れて下降してくる黒光りする城に、王都の人々は大混乱に陥った。

 逃げねば、と思いつつも、その猶予も残されていない事に彼らは絶望の叫びをあげ、それでも何とか王都から離れようとする人々で大通りはすし詰めになり、大人が子供の頭を踏み潰し、若者が老人を突き飛ばして地面に叩きつけ骨を砕き、火事場泥棒とばかりに他人の金品を盗み、欲望の為に誰かを刺し殺す者まで出て、最早美しき唯一王都の姿はどこにも無かった。ただ、終焉を前にした人間達の醜い本性が露呈するばかりであった。

 そして醜悪な争いは、王城でも例外ではなかった。兵士や侍女達は、主を見捨てて我先にと逃げ出し、ヘルトムート王を守るべき騎士も片端から姿を消した。

「陛下! 陛下! お逃げください、どうか!」

 かろうじて忠誠心を残していた侍従が謁見の間に飛び込んできた時に見たのは、玉座の裏に用意された細い地下への脱出路を巡って諍いを起こす、老王と王妃の姿であった。

「貴方はこの国の王でしょう! 最後まで責任を持ちなさい!」

「だからこそじゃ! 儂が生き残らずして、誰が唯一王国を存続させる!?」

 普段から良好とは言えない関係を保って来た国王夫妻は、ここぞとばかりに互いの生存欲をむき出しにして、突き飛ばし、髪を引っ張り、押し合いへし合いの問答を繰り広げている。あまりの子っぽさに、侍従は「ああ……」と失望の声をもらして、その場にへたり込んだ。

 次の瞬間、「ぎゃあっ」と悲鳴が謁見の間に響き、血のにおいが辺りに満ちた。ヘステ妃が常々手にしていた錫杖が、ヘルトムート王の心臓を一突きにしたのだ。

「これで」崩れ落ちてゆく夫の返り血を浴びながら、ヘステが満足そうに唇を歪める。「これで、わたくしが」

 だが、そこまでだった。唸り声のように聴こえていた轟音が激しさを増したかと思うと、衝突音、破壊音が近づいてくる。遂に魔王城が唯一王城の上に落ちてきたのだ。

「ひっ、ひいい!」

 ヘステは半狂乱になりながら、脱出路へ滑り込もうとする。だが、老いた女の運動神経より、破滅が訪れる方が速かった。がらがらと音を立てながら、謁見の間が崩れ、瓦礫が落ちてくる。

「うっ、ひいっ、ぎゃあああああ!!」

 最早唯一王妃の矜持も吹き飛んだ汚い悲鳴をあげるヘステと、二度と動かないヘルトムートに、一際大きな瓦礫が降り注ぎ、平等に破滅をもたらした。


 そうしてその日、唯一王都は滅びを迎えたのであった。

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