第10章:望みは儚く消えゆきて(3)
ぽたり、ぽたりと。
赤い血がシズナの服に染みを作ってゆく。
イリオスの刃は、シズナをかばって割り込んだアルダの胸を深々と貫いていた。
「――アルダ!?」
シズナの半狂乱じみた叫びに、アルダは応えなかった。応える余裕が無かった、というのが正しいだろうか。明らかに心の臓の位置を刺し抜かれ、喀血しながらも、イリオスの両肩をがつりとつかみ、裂帛の気合いを吐く。
その途端、発動した『闇黒律』が暴風のように舞い踊り、イリオスの身体をずたずたに斬り裂いた。
『シズ、ナ』
イリオスがこちらに向けて左手を伸ばしながら、紫の霧と化してゆく。
『俺は、生きたかった。俺を見下した奴らを見返して、一番に、なり』
最後までを言い切る事が出来ず、貪欲な夢を見た男の複製は、空気に溶けるように消えた。
だが、それを最期まで見届ける暇は、シズナには無かった。咄嗟に身を起こし、倒れ込んできたアルダの身体を受け止める。
「アルダ、アルダ!」
傷口から溢れ出す血が、流れ落ちてゆく命のようだ。シズナは『混合律』を握り締め、『回復律』を発動させた。青い光が、傷を癒してくれるように。アルダの命を繋ぎ止めてくれるように。
だが、光は、手応え無くアルダの身体をすり抜けてゆくばかりだった。それを見て、シズナはひとつの絶望的な可能性を、悟る。
『「回復律」は、あくまで生きる力のある奴の再生力を促進する為の、補助的なものだ。致命傷や死に至る病には効果が無い』
魔法講義の時、コキトが告げた言葉が脳裏に蘇る。頭は現実を理解していた。だが、心がそれを受け止める事を拒む。
死なせはしないと誓ったばかりなのだ。生きろと言い聞かせた彼の命を、失わせるような事にはしないと。そして自分も。彼に求められた喜びを糧に生きるのだと、決めたばかりなのだ。それなのに。
「……シズナ」
呆然とするシズナの頬に、震える手が添えられた。消えゆく炎を瞳に宿しながらも、彼がまっすぐに自分を見つめている。
「君と、帰りたかった。あの村へ。あの日々へ」
その手がシズナの金髪に触れ、頭を引き寄せて。
血の味が、舌に触れて。
そうして、アルダが目を閉じる。手から力が抜けて、ぱたりと床に落ちる。脱力した身体が、今更ずしりとシズナの膝にのしかかってきた。
《魔王の死亡を確認》
《次の段階に移行》
ぽたぽたと涙が零れ落ちる中、哀しみなど微塵も歯牙にかけないとばかりに、デウス・エクス・マキナの平坦な声が響く。
怒りは、最早過ぎ去っていた。捨て去ってしまった、と言った方が正しいのかもしれない。シズナは、アルダの身体をそっと床に横たえると、とめどなく頬を伝うものを拭いもせずに、『フォルティス』を手に立ち上がった。
その聖剣は、最早怒りの赤を宿してはいなかった。アルダの『オディウム』と同じように、青をたたえて静謐な輝きを放っていた。
『攻撃を再開』
二人の時間を邪魔しないだけの風情は持っていたのだろうか。それまで攻撃も仕掛けずに黙って突っ立っていたアティアが手をかざした。『光球律』の連弾が放たれてきたが、直撃しそうなものは『フォルティス』の輝きで容赦無く打ち落とし、かすめるだけのものは甘んじて食らって、相手の懐へ飛び込み、心臓を一突きにした。
『……シズナ様』
アティアが微笑む。いつも見せてくれていた、優しい笑顔で。
『良いんですよ、それで。貴女は、それで』
そうして彼女も、紫の霧になって宙空に溶けるように消えた。
《複製の消失を確認》
《脅威から、興味の対象へと移行》
デウス・エクス・マキナは、相変わらず平たい声を発するばかり。シズナは青い『フォルティス』を握り締めたまま、機械仕掛けの神のもとへと歩み寄る。
これが元凶なのだ。これを破壊すれば、報われる。イリオスやアティア、エルヴェの死も。村の人々も。アルダの運命も。
青の聖剣を振りかざし、紫の球体の中心へと叩き込む。刃は今度こそ弾かれる事無く、吸い込まれるように神の顔へと沈み込んだ。
《オオ、オオオオオ……》
低い悲鳴と共に、球体の中の黒い顔が渦を巻いて歪む。やったのだ。思わず口元が安堵にゆるむ。
しかし。
その顔が急速に形を取り戻したかと思うと、にたりと唇を持ち上げて、笑った、ように見えた。
《悲嘆、絶望を確認》
《吸収に値する対象と認識》
《取り込みを、開始する》
直後、デウス・エクス・マキナを取り囲んでいた線が、再びシズナに向けて押し寄せてきた。すぐさま球体から聖剣を抜いて、迫りくる線を次々と斬り落とすが、さばき損ねた一本がシズナの足に巻き付き、勢い良く引き倒す。
「あっ」
小さな悲鳴をあげたシズナの手から、『フォルティス』がすっぽ抜けて床を滑る。しかし、そちらに気を払う暇は無かった。次から次へと線がシズナに取りつき、再び体内へと侵入してきたのだ。
《嘆き、喪失、絶望》
《甘美な感情と認識》
《依代に適切と判断》
途端、シズナの頭の中に、知らないはずの光景が流れ込んできた。
それは、何千人もが血みどろの戦を繰り広げる光景だったり、病で死にゆく幼子を抱き締めて嘆く母親だったり、仕える主に刃を振り下ろそうと機会を窺う侍女の逸る鼓動だったり、目まぐるしく入れ替わって、脳の許容量を超える。
「あああああっ!!」
鼻から口から血を垂らし、シズナは絶叫した。自分の中に入り込んできた、得体の知れない何かが、シズナの意識を追いやって、この身体を乗っ取ろうとしている。それはわかるが、対抗する
せめて聖剣を、と目だけを動かせば、横たわるアルダの姿が視界に映った。
もう動かない、生きていない、最愛の人。
彼と共に生きたかった。全てを終わらせて、穏やかに暮らしたかった。ただそれだけなのに、こんな結末を迎えるのか。
(エクリュ……)
意識が閉じてゆく。最後にシズナの脳裏に浮かんだのは、紫髪の赤子が目に一杯涙を溜めて泣きじゃくるのに、手が届かない、あの日の思い出であった。
無数の線に巻きつかれた少女の懐から、穴だらけでぼろぼろに破れた封筒が、風も無いのにふわりと舞い、静かに床に落ちる。
《情報共有を完了》
誰も動く者のいなくなった空間で、空虚な声が、残酷な言葉を発する。
《依代の最たる憎しみを確認》
《アナスタシアを、滅する》
そうして、崩壊は訪れた。
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