第4章:奪われた光(3)

 その後は、何がどうなったのか、シズナにもよくわからない。

 ただ痛みに支配される中、「深呼吸をして」「力を抜いて」などと次々と呼びかけられ、周りで誰かしらが動き回り喋っているような気がしたし、誰かが手を握ってくれている気もしたが、繰り返される苦痛に意識を失いそうになり、頬を叩かれて闇から引き戻される事が何度もあった。

 永遠のような時間。それが、部屋に響き渡った泣き声で、不意に終わりを告げた。周囲からも歓声があがる。

「シズナ様、おめでとうございます」

 涙声で呼びかけるその声が、誰だかすぐにわからずにぼんやりとしてしまったが、この一年聞き慣れたアティアだと理解する。

「可愛らしい女の子ですよ」

 そう言いながら、アティアの手が、汗まみれになって額に張りついてしまったシズナの前髪を払ってくれる。まだ荒い息を整えていると、やがて、おくるみに包まれた赤子が、産婆の手によってシズナの隣に寝かされた。その姿を見て、シズナは思わず目をみはった。

 赤子はすうすうと穏やかな寝息を立て、瞳の色をうかがう事は出来ない。だが、その頭にもしゃもしゃと生えた髪色は、まごうかたなく、紫。シズナが愛し愛されたアルダと、寸分違わない色をしていた。

 ぶわり、と。涙が溢れ出す。手の届かない遠くへ行ってしまったあの人との愛の証が、今こうして隣で眠っている。自分とアルダを繋いでくれている。涙を流れるに任せて、娘の寝顔を見つめていると。

「勇者様、大変お疲れでしょう。こちらをお飲みください」

 助産婦が、琥珀色の液体が注がれたグラスを持ってきた。途端、アティアがさっと青ざめて何かを言わんと口を開きかけたが、

「ヘステ妃殿下からのお気遣いです」

 助産婦は淡々とそう告げてアティアを押しのけ、シズナの口にグラスを押しつける。甘ったるい液体が喉を通り、胃腑へ滑り落ちていった。

 嫌だ。何か嫌な予感がする。シズナの抵抗は言葉にもならず、液体は最後まで問答無用で注ぎ込まれる。その直後、抗いがたい眠気がシズナを襲った。これは産みの疲れではない。強制的にもたらされたものだ。

 突然、赤子が火のついたように泣き出した。アティアが助産婦に何かを訴えているのも聴こえる。

 子供を、抱いてやらなくては。

 その思いとは裏腹に、四肢は重たくて動かせず、まぶたは自然に閉じてゆく。我が子の泣き声を遠くに聴きながら、シズナの意識は深淵へと滑り落ちていった。


(あの子を、抱いてあげなくちゃ……)

 その思いと共に、シズナはゆるゆると目覚めに導かれた。しばらくは記憶が混濁して、ここがどこか、何があったか、理解するのに時間がかかったが、ある瞬間に、パズルのピースがかちりとはまるように、全てを思い出して、覚醒する。

 娘が生まれて。助産婦に何かを飲まされて、そのまま寝落ちてしまった。眠っている間に移動させられたらしく、産室ではなく、いつもの自分の部屋に戻っている。

 娘は泣いていた。すぐにでも抱き締めて、我が子が生きている感触を確かめたかった。だが、こうべを巡らせても、どこにも子供がいない。慌てて上体を起こし、探るように娘の姿を求めていると、軋んだ音を立てて部屋の扉が開き、

「おやおや、やっと起きたのかえ?」

 ねばついた声が耳に届いた。はっとそちらを振り向けば、ヘステ妃が「おお、黴臭い部屋だこと」などと嫌味を洩らし、護衛の兵と共に部屋に入ってきて、シズナを見下ろすと、悪鬼のごとく唇を歪めた。

「勇者殿が子連れ、しかも魔王アルゼストの子供なぞを抱えていては、今後の支障になるからの。そなたの子は、しかるべき人物へと預けた」

 シズナがその言葉の意味を咀嚼できずにぽかんとするのを、愉快そうに見て、ヘステは更に気を良くしたように言葉を重ねる。

「立派な勇者の跡継ぎになるじゃろうて」

 ようやく思考が理解に追いついて、シズナは驚愕に目を見開いた。

 奪われた、のだ。自分とアルダの絆の証は、この王妃の手の者によって、シズナの声が届かない場所へと追いやられてしまったのだ。

 手が、ぶるぶると震える。そのわななきは全身へと広がってゆく。

「……て」

 はじめは、声がしゃがれて出なかった。だが、湧き上がる怒りは、やがて音を成してゆく。

「返して! 私とアルダの子を!!」

 跳ね起きるようにして王妃に飛びかかろうとしたシズナはしかし、護衛の兵士に阻まれ、ベッドの上に押し返された。それでも尚起き上がろうとあがくシズナの額を、ヘステの手にした錫杖が小突く。手加減の無い、脳に響く痛みに、シズナは顔をしかめてのけぞった。

「おお、汚らわしい。我が夫が拾ってやった恩も忘れて、あさましい娘よ」

 本当に汚い物を見るような目つきで、ヘステが吐き捨てる。

「こんな親に育てられるより、魔王の娘に相応しい教育を受けた方が、子供の為じゃ」

 まるで自分が誰よりも正しく親切であるかのように、お仕着せがましく、王妃は口元をおさえてくつくつと笑う。

 涙は出なかった。憤怒が過ぎるあまりに、感情を垂れ流す事も忘れてしまったのだろう。ぎり、と歯を食いしばって、唸るようにシズナは絞り出す。

「……人でなし」

 ヘステは嘲るような笑みを投げかけて、シズナを叩きのめした事に満足したか、ゆっくりと部屋を出てゆく。その背中に、シズナは精一杯の罵倒を叩きつけた。

「この国の連中は、人でなしばかりだ!!」

 そう叫んでも、我が子が戻ってくる訳ではない。それをわかっていても、声に出さずにはいられなかった。


「申し訳ございません、シズナ様」

 背もたれによりかかるように椅子に座り、膝の上に自分で縫った黄色の産着を乗せて、ぼんやりとしているシズナを前に、アティアは心底申し訳無さそうに頭を下げた。

「わたしが、ヘステ妃のお考えを察していれば、こんな事には」

「僕にも責任がある」

 アティアの隣に並んだミサクが、口惜しそうに唇を噛み締めた。

「男だからと関わらせてもらえなかった、というのは言い訳にしか過ぎない。どんな手を尽くしても、介入すべきだった」

「……いいの」

 どんな怒りをぶつけられても仕方無いと恐縮する二人にかけられたシズナの声は、恐ろしいまでに穏やかだった。

「いいのよ、二人のせいじゃない。気にしないで」

「しかし」

「ごめんね」

 尚も言い募ろうとするミサクの言葉を遮るように、シズナは二人の方を向き、やけに静かに微笑んだ。

「一人にしてくれるかしら」

 あまりにも冷静な、しかし有無を言わせぬ語調に、アティアもミサクも息を呑む。これ以上の対話は無用と判断したか、ミサクが先に踵を返し、アティアも再度深々と低頭すると、二人は部屋を出ていった。

 一人残されたシズナは、しばらくの間、感情の宿らない碧の瞳で、袖が通される事の無かった産着を見下ろしていた。だがやがて、引き結んだ唇から唸るような声が洩れ、次の瞬間、爆発するように彼女は泣き出した。

 その温もりを、一度も肌で感じる事が出来なかった。

 瞳の色を確かめる事が出来なかった。

 名前をつける事さえ、許されなかった。

 どこへ行ってしまったのか、取り戻す事の出来ない大きな光の喪失に、シズナは産着を顔に押し当てて、慟哭に暮れるのであった。

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