第5章:赤い聖剣『フォルティス』(1)

 暗闇の中、泣き声が聴こえる。あの子だ、娘だ。今すぐ駆けつけて、抱き上げてやらねば。周囲を見渡すが、五感に入るのは、母を求める声ばかりで、我が子の姿を見つける事もかなわない。

 気ばかりが焦って振り向いた時、紫の髪が視界に映った。見慣れた背中が、産着にくるまれた同じ髪色の赤子を抱いて歩いている。

 名前を呼んで、走り出したつもりだった。だが、口から洩れたのは、音にならない息だけで、足は鉛のように重くて、一歩を踏み出せない。

 彼は振り返らないまま遠ざかる。顔を見る事すら出来ず、赤子の泣き声も遠ざかってゆく。

 大声で名前を叫ぼうとして、手を伸ばす。だが、必死の努力も虚しく距離は広がるばかりで、もどかしさと悔しさに両目から涙が零れ落ちて――


「――アルダ!」

 その名を呼ぶ自分の声で、シズナの意識は現実に引き戻された。夢の中で伸ばしたそのままに、右腕は空へと突き出されている。

 夢なのだ、と自覚すると同時、夢ではない、と嘲笑う自分が心のどこかにいた。

 アルダは遠くへ行ってしまった。娘もこの手に帰らない。

 腕を下ろしのろのろと身を起こすと、ぽたぽたぽた、と毛布に零れる水分があって、しばし不思議に思いながら呆け、ある瞬間にはっと気づいて両頬に手を当てる。

 頬は信じられないくらいに濡れていた。夢の中で流した以上に、涙が溢れている。しかもそれは夢から覚めて止まるどころか、後から後から続いて、悲しみの終焉を告げてはくれない。

 心にぽっかり空いた穴。それを埋める方法すら知らずに、シズナは立てた両膝に顔を埋めて、部屋の外に声が洩れないように、静かに嗚咽する。

 窓の外はまだ暗く、夜明けは遠かった。


『長く病を抱えていたが唯一王の慈悲深さにより快癒した』という建前を立てられていた勇者の卵シズナは、再び武器を握れる身体になってからというもの、鬼気迫る剣技を披露した。

 武器から離れていたのが嘘ではないかとばかりに、今まで以上の鋭い剣さばきを見せ、向かってくる練習相手の騎士達を圧倒する。最初に下卑た挑戦を仕掛けてきたイリオスさえ、その気迫の前には怯み、練習用の剣を弾き飛ばされて手首を痛め、『とんだあばずれだぜ』と、愚痴を零したものだった。

 シズナは魔法の修練にも今まで以上に身を入れた。一年前には小規模な火花しか熾せなかった『火炎律』で炎の壁を作り出し、

「無理、これ以上ここでやるのは無理。研究室が壊れる」

 とコキトが遂にお手上げするほどの実力を身に着けた。

 座学でも、教師が舌を巻く吸収力を見せ、最早城で教えるべき事は何も無い、と教官達が口を揃えると、それを聞いたヘルトムート王は、いよいよシズナを正式な勇者として魔王討伐に送り出す決断を下した。

 今までの普段着とは違う、丈夫な布を使った旅装に身を固め、この一年で更に伸びた金髪を結い上げたシズナは、一年ぶりの唯一王との謁見に臨む。その隣に、いつものお仕着せではなくやはり旅装束に身を包んだアティアが並んで歩くので、不思議に思って小首を傾げると、彼女は照れ臭そうに頬を触りながら「僭越ながら」とはにかんだ。

「わたしも、シズナ様のお世話役として、旅に同行させていただく事になりました」

 幼い頃から武術の基本を叩き込まれていたシズナと違い、城の侍女である彼女に、戦いが務まるのか。訝しげな表情はしっかりと出てしまったらしい。アティアは苦笑して言葉を続ける。

「王都の侍女は、お茶を注ぐのと同じくらい当然のように、短剣の手ほどきを受けます。それに、わたしもコキト様から魔律晶の扱い方を教わりました。簡単な補助と回復の魔法ならば使いこなせますので、シズナ様の足を引っ張るような真似はいたしません」

 そこまで言うのなら、彼女は己の腕前にそれなりの自信を持っているのだろう。下手に知らない人間が同行者になるより余程心強い。安堵感を覚えながら、シズナはアティアと共に、謁見の間の入口に立った。

 重たい音を立てて扉が開く。玉座にいるヘルトムートと、あれだけの仕打ちをしておいて何の罪悪感も無く平然とこちらを睥睨しているヘステを睨むように見つめ、謁見の間へ踏み込んで、シズナは、先客の姿に気づいた。

 口を真一文字に引き結んで、神妙な顔でシズナを出迎えるミサク。にやにやとした笑いを崩さないイリオス。色眼鏡の下に表情を隠して、何を考えているのかわからないコキト。その三者も、旅に耐え得る服装に身を包んでいる。それを見て、シズナはすぐに意味を理解した。

「揃ったか」

 その考えに確信を与えるように、ヘルトムート王が肘掛によりかかり頬杖をついた姿勢で、気怠そうに言い放つ。

「シズナ。その者達を連れて魔王討伐の旅に出よ。いずれもそなたの助けになるだろう」

 抱くに値しない女に興味は無い、という意図を隠しもせずに、唯一王は形ばかりの宣告をして、きざはしの下に控えていた文官に合図を送る。すると彼は一振りの、立派な鞘に収められた長剣を捧げ持って、シズナの前へとやってきた。

「それは歴代の勇者が持つ聖剣『フォルティス』だ」

 いちいち説明するのも面倒くさそうに、唯一王は聖剣を指差す。

「この王都には、先代勇者エルストリオが魔王討伐の証に持ち帰った、対となる魔剣『オディウム』があった。だが、魔剣は一年前、この聖都を侵し、兵士九人を殺した魔族によって持ち去られている」

 それを聞いて思い当たる節がある。一年前といえば、世界の全てが変わった、あの悪夢の日だ。

『ちょいと野暮用があってねえ。遅くなったよ』

 とユホは言って、赤の剣をアルダの手に握らせた。きっと、あの時彼女が王都から魔剣を奪い、与えたのだろう。新たなる魔王に。

「聖剣は、そなたを真の勇者と認めた時に、聖なる輝きを放つという。一刻も早く使命に目覚め、魔王アルゼストを討ち、このアナスタシアに平和を取り戻すのだぞ」

 ヘルトムート王の言葉に合わせて、文官が聖剣『フォルティス』をシズナの手に託す。ずしりとくるかと思った重みは無く、シズナの腕力でも簡単に振り回せそうだ。銀の鞘に金の蔦の装飾が施され、柄は片手剣よりも長く、静かな光をたたえた無色透明の石を抱いている。

 柄に手をかけ、少しだけ引き抜いてみる。刃は柄の石と同様無色に透き通っていた。

 刃を鞘に戻し、形ばかり、唯一王に低頭する。

「では、行け、若者達よ。朗報を待っておるぞ」

「唯一王の御心のままに」

 はい、と答えるのが癪で沈黙を貫こうとしたところ、それを察知したのかミサクが先んじて応えた。横目で見れば、彼は胸に手を当て深々と頭を下げている。他の者達はとうかがえば、アティア達三人もしっかり腰を折ってはいたが、イリオスは口の端に相変わらずにやにやと笑みを浮かべ、アティアはやけにむっとした表情をしており、コキトは何を考えているのかうかがい知る事が出来なかった。

 もしも今、ここで、という考えが、ふとシズナの脳裏をよぎる。

 この場で聖剣を鞘から抜き放って階を駆け昇り、ヘルトムート王とヘステ妃の首を落としたら、周りはどういう反応をするだろうか。驚きに言葉を失って立ち尽くすだろうか。いや、ミサクあたりは冷静に銃を抜いて、こちらの眉間を撃ち抜くくらいはするだろうか。

 それとも、笑いながら加勢してくれるだろうか。

 歪んだ考えに口元をゆるめれば、手の中の『フォルティス』が、ほんの少し震えて唸ったような気がした。

 まるで、その想いを実行してみせろ、とばかりに。


「と言う訳で、勇者様の手助けをする事になったぜ」

 五人揃って謁見の間を辞し、扉が閉まった所で、イリオスが歩を止め振り返り、にやりとねばつくような笑いを見せた。

「俺は、中途半端な侍女や、騎士のくせに剣も使えないお坊ちゃんとは違って、きちんと役に立つからな。あてにしろよ」

 彼はアティアやミサクを一瞥して、それからシズナに向けて右手を差し出す。握手を求めているのはわかったが、初対面時の無作法を思い出し、シズナがむっとした表情でその手を見下ろしていると、

「まだ警戒してるのかよ。可愛くない女は嫌われるぜ」

 と、騎士はにたりと歯を見せつつ手を引っ込める。

「馴れ合うつもりはありません。貴方の良くない噂はわたし達侍女の耳にも入っていますから」

 シズナを守るようにアティアが進み出て、自分より遙かに背の高い男を睨みつける。

「どちらが中途半端で役立たずかは、旅の中で自ずとわかる事でしょうね」

「口ばかりは達者だな、ベッドを整えるしか能が無いメイドさんはよ」

「馬鹿の一つ覚えみたいに剣を振り回すしか能が無い人よりは、余程ましです」

 ばちばちと。アティアとイリオスの間で見えない視線の火花が散っているようだ。間に入るべきか、言葉を失ってしまうシズナに、

「シズナ」

 と、二人のやりとりなどどこ吹く風とばかりに、コキトが気軽に声をかけてきた。

「あんたの為に、魔律晶を改良した。あんたは器用だからね、魔律晶を幾つも持たなくても色んな魔法を使えるように、一つにまとめたんだ」

 そう言って魔法士は、ちゃらり、と細いチェインをシズナの眼前に垂らしてみせる。その先には、親指の先大の、七色に輝く球状の石がぶら下がっていた。

「魔律晶を磨きに磨いて、出来る限りの能力を封じ込めた『混合律』だ。あんたが今までに使いこなした魔法は大体発動できるように仕込んである」

 軽い音を立てて、シズナの手の中に『混合律』が収まる。首にかければ、胸元で魔律晶は虹色の光を放った。

「色々と心配事はあるだろうが」

 手の中で『混合律』をもてあそんでいると、ミサクが神妙な顔をしてシズナの肩に触れる。

「ただ無作為に僕らが選ばれた訳ではない。この一年の貴女の実力や人間関係を見て、きちんと貴女の補佐を出来る者を、ヘルトムート王の家臣が厳選した。困った事があったら、遠慮無く頼ってくれ」

 正直、仲が良いと言えないイリオスが選ばれた事には不満があるが、彼の剣の腕前については、手合わせをしてきたこの一年で、騎士団の中でも群を抜いている事はわかっている。コキトも魔法の使い手として頼りになる。それに、アティアやミサクといった、気の置けない相手が傍にいてくれる事は、何よりもシズナに安堵感をもたらしてくれる。

 授かった聖剣『フォルティス』を腰の剣帯に装備すると、シズナは一同を見渡し、勇者として最初の言葉を発した。

「行こう。あてにしている」

 その言葉に、ミサクが深く頷き、アティアが笑みかける。イリオスが口笛を吹き、コキトは相変わらず感情が読めなかったが、わずかに口の端を持ち上げた。

 この五人で、旅立つのだ。アルダ――魔王アルゼストを打倒する道程へと。

 腰に帯びた聖剣の柄に触れれば、剣はわずかに熱を帯びたように思えた。

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