第2章:魔王の花嫁(2)

 白色の壁が屹立していた。恐らく高さはシズナの背丈の十倍はあるだろう。それが視界に収まりきらない範囲で広がっているのだ。

 馬車は迷う事無く壁へと向かって走り続ける。その一角に木製の門扉があって、両脇に、白い鎧をまとい、腰に剣――訓練用の木剣ではなく、立派な鞘に収まった真剣だ――を帯びた男達が立っている。

 彼らは近づいてくる馬車を視認すると、すっとこめかみの辺りに手を掲げて、直立不動でこちらを待ち受ける。馬車は門の前で止まり、ミサクが窓を開けて彼らに声をかけた。

「ご苦労」

「いえ!」

「ミサク様こそ、お役目お疲れさまです!」

 明らかに二十代と思しき男達が、どう見ても十代後半より上に見えない少年に向かって敬語を使う。村人達には対等な口をきいていて、それをエルシにもイーリエにも特に咎められた事の無いシズナだったが、『外では年上には敬語で話しかけないと、拳が飛んでくるぞお』と、剣の師匠であるガンツに脅されていたので、今、目の前で真逆の現象が起きている事に、動揺を隠せなかった。

 男達がレバーを回して門扉を開く。再度敬礼する彼らに見送られて、馬車は壁の中へと進んだ。

 そこに繰り広げられた光景に、シズナはまたも絶句した。

 一本の大通りが街を貫き、両脇に、故郷の村のような木を組んだ平屋ではなく、二階、三階建ての白壁の建物が並んでいる。何軒かの軒先には看板がぶら下がり、肉屋、八百屋、薬屋、茶屋、食堂、服屋、装飾品店、などの文字を見受ける事が出来た。

 通りを行き交う人々は老若男女様々で、数も村の全人口より遙かに多いだろう。そんな道を、馬車は悠然と抜けてゆく。

 その光景だけで唖然としていたシズナは、向かう先に見えてきた建物に、更に言葉を失う羽目になってしまった。

 とてつもなく大きな白亜の建物だった。そびえ立つ尖塔の高さは、先程の壁を凌駕するのではないだろうか。

「一体、ここに住んでいるのはどれだけ大きな人なの?」

 思わず零れ落ちた疑問を、ミサクは耳聡く拾い上げたらしい。しばらく目を点にしていたが、シズナの思考している事に気づいたのか、口元を手で隠して抑え気味の笑いを洩らした。

「大丈夫、王宮に住んでいらっしゃる国王陛下は、我々と同じ人間だ。規格外の大きさではない。王族に仕える人間はとても多いから、王宮も広く高く造られている。それだけだ」

 勘違いをしていた事と、それを聴かれていた事。両方のせいで、シズナの頬はかあっと赤くなる。

 二人がそんなやりとりを交わしている間に、馬車は王宮前で止まった。ミサクが扉を開いて先に降り、シズナに向けて手を差し伸べる。

 数時間、馬車に揺られてすっかり固まっていた身体を叱咤して立ち上がり、少年の手を借りて馬車から降りる。そして改めて王宮の高さを間近に見上げて、シズナはぽかんと口を開けて立ち尽くしてしまったのだが。

「まずは身を清めて着替えると良い。国王陛下への謁見は、格好を整えてからだ」

 ミサクに言われて、シズナははっと己の身を確かめる。花嫁衣装はぼろぼろになり、あちこちに血がにじんでいる。魔物に襲われた時の自分の血と、アルダが生み出した殺戮の血だ。それに丸一日、水浴びも湯浴みもしていない。更には煙と死と吐瀉物のにおいが混じり合って、悲惨な様相を呈していた。馬車に同乗していたミサクはよく文句を言わなかったものだ。

 そのミサクはシズナを連れて、王宮内へと踏み込む。赤い絨毯が敷かれ、そこだけでシズナの家を凌駕しそうな広さのホールを抜け、階段を上がる。どこをどう通ったかわからない内に、ミサクはシズナをひとつの扉の前に導いた。

「今日からここが貴女の部屋だ。中で専任の侍女が待っているから、彼女に全て任せれば良い」

 木製の扉が開かれる。その途端、花のような柔らかい香りが、ふわっと漂ってきた。

 通された部屋は、シズナ一人の身には余り過ぎるのではないかというほどに広かった。机と寝床と箪笥ばかりが置かれた実家の自室とは異なり、レースをふんだんに使った、二人は一緒に眠れそうな天蓋付きのベッド、丸いサイドテーブル、ぴかぴかに磨かれた鏡台、硝子テーブルを囲むようにしつらえられた柔らかそうなソファ。窓は大きくとられ、カーテンも見た事の無い美しい水色の薄布である。

「あっ、ミサク様、お帰りなさいませ!」

 そんな部屋の中で、ベッドメイキングをしていた女性がこちらを向き、ぱっと笑顔を輝かせると、深々とお辞儀をした。ツートンカラーのお仕着せは決して野暮ったくはなく、膝丈のスカートが、女性の動作にあわせてふんわりと揺れる。

「そちらが、シズナ様ですね?」

 黒目がちな真ん丸の目が、きらきらと輝いてシズナを見つめてくる。彼女が専任の侍女とやらだろう。歳の頃はシズナより三、四歳ばかり上だろうか。小顔で、絶世の美女という訳ではないが、愛らしい面立ちをしている。

「時間が来たら迎えにくるので、後は頼む」

「かしこまりました!」

 侍女が満面の笑顔で受け応えると、ミサクは軽くうなずいて、「では、また後程」とシズナに言い残して部屋から出て行った。侍女と二人きりになったシズナが、居所を失くしてしどもどしていると。

「シズナ様、わたしはアティアと申します。僭越ながら、シズナ様の身の回りのお世話を仰せつかったので、よろしくお願いいたしますね」

 アティアと名乗った侍女は目を細めて微笑んで、深々と頭を下げる。背筋の伸びた、卑屈さなど一厘たりとも含まない、清々しいお辞儀だった。

「さあさあ、色々あってお疲れでしょう? 続きの部屋にお湯を用意してありますので、ゆっくり温まってくださいな」

 アティアは波打つショートボブの茶色い髪を跳ねさせて、無邪気にシズナを奥の部屋へと導く。そこはタイル張りの床で、湯の満ちたぴかぴかのバスタブが置かれていた。アティアがいそいそとこちらの服を脱がせようとするので、シズナは焦る。

「だっ、大丈夫! 自分で脱げますから!」

 するとアティアはきょとんと目をみはり、それから顔を伏せてくすくす笑い出してしまった。自分は何か変な事を言っただろうか。王都の常識などひとつもわからないシズナが、眉間に皺を寄せて首を傾げると、侍女は軽く咳払いをして、「申し訳ありません」と低頭した。

「わたし達メイドは、高貴な方々のお世話をするので、あらゆる事をお手伝いするのが職務でして。シズナ様の今までの暮らしと、わたしの常識が噛み合わない事があるのを、失念しておりました」

 言葉尻だけとらえれば、田舎者と馬鹿にされていると受け取っても、相手も文句は言えない。しかしアティアの声音は、洩れ出た笑いとは裏腹に、心底からの謝罪が込められている。

 この女性は頼りにしても良さそうだ。そう判断したシズナは、袖を脱ぎかけた腕を、アティアに向けて差し伸べた。

「貴女のお仕事を奪うような真似をして、ごめんなさい。お手伝いを頼めますか、アティアさん」

 すると彼女は、今度は驚きに目を見開き、それから、ふっとくすぐったそうに笑んだ。

「さん、は要りませんよ、シズナ様。貴女は勇者のご息女、わたしは一介のメイド。わたしの事はどうか、アティア、と呼び捨てにしてください。敬語も無しで」

「でも」

「そうでないと、わたしが、『身分をわきまえろ』と国王陛下に叱られてしまいます」

 人差し指を口の前に立てて、アティアは悪戯っぽく片目を瞑ってみせる。身分をわきまえろ、の意味がよくわからないが、外の世界では上下関係はよほど大事なものらしい。

「わかった。じゃあ、お願い、アティア」

 シズナが口調を改めると、アティアも満足げに頷いて、「かしこまりました」と目を細めた。

 汚れた服を脱ぎ捨て、湯船に浸かる。母が少しだけ持っていた、ラベンダーの香料に似たものが入っているのか、気持ちを落ち着かせる香りが辺りに漂う。

「一緒に髪も綺麗にしましょうね」

 袖まくりをしたアティアが、透明な液体をシズナの頭につけて、ごしごしとこすり始める。たちまちシズナの金髪は、白い泡に包まれた。まるで石鹸のようだ。いや、石鹸より更に泡立ち良く、香りも良い。初めての体験にシズナが驚きを隠せない間に、アティアは慣れた手つきで泡を湯で流し、別の液体を、シズナの髪に染み込ませるように手櫛で馴染ませてゆく。すると、特に頓着した事の無い髪が、つやつやになってゆく。シズナはもう発する言葉を選ぶ事が出来なかった。

 湯浴みが終わると、アティアが用意してくれた新しい服に袖を通す。村では貴重だった絹の真っ白なシャツに、梔子の花をあしらったカーキ色のスカート。そしてベージュのブーツ。全ては、シズナの体格を事前に知り尽くしていたのかとばかりにぴったりと身に沿った。

 服を着終えたシズナを、アティアが鏡台の前に導く。そして慣れた手つきで、艶を帯びたシズナの髪をひとつにまとめて藍色のバレッタで留め、顔には白粉をはたいて唇に紅を引いた。化粧など生まれてこのかたした事が無かった顔が色気をそなえてゆくのを、鏡越しに唖然と見守る。

「ほら、元が素敵だから、とても綺麗になりました」

 己の仕事を果たしたアティアが満足げに小鼻を膨らませ、それから、「あら?」と、今気づいた様子で、シズナの左腕を取った。

「シズナ様、お怪我をされていますね」

 言われてシズナも視線を落とす。一直線に刻まれた切り傷。あの惨劇の中、魔物によって作られたものだ。既に血は止まり塞がりかけていたが、認識してしまうと、忘れていた痛みがしくしくと蘇る。

「念の為、お薬を塗っておきましょうか」

「いいえ」

 アティアの気遣いに、シズナは首を横に振ってそれを拒んだ。

「大丈夫。このままで」

 忘れてしまいたい。あの悪夢を。愛しいアルダの変貌を。だが同時に、この痛みを消す事は、十数年抱き続けたアルダへの気持ちをも忘れ、捨ててしまうような気がして、身に刻み、憶え続けていたかった。

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