第2話 ブレイク先生
アメリカはマサチューセッツ州、ボストンの街並みにウィット・ビークス小学校はあった。取り立てて歴史がある学校でも、進学校でもないが、駅が近く、とにかく立地条件が良いという事で中々に生徒数の多い学校であった。
ブレイク・ヒューバーは勤続十年になる。ベテランとは言えないが、中堅の教諭である。三十五歳になる。肩幅が広く、程よく鍛え上げられた肉体を見ると体育教諭であると勘違いされがちだが、ブレイクの担当は国語だった。
ブレイクは両手いっぱいに荷物を持って廊下を歩いている。当然だが、廊下は走るのは禁止だ。本当なら、ブレイクはウキウキ気分でスキップしても良いぐらいなのだが、教師として、それは憚られた。
なんとか気持ちを抑えながら、ブレイクは担当する教室の前へとやってくる。
「ふん?」
ドアに手をかけた瞬間、ブレイクはぴたりと止まった。教室が嫌に静かだった。まだホームルームのチャイムはなっていない。他の教室が良くも悪くもほどほどに騒がしいのに、自分の教室はしんと静まり返っている。
「全く……」
ブレイクは硬く太い指で額をかいた。やれやれとため息をつき、飽きれる。
「パーシー! ドアの後ろに隠れているのはわかっているぞ」
ドアを開けずに、ブレイクはその向う側にいるであろうイタズラ小僧へと声をかけた。ドアのすりガラスに映り込む小さな影がびくりと動いたのが見えた。
「ジェシー、君もだ。全く、日直だろう?」
同じようにドアの向う側でパタパタと走り去る足音が聞こえた。その一瞬で教室がにわかに騒がしくなる。
ブレイクはそうなってから、やっとドアを開いた。しかし、教室の中へは入らずにその場で立ち止まり、足下に設置された縄跳び製のワイヤーを見下ろし、その先に設置された水の入ったバケツ、さらには水溶性の絵の具がびっしりと塗りたくられた画用紙が置いてある教壇を認めた。
それぞれはうまい具合に配置されており、縄跳びで足を引っかけ、水入りバケツに頭を突っ込み、そのままの勢いで教壇にたどり着いたら絵の具でべたべたになるという、手は込んでいるが、内容としては古典的なイタズラだった。
「さぁ、主犯格は名乗り出ろ。そして今すぐこれを片付けるんだ。でないとクラス全員で校庭の整地だ」
ブレイクはそんなイタズラを怒ったりはしなかった。それでも名乗り出ないのであれば、連帯責任として妙に広い校庭の隅々を整地させてやるつもりだった。
この学校の校庭は面積の関係なのか、それとも初めからそうしていたのかは不明だが、運動場が広く、ちょっとしたスポーツの大会ぐらいなら開催できるぐらいなのだ。
「どうなんだ? 僕としては、そこに学校中の清掃を付け加えてもいいし、社会見学を君たちだけ欠席させて教頭先生との居残り授業を計画してもいいんだが?」
「はい、先生、僕です!」
一人の男子生徒が手を上げる。利発そうな目をした少年、パーシーである。先ほどドアの前で縄跳びを引こうと準備していた子だ。
とはいえ、ブレイクは名乗り出なくても彼が主犯だというのはわかっていた。大抵、問題を起こすのはこの少年だからだ。
「よぉし、パーシー。よく名乗り出たな。それじゃ今すぐにこれを全部片づけるんだ」
「ちぇ、先生、引っ掛かってくれないんだもんなぁ」
「パーシー」
「はい、先生。今すぐ片付けます」
パーシーは口を尖らせてながら、ぶつぶつと文句を言っているが、言われた通りにイタズラを片付けていく。
「ジェシー、君の手には絵の具が着いているぞ」
「え!」
ブレイクは同じくイタズラの手伝いをしていたらしき女子生徒にも声をかけた。ジェシーはびっくりしたような顔で自分の手を見つめた。そこには絵の具なんてついていなかった。だが、反応したという事は、彼女が絵の具を塗りたくった画用紙を準備したという事になる。
「酷いわ先生! 生徒をだますなんて!」
「おいおい、僕が水塗れ、絵の具塗れになる方がもっと酷いだろう? さぁ、ジェシーも片付けるんだ。じゃないと本当に教頭先生に報告するぞ?」
「べぇー」
ジェシーは舌を出して、反抗するが、それが見せかけだけだというのはブレイクは知っている。その証拠にジェシーも言われた通りに画用紙を丸めてゴミ箱に捨てていた。
一通りが終わったかに見えたが、ブレイクはまだ教室に仕掛けられたイタズラが残っている事を察知していた。
教室の後ろ側のドアだ。前の仕掛けが回避された時のものだ。そちらの仕掛けはそう難しいものではなくて、これも古典的な黒板消しが降ってくるタイプのものだ。当然、チョークの粉が満遍なく振りかけらているから、直撃するとかなり悲惨な事になる。
「フランクリン。君は後ろのドアに仕掛けたイタズラを元に戻しなさい。アニー、その手伝いをしたね?」
まさかバレるなんて! そんな顔をして驚いているのは肥満気味のフランクリンと澄ました顔のアニーだ。
「先生、僕じゃないですよ」
態度でバレバレなのだが、フランクリンは言い訳を続けた。アニーは無言のままそっぽを向いている。
「フランクリン、今日の弁当はチキンだな?」
「え? なんでわかるんですか?」
フランクリンは見た目通りに食いしん坊だ。常に腹を空かせている。
「黒板消しに油が着いている。そして君は口周りの油をふき取りなさい。それと弁当を今食べるんじゃない。そしてアニー。君の自慢の栗色髪はいつカラフルになったんだい?」
指摘を受けたアニーは目を見開いて自分の長い髪を払う。ほんのわずかだが、彼女の髪の毛にはチョークの粉が着いていた。
「もう、だから私は嫌だったのよ!」
アニーはお洒落に気を使う子で、自慢の髪も洋服も毎朝入念に準備しているらしい。それでもこういうイタズラには参加するぐらいのお転婆でもある。
フランクリンとアニーは揃って立ち上がり、しぶしぶと片付けに入ろうとした。
「失礼、ブレイク先生――」
それは、まさしく不運だった。
今まさにフランクリンとアニーが黒板消しを片付けようとした瞬間、それと同じくして、後ろ側のドアを引いて、一人の女性教諭が教室を訪ねてきた。
彼女はステファニー・ジョエル。隣の教室を担当している二十五歳の新人だった。すらりとしたスタイルで、ブロンドの髪が美しい、あえて安直な言葉で表すなら、プリンセスのような人だった。
だが、そんな美しく若い先生は頭上から落ちてきた黒板消しを避ける事が出来ずに、一瞬にして粉塗れになってしまった。質の良いスーツもそれで台無しだった。
「あ、ステファニー先生……」
ブレイクはさぁっと空気が冷えていくのがわかった。生徒たちも唖然として、ステファニーを見つめている。彼女の近くにいたフランクリンとアニーはおずおずと黒板消しだけを拾って後ろへと下がった。
「……!」
ステファニーは顔を真っ赤にして、脱兎のごとくその場から走り去っていった。ブレイクは後を追いかけようとするが、もうステファニーの姿は見えなくなってしまった。そうこうしていると、チャイムがなってしまう。
「不味いな、こりゃ……」
ブレイクは茫然とした。ひとまず教室へと戻ると、生徒たちがみな不安そうな顔をしていた。
「だから私はやめなさいって言ったのよ!」
突如としてキンキンとよく通る甲高い悲鳴があがった。机を叩き、立ち上がるのは、クラス委員長のメリッサだった。
真面目な少女という表現以外思い浮かばないメリッサはキッと鋭い目線をクラスメイト達に向けた。
「私は何度もやめてって言ったのに、みんなは!」
「ちょっとメリッサ。その言い方は卑怯よ。まるで自分は悪くないって言ってるみたいじゃない!」
メリッサに対抗するのは長身でショートヘアの女の子ルアンだ。スポーツが好きな子で、物事ははっきりと言うタイプなのだが、それがどうにもメリッサとは正面衝突を起こすきらいがあるらしい。
「私は止めたもの!」
「でも、こうなってしまったわ。あなただって、ちょっとは期待してたんでしょう? いいじゃない。勉強大好きなあなたにしてみれば、社会見学よりも補修の方が嬉しいんだから」
「なんですって!」
「おいおいおい、やめなよ。どっちも責任のなすりつけ合いじゃないか。こういう時は全員で謝るってのがまるく収まる方法じゃないか。ほら、委員長、そういう取り決めをしたのは君だろう?」
取っ組み合いに発展しそうな少女二人をいさめるのは黒人の少年ビックスだ。普段はお調子者な彼だが、どこか一歩引いた立場で仲間たちを見ているような子だった。
彼が真っ先にいさめに行ったのはメリッサの方である。実際、ルアンはスポーツをやっている分、熱くなってもいくらか冷静さを保てるのだが、メリッサは頭でっかちなので、下手をすればものを投げる。そういう意味ではビックスの判断は実に理にかなっていた。
「あぁ、ビックスの言う通りだ。お前たち、ステファニー先生に謝るんだ。今は空自習とするが、遊ぶな。いいな?」
意見をまとめるようにブレイクが全員を見渡しながら言うと、生徒たちは「はい」と返事をする。
「メリッサ。君は委員長だ。今からどうすれステファニー先生にきちんと謝れるかを考える時間とする。君が進行しろ。君は、イタズラを止めたと言ったが、実際はそうはなっていない。それは事実だ。でもそれは過ぎたことだ。取り返せない失敗じゃない。いいね?」
「はい……」
メリッサは少しうなだれていたが、返事はしっかりしていた。
「ルアン、君もメリッサを手助けするんだ。二人で喧嘩をするんじゃないぞ」
「はぁい」
ルアンはさばさばとしているので、このあたりは折り目切り目が付けれる。さっきまで喧嘩していたメリッサとだってうまくやれるだろう。それにビックスの調子の良さは潤滑剤にもなる。彼が場の空気を和ませている限りは、また喧嘩になることもないはずだ。
ブレイクは後の事を二人に任せて、ステファニーの後を追うべく教室から出ていった。
(あの子は怒ると後を引くんだよなぁ……)
気性が荒いわけじゃないが、ステファニーはなんというべきか、余裕のない子だった。新人というのもあるし、かなり気負っている。それなりに良い大学を出ている自負もあるのだろう。結果を出さなければならないという思い込みもあるに違いない。新人の教師にはよくあることだ。
そんな彼女にしてみれば、まさか学校で粉塗れになるなどとはおもっても見ない事に違いない。むしろ、そんなことをする子どもはモンスターに見えただろう。
真面目過ぎるのだ。
(全く、悪ガキどもめ。明日の社会見学の最終説明もしなきゃいけないってのに……罰も考えないとなぁ……でも、参加させないってのはまずいしなぁ)
あれこれと考える事、やる事が多い。ブレイクは溜息交じりに廊下を進んでいった。
(まずは、ステファニー先生を探さないとなぁ……はぁ、怒ってるだろうな)
まずはどうやって彼女に声をかければいいのか、それを考えなければいけなかった。
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