36話 制止


 ようやく午前の授業も終わり、深い溜息を付いた。


 授業の内容がまるで頭に入って来ない。自分の中で大きくなりすぎてしまった真っ黒な憎悪が蛇の様に這いずり回る。蛍光院栞への憎悪が。ここまでの授業でキチンと平静を保っていられたかは、正直あまり自信が無い。




 朝に校舎前の掲示板に張り付けておいた新聞部発行の校内新聞。


 あれの効果はそれなりに上々のようで。校内は今まさにその噂で持ち切りになっている。高等部のみならず、中等部にも話は及んでいるらしい。




 結局、時間が無い関係で急造した例の新聞を掲示板に貼り付けた訳だが、教師に早々に撤去されてしまった結果。根も葉もない噂までもが、あたかも本当の出来事の様に扱われているのには自然と笑みが隠し切れない。






「ゆいー、食堂いこー」






 いつもの様に、心愛ここあがすぐそこまで来ていた。いつもなら、此方に近づいて来る彼女の気配に気が付く筈なのだが、今日はそれすらも気に出来ない程に私は冷静では無いらしい。


 あまり好ましくない状態だ。怒りに我を忘れてはいけない。冷静にならないと。分かっていても、自分を抑える事が出来ない。自分の中を侵食していく感情に、逆らう事が出来ないまま勝手に体が動き出していく。






「ごめんね心愛。今日はちょっと用事があるの」




 心愛は此方を怪訝な様子で見つめてくる。




「どしたの? なんかめっちゃ怖い顔してるけど」




「別になんでもないよ」




 多分笑顔を返せている筈だが、これもまた少し自信が無い。








 5階。一年生フロア。


 北側、一番隅にポツンとある女子トイレ。教室が並ぶ場所から少し離れている所為か、生徒達はめんどくささに襲われてここまで歩いて来る事は限りなく少ない。




 その使用率の低さ故か、電気すら点けられていない。太陽の光もあまり届かない。薄暗い雰囲気。




 そこに小さく響く女の子のすすり泣く声。


 トイレだと言うのに見栄も外聞も放り捨てて地面にペタンと座り込みながら恐怖に彩られた瞳をゆらゆらと揺らしている。






「あ、圷さん……。も、もうこんな事辞めようよ……」






 新聞部部長、3年生の広瀬春ひろせはる


 外見もそれなりに良く、この学院でもそれなりの人気を持つ生徒。新聞部という枠の中では、部長という役職も含めて強い影響力を持つ人物。




 そんな生徒が二つも年下の一年生を前に涙を流しながら、へたり込んで懇願をするなど、この光景を他の生徒達が目にしたら酷く驚く事だろう。




 それでも私は、そんな状況にも関わらず広瀬春ひろせはるとの距離を一歩詰める。その一歩が彼女にとっては余程恐ろしいものだったのか、体をビクリと震わせた。






「……は? 今更何言ってんの……? あんた私にそんな事言える立場だっけ?」






 その言葉を聞いて広瀬春ひろせはるは、もう何度目か分からない絶望の色をその瞳に滲ませる。






「お願い……します……。これ以上やったら、新聞部はお終いだよ……」




「そんなの知った事じゃない。ていうか、まだ新聞部の心配なんてしてる余裕あったんだ?」




「ち、違う! 勿論、私もだよ! これ以上、蛍光院さんに楯突くような真似したら私どんな事されるか……」




 それを聞いて口元が緩む。私は地面に座り込む彼女の視線に自分の視線を合わせる様に、しゃがみ込む。


 彼女が安心出来るように優しい笑みを作り出した。




「大丈夫だよ。広瀬先輩も蛍光院先輩の事、気に入らないって言ってたじゃん。」




「――それは! 確かにそう言ったけど! まさかここまでやるなんて思っても見なかったよ! 栞さんはこの学校の理事も兼ねてるんだよ!? こんな事したら、退学にされても可笑しくないよ!」




 広瀬春の顔は真剣そのものだ。




「うん知ってるよ? だから私、最初に言ったよね? 一緒に蛍光院栞を倒そうって。」




 その一言に広瀬春はハッとした様な顔を見せた。




 そもそもこの女に近づいたのは新聞部の部長だからだ。


 最初は蛍光院栞への不満に共感しつつ、近づくのは簡単だった。いつもの様に作り笑いを浮かべて、共感を強調すれば仲間だと認識したのか、すぐに馴れ馴れしい態度に変わる。


 私が、彼女の弱みを既に握っているとも知らずに。




 今回、いきなり脅しから入らなかった理由は到って簡単。


 実際、私は彼女にアドバイスをしているだけに過ぎない。こうした方がいいよ。こうしなよ。こうやれば効果的だね。




 弱みをチラつかせて逃げられなくしてやれば、気が付けば自分が今朝どんな大胆な事を仕出かしたのかと、ようやく血相を変え始めた。




 自分がようやく崖の淵に立っている事に気が付くなんて、なんて間抜けな女。それでもここで逃がしてなんてあげる訳ない。


 私は何度でも「大丈夫」という言葉を使う。






「大丈夫だよ。今ここで辞めたらそれこそ相手の思う壺になるよ? 新聞部はおろか、広瀬さんがこの学校から追放されちゃう。……いいの?」






 私の言葉に過剰に反応する彼女。身体を小刻みに振るわせている所を見るに、未来の自分の姿が脳内に浮かんだ様だ。






「そ、そんな……。ど、どうすれば……。」




「大丈夫。次はあの校内新聞を何百部と刷って一気に広めるの。相手に時間を与えちゃいけないよ。明日までに用意できる?」




「明日!? そんな急には無理だよ!」






 その言葉聞いて、途端に冷たい声と目線を送る。


 私は立ち上がってこのトイレから立ち去る仕草だけを見せた。






「そう。じゃあもうお終いだね。」




「ま、待ってよ! 見捨てないでッ! 分かった! 分かったから! 明日までに用意するから!」




「良かった。じゃあ……明日までにお願いね?」






 私の笑顔に対して何の返事も返さないまま、急遽時間に追われる羽目になった広瀬春は咄嗟にポケットからスマートフォンを取り出して、忙しなく操作しながらこの薄暗い女子トイレを後にした。




 残された私はポツンと一人佇む。


 静かなこの場所で一つの大きな溜息を付く。




 これは戦争だ。勿論、進んでいる計画はいくつかある。新聞部に限った話では無い。生徒会の役員達にも、一通りの脅しは済んでいる。こんなに早く蛍光院栞との正面衝突が訪れるとは思っても見なかったけれど。


 今まで地道に裏で動いて来たおかげか、その効果はそれなりに出ている。しかしまだ足りない。私の怒りはこんな物じゃない。この程度では今回の贖罪には到底足りていない。もっともっと苦しめて、後悔させなければいけない。






 ふと背後から複数の足音。数人の気配。




「唯。あんたちょっとやり過ぎだよ。」






 振り向けば、そこには結城向日葵とその眷属たちが女子トイレに入って来ていた。


 久々に見る向日葵の顔。いつもならそれだけで苛立ちが湧き上がるのに、今日に限っては微塵の興味も湧かない。






「なんだ。向日葵か……。」






 向日葵は後ろの取り巻き達に目配せをしながら声を放つ。






「あんた達は外を見張っといて。」




「わかった」


「はーい」


「了解」


「ほどほどにね」




 その指示を聞いて、各々返事をしながら当たり前の様にここから離れていく。




 流石は2年のトップである向日葵の眷属と言ったところか。この状況にも臆する事無く淡々とした態度と雰囲気。日々、向日葵に振り回されているだけの事はある。




 向日葵が現2年生の中で長い間、頂点に君臨していられるのも一概にあの4人の眷属の力が大きい。一人一人が大きな力を持っているのにも関わらず、向日葵に対して実に忠実。存外に団結力も強い。


 それ故に、蛍光院栞に匹敵するほどの存在にまで登り詰めた。




 逆を言えば、蛍光院栞という人物はたった一人でそれらに匹敵する人物。明らかな規格外。蛍光院学院の化け物。




 学院3大美女とはそういう存在。夢乃白亜ゆめのはくあは芸能人だから選ばれただけに過ぎない。実際、蛍光院学院の内情は結城向日葵と蛍光院栞のツートップ。




 そのどちらの傘下に入るかで皆、割れていた訳だが。


 今回の騒動でその均衡も偏る事だろう。今後は、向日葵に大きな力が集まる恐れがある。


 今の内に潰しておくのが正解なのかも知れないが、私の頭は今、蛍光院栞の事で一杯。それ以上気にする余裕も無い。




 あの放送室の出来事。


 あの放送室の中で向日葵が涼に告白しだして、私がキレそうになった所で教師がドタバタと放送室に押し入って来た。




 あの出来事以来、向日葵は余裕そうに朝の出迎えも、弁当を作って来る事もしなくなった。


 結局あれから向日葵とは一言も交わさないまま今に至っている。




 その癖に、今更私に近づいて来るとは何の狙いがあるのか。




「涼にフラれた哀れな向日葵が今更何の用?」




 見慣れた向日葵の鋭い目付きに、興味の薄い目付きを返した。




「別にフラれてねーよ。」




「は? 好きって言ったのに付き合ってない時点でフラれたのと一緒でしょ?」




「んなことお前には関係ねーよ。そんな事より、もうこれ以上こんな事はやめとけよ。」




 短気のくせに、嫌味を言っても向日葵の雰囲気には苛ついている様子は見えない。




「いきなりなんなの? それこそ向日葵には関係ない。」




「唯あんた、いつもはこんなあからさまに表立って行動してないでしょ? こんなん続けてたらすぐに見つかって退学になるよ。」




「だったら何……。」




「唯が退学になったら涼ちゃんが悲しむ。」






 その一言を理解するのに少し時間が掛かった。


 しかし、その意味を理解すると同時に、今まで向日葵に対してどうでもいいと感じていた感情が一変して、自分の中に強い苛立ちを感じる。


 手と目元に自然と力が入る。わなわなと震えるのが抑えられない。






「……向日葵、調子に乗んなよ。一回キスしたくらいで、もう涼の彼女面してんの……? 妹の心配もしてやろうって?」




「別にそんなんじゃねーよ。ただ、涼ちゃんに今回の事聞いた。」




「だったら分かるでしょ? 涼は蛍光院栞に階段から突き落とされたんだよ!」




「涼ちゃんは違うって言ってた。」




「本当は突き落とされたんだよ! そんな見え見えの嘘に引っかかってんじゃねーよ!」




 向日葵の表情は正に無色透明。こんな事実を聞いたら一番にキレだしそうなものだ。しかしそんな向日葵が不気味なくらいに冷静そのもの。




「私は涼ちゃんを信じるよ。」




「あたしは蛍光院栞本人から直接聞いたんだよ。それは涼のいつものお人好に決まってんでしょ。」




「かも知れない。」




 一つの考えが頭に過る。


 蛍光院栞に対抗するのに、向日葵を利用出来ればこれ以上無い戦力になり得る。こいつの涼への気持ちを利用すればいい。そしてそれと同時に、その行為を学院中に広めれば、ウサギが2匹手に入る。




「ねえ向日葵。一緒にあの生徒会長を倒そうよ……。今は一時休戦しよ……?」




 そんな言葉を聞いて向日葵は初めての苛立ちを見せた。鋭い目付きを一層鋭く尖らせる。眉間にしわを寄せている。




「……は? 寝言は寝てからにしとけよ。私が唯と組む訳ねーだろ。」




「そう。じゃあ向日葵は許せんの?」




「許すとか許さないとか関係ねーよ。ただそれでも……私は涼ちゃんを信じる。」




 その言葉を聞いて、一瞬で頭に血が昇る。


 その態度が気に食わない。涼の事を分かっているかのような口ぶり。何かを悟ったかのような雰囲気も。


 道を塞いでいる向日葵を突き飛ばした。突き飛ばされた彼女は肩を壁にぶつけながらも此方を睨んでいる。




「じゃあもう話しかけてくんな。私は私のやりたいようにやる。」




 その言葉を最後に薄暗い女子トイレから出た。




「――唯!」




 そんな向日葵の制止を促す声が背後から聞こえるが止まる訳も無い。


 女子トイレの外には向日葵の眷属達が道を塞いでいる。それらを強く睨み付ければ、訳も分からないまま彼女達は道を開けた。




 私は次の標的に向かって歩き出す。

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