22話 背中


 息が荒い。心臓が飛び出しそうだ。

 気が付けば学校から全力疾走を続けて、向日葵の自宅は目と鼻の先。時間はあるのだから、何も走る事無かったんじゃないかと、今さらな感覚が押し寄せて来た。


 両手には何も持っていない。自分自身を急かしたあまり、鞄ごと学校に忘れて来た事に深い溜息を付いた。

 俺も人の事は言えないな、と心底思う。口元に軽く笑みが零れる。


 ここは向日葵の住む街と共に、俺が住んでいる街でもある。幼い頃から二人の思い出がそこらじゅうに転がっている。今思えば、沢山の事があった。


 足を止めれば、見慣れた階段と扉。見慣れた駐車場。車は止まっていない。彼女の両親は不在。

 表札には【結城ゆうき】とだけ書かれている。これもまた見慣れている。

 一目見て大きい。一言で言えば豪邸。結城家の玄関は二階にあり、俺は迷うことなく表の階段を登って行く。


 ここまで来て、ようやっと俺の心臓と脈拍は冷静さを取り戻してくれた様で、息苦しさからの解放感に安堵した。先程まで何を話そうかなんて、下らない事を考えていた俺の心境も、今は驚くほど落ち着いている。


 ここまで来るのに、今まで何百、いや何千と共に通って来た通学路を見て、そんな事は吹き飛んでしまった。それと共に栞先輩のおかげか、この通学路のおかげか、ここ数日悩んでいた向日葵ひまわりとの関係についての不安も同時に消えていた。



 俺は当たり前の様に、チラシが溜まったポストの中に隠されている鍵を拾い上げる。



 今思えば、何故ウジウジと悩んでいたのか不思議だ。俺と向日葵ひまわりの関係が終わるなんてあり得ない事を。


 何故なら、俺たちは幼馴染なんだから。


 そんな当たり前の事を考えながら、当たり前の様に鍵を回す。

 勿論、勝手に家に侵入している訳では無い。俺は向日葵の両親から常に了承を得ている。

 今の向日葵はもしかしたら怒り出すかも知れない。だが、そんな事は知ったことでは無い。俺は向日葵の両親から向日葵の事を任されている。故に、正当。向日葵が学校をサボった時点で、正義は我にある。

 今の俺は向日葵本人ですら止める事は叶わない。


 俺は軽い笑みを浮かべたままドアを開いた。



 家の中には電気すらついていない。日の光のおかげか真っ暗という訳じゃないが大分暗い。生活音もまるで聞こえて来なかった。


「お邪魔しまーす。」


 申し訳程度に一人挨拶をしながら、俺は迷うことなく3階にある向日葵の部屋に向かう。


 ドアには、可愛らしい小さな表札が掛かっており、「ひまわり」と記されている。ここに来るのは中等部以来、実に1年以上ぶりになる。


 俺は意を決してノックを2回した後、ドアをゆっくりと開いた。

 部屋の中は防光カーテンの所為か真っ暗に近い。それでも部屋の中に進んで行く。今開いたドアから差し込む光でうっすらと部屋の中か照らされる。

 中央に置かれた大きなベッドに人影が見える。どうやら布団を頭からコートの様にかぶっているようだ。表情は読み取れない。



「向日葵……? 」


 長い沈黙を置いてようやく向日葵は言葉を発する。


「……なにしに来たの……?」


 俺は暗闇の中で人影に近づき、彼女に背を向ける様にベッドに腰を掛ける。


「話に来た。」


「……は……? 今更なにを話すの……?」


 向日葵の声は、低く暗い。ここ最近はずっと聞いて無かった聞き覚えのある声と雰囲気だ。どうやら今日の彼女は昔の彼女らしい。


「なんであんな事したんだ……?」


「……別に。ムカついたからやった。それだけ。」


「そんな事ないだろ? 何か理由があるんじゃないか?」


「は……? 私と唯ゆいが仲悪いの知ってんでしょ?」


 勿論知ってる。ここ数年、挨拶すら交わさなければ嫌でも気が付いてしまう。


「まあな。でもそれだけじゃないだろ?」


「……うるせーな。しつけーよ……。」


 彼女の声に怒気と苛立ちの色が入り混じる。

 それでも俺は図々しく彼女に言及する。


「いいから。言えって。」


「なんもねーよ! うるさい!」


 ガンっ

 途端に背中を蹴られる。痛い。

 どうやら言いたくない事があるらしい。

 久々の向日葵のこの性格に少し笑みが零れる。昔からこうだ。都合が悪くなると怒りだす。


「怒んなよ。ふふっ。あ、ごめん。」



 懐かしさに自然と笑みが止まらない。

 あの頃は蹴りも痛かったが、成長した今では昔程辛くは無い。それほどまでにお互いが成長してしまった事に少しだけ寂しさを感じた。



「は……? なに笑ってんの……?」


「いや、向日葵、実は変わってなかったんだなーって思ってさ。」


「うざ……。ならもう分かったでしょ……? 私はこういう人間だよ。」


「そっか……。」


 それから向日葵は何も言わない。俺も特に言葉を発する事無く、ただ時間が過ぎて行く。

 暗闇の中で無言の二人。


「ねえ……なんでまだいんの……?」


 沈黙に耐えかねたのか、向日葵がボソリと呟いた。


「え? なんで?」


「私と話すのやめるんでしょ……? 絶交すんでしょ?」


「誰がそんな事言ったんだ?」


「唯ゆい。」



 俺は深い溜息を付いた。唯の奴、また勝手にそんな事を言ったのか。

 この前、相当真剣に俺の心配をしていた事から、また暴走したんだろう。俺は彼女を諭す様に言葉を発する。



「それは俺の言葉じゃない。」


「もし……もしそうだとしても! 私が昔から変わってないって分かったんだから、早く帰ってよ!」


「帰らないよ。」


「っ! 帰れっつってんの!」


 ガンっ!

 再度背中に振動が響く。


「いてーよ。帰らねーって。」


「なんで!?」


 向日葵は大声を張り上げる。静かなこの部屋に大きな声が広がり反響する。突然の大声に少し鼓膜が震えた。


「……約束したから。」


「――――っ!」


 途端に声にならない声を上げる向日葵。


「な…んで……? もう覚えてないんじゃなかったの……?」


「忘れる訳無いよ。”向日葵ひまわりがみんなに嫌われても俺はずっと隣にいる”だろ?」



 そろそろ目も慣れて来た。俺は振り返り、向日葵に笑顔を向ける。気が付けば、被っていた布団から頭だけは出てきている。うっすらと、この暗闇の中で彼女の驚いた表情が見えた。


 向日葵はその言葉を聞いた途端に溢れるほどの涙を流し、肩まで被っていた布団をスルリと落とす。


 気が付けば、俺の胸に飛び込んで大声で泣きだした。



「うあ"あ"ああぁぁぁぁぁぁーーーーー!」



 向日葵が昔から泣き虫なのを、俺以外に知っている者は限りなく少ない。いつも辛い事があればこうして俺のところで子供の様に泣く姿は、昔から変わらない。

 俺は昔していた様に、優しく彼女の頭を撫でる。


 一体どこから絶交なんて言葉が出て来たのか分からないが、そもそも俺と向日葵が絶交なんてあり得ない。俺と向日葵がここまで仲が良い事は誰も知らないのだから。


 向日葵が急に性格を変え始めたのは約束を交わした頃。中等部に上がる少し前だ。仲が良くなったのは初等部に入りはじめの頃か、もっと前だったかも知れない。俺にとっては、この向日葵の方との付き合いの方が長い。


 少しの間を置いて、十分に泣き止んだのか。向日葵は顔を背けながら、いそいそと俺の傍から離れていく。



「もういいのか?」


「うん。」



 暗闇では、はっきりとは見えないが、鼻を啜る向日葵の顔は少し照れている様に見える。それもその筈、昔はよくこうして泣く事は多かったが、成長してからは酷く久しい。

 俺は再度体を向き直し、向日葵に背を向けた。途端に背に重みを感じる。向日葵は俺の背中に寄りかかる様にして背中を預けて来ている様だ。

 昔からこの行為も変わらない。子供同士でやっていた遊び。彼女が嫌がらせの様に体重を掛けても、今はもうあの頃の様な重みは無い。



「それとこの前は怒鳴ってごめん。ついカッとなった……。」


 真剣な声を放った。


「ううん。別に気にしてない。只、私は最低なままだし。嫌われてもしょうがないって思った。」


「俺は向日葵の事を嫌いにはならないよ。今までもそうだったし、これからもそれは変わらない。只、家族を傷つけられたら俺も怒る。」


「……うん。知ってる。ごめん。」


 その言葉を聞いて再度、俺の口元には今日何度目かの笑みが零れた。


「はは。やっぱり向日葵は変わったよ。昔なら、ごめんなんて絶対言わなかった。」


「う、うっせーよ……!」


 その声には言葉ほどの棘は無い。


「なあ向日葵。学校休むなよ? 向日葵の両親に怒られるのは俺だ。」


「あんな親どうでもいい……。」


「よくねーよ。俺はお世話になってるし、向日葵の事を一生任せるとも言われてる。」


「は!? まだそんな事覚えてんの!?」


「忘れる訳ないよ。」


「あ”ー! パパとママも何て余計な事を……。」



 なにも昔と変わらない。こういう軽口も背中に伝わる熱も。今後向日葵がどう変化していっても、お互いどう成長しても、これからも俺と向日葵は続いて行く。



「じゃあ俺はもう帰るよ。用も済んだし。」


「ねえ涼ちゃん。最後に一つ聞いていい?」


「ん?」


「昔の私と最近の私、どっちが好きだった……?」



 気が付けば向日葵の声は心無しか、柔らかい物になっている。それでも、空が少し暗くなってしまう程話しても口の悪さに変化は無い。今の彼女はどっちの彼女なんだろう。


 俺は立ち上がりながら、暗闇の中ドアに向かって歩き出した。



「んー。どっちもかな。」


「あっそ。……ばーか。」



 振り向けば、未だにうっすらとしか彼女の姿は見えない。それでも向日葵の表情なんて簡単に想像が付く。


 俺と向日葵は幼馴染なんだから。

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