20話 理由
「ひ、
自己不信に陥りそうな光景が自分の視界に飛び込んだ。
見慣れた幼馴染の後ろ姿。足元には誰か倒れている。
いつもの可憐な雰囲気とは打って変わって攻撃的な態度。まるで別人の様。今の今まで地面に居る誰かを蹴り続けていたその足は、俺の声と共に止められた。
ビクリと肩を一瞬震わせた向日葵は、未だにこちらを向かない。
それでも俺の意識は別の方へと向いていた。
向日葵の足元に倒れているのが誰なのか。その一点に。
重なる人影。今はまだ見えないその奥に誰がいるのか。ふと脳内に嫌な予感が強く響く。水道がひたすら流れる音が思考を邪魔した。
意を決して、一歩だけ前に進む。
そこから一瞬だけ見え隠れした見慣れた家族の弱弱しい表情。
「
身体が途端に無意識で跳ねる様に反応した。瞬時に倒れている妹の元に駆け寄り、弱弱しく倒れている彼女の上体を抱える。
「涼……。」
意識はあるようだが今にも失ってしまいそうな程、朧おぼろげ。服は水浸しでボロボロ。濡れている所為か、汚れが一層それらを酷く表す。
「唯!唯! 大丈夫か!?」
彼女は優しく俺の頬に手を翳かざした。口元には、少しだけ微笑が彩られている。その行為と表情が一層彼女の現状を酷いものに見せる。
「ごめんね……。授業始まっちゃったね……。」
「そんな事どうでもいいから……。すぐ保健室に連れて行く。」
唯の背中と両足を抱え体を持ち上げる。細身な所為か、酷く軽い。
途端に唯は頬を少し赤く染めた。
「りょ、涼。恥ずかしいよ……。」
「今、授業中だから。誰も居ないから。」
その言葉に唯の俺の首に回す腕に少し力が入る。
今は一刻も早く唯を保健室に連れて行く事を優先したい。その他の事は全て後回し。俺は唯を抱えながら女子トイレを後にしようと歩きだした。
今まで俺が此処に来てから一言も発しようとしなかった彼女・・が、ポツリと聞こえるか聞こえないか程度の声で俺の足を止める。
「涼ちゃん……。」
唯を抱える俺は向日葵の横を通り過ぎた辺りで、仕方なく足を止めた。
「なんだ……?」
「ち、違うんだよ……これは……違うの……。」
「なにが?」
きっと今の俺の言葉には棘がある。
「あ、あのね……! 私ホントはこんな事するつもりじゃ……!」
「こんな事ってどんなことだよ……。」
「そ、それは……。で、でも! 信じて涼ちゃん! 私は……」
「今は!」
俺は自分でも驚く程大きな声で向日葵の言葉を遮っていた。
「今は、聞きたくない……。」
今、向日葵がどんな表情をしているかなんて簡単に想像出来る。彼女はそれは酷く落ち込んでいる事だろう。まるで小動物の様に。
それでも今はここで向日葵の話を聞く気にはなれない。何よりも唯をこのままにはしておけない。
俺は足早に、それでも唯に負担を掛けまいと、振動を最小限に抑えながら女子トイレを後にした。
―――――
気が付けば空も暗い。時間というものは誠に不思議な物でいつでも変わりなく過ぎ行く。リビングに興味も無いバラエティ番組の音が鳴り響いている。ソファに肩肘を付きながらテレビから目線を逸らし唯に向けた。
あんなに大変な事があったのにも関わらず、圷あくつ家は普段通り。今日も無理はさせられまいと、料理はしなくていいと言ったのに「出前は不味い」と一蹴した唯ゆいが腕を振るった。
当の唯、本人は体中に包帯を巻いており何とも無残な姿になってはいるが、保健室の先生の診断では軽い打撲が幾つかあると言う事で数日もすれば痛みも引くだろうとの事。
今は俺の隣でいつもの様にテレビに噛り付いている。相変わらず俺の心配性も健在で、こうして妹の横から離れないのを唯も嫌な顔せず黙認してくれているのはありがたい。が、しかしテレビを見ている間、ずっと俺の服の裾を掴んでいるのは何故だろうか。妹なりの「今日はありがとう」という意味が含まれているのかも知れない。
CMに美味しそうな麻婆豆腐が画面に表示される。
「涼、明日は麻婆豆腐にしよっか?」
楽し気な表情をしている所を見れば、ご機嫌もそれなりに悪くないらしい。
「任せるよ。」
「麻婆豆腐好きでしょ?」
「まあ、まあまあ好きだけど。」
「じゃあ、明日は麻婆豆腐。」
妹の可愛らしい笑顔に笑顔を返した。
こんな他愛の無い会話。ふと、なぜ今日あんな事があったのかと頭をよぎる。向日葵の今日の態度。正直その現場を見た時には驚いたが、今思えば、昔の向日葵そのままだった様に思う。
幼い頃の傍若無人そのままだった頃の彼女に。何が向日葵をそうさせたのか、もしくは、本当はあの頃から変わっていなかったのか。
「なあ、唯。」
「ん?」
「なんで今日向日葵はあんなことをしたんだ?」
「なんでそんな事聞くの?」
唯はこちらを真っ直ぐ見つめてくる。
「向日葵があんなに怒る事って少ないだろ?」
「向日葵ちゃんは昔から、ああだったよ。」
確かに昔から、ああだった。今日の事はそれらに比べてまだ軽い方。
「勿論知ってるよ。昔はそうだった、でも最近は違っただろ?」
「きっと違くなかったんだよ。今日だって、時計の事謝ったら突然怒り出して……」
唯は不機嫌そうな表情を浮かべる。
勿論、唯の言い分は真っ当なものだ。向日葵の過去を知ってる人が今日の様な事をされれば誰だってそう思う。
蛍光院学院が小中高一貫校故に、向日葵の過去を深く覚えている者は少なくない。そのせいで沢山の陰口を叩かれて来たのも事実。皆、口を揃えて言う「向日葵ちゃんは、昔は」と。
何か小さな問題でも起こせば、すぐに昔の話を持ち出され責められる。それが向日葵に対する周囲の裏の評価。向日葵の立ち位置。
確かにそれだけの事をしてきたし、そう思わせるだけの出来事が沢山あった。
今日の向日葵の様に、つい恐怖してしまいそうになる目付きと攻撃的な態度。口調は相手を罵るためだけにしているのかと思ってしまう程に汚い。
昔の向日葵そのままだった。そんな過去を持つ彼女に対してこの反応は何も可笑しくない。
でも俺の中での向日葵はそれらとは少しだけ違う。長い間近くで見て来たからこそ知っている事もある。彼女はそんな状況の中で今の地位を得た。そこには人知れず努力していた姿が確かにそこにはあった。
例え、日頃の向日葵が嘘偽りであったとしても、変わろうとしていた事は事実だ。
確かに彼女は変化を求めていた。
俺は唯の目を真っ直ぐ見据える。
「俺はそうは思わないよ。今日の事だってきっと何か理由があると思う。」
「涼。もう向日葵と話しちゃダメだよ。昔、沢山酷い事されたの忘れた訳じゃないでしょ……? 私、涼が傷つくとこもう見たくない。」
唯は真剣な目付きで此方に問いかけてくる。
「ありがとう唯。でも俺、向日葵と話して来るよ。」
「――……涼!」
途端に大きな声を上げる唯。それほどまでに心配してくれているのは、家族故か。そんな妹を見て口元が少し微笑んでしまう。
「大丈夫だよ。別に唯が心配するような事は何もないから。」
その言葉と共に唯の頭を軽く撫でた。抵抗はしないが、不満そうな顔は未だに直りそうも無さそうだ。
少しの眠気を感じて、俺はそのまま2階の自室に向かった。
―――――
バタン。
ドアが締められる効果音が一人残されたリビングで響いた。詰まらないバラエティ番組は気が付けば次の番組に移行していた。
時計を見れば、既に11時を回っている。
今日は涼も、もう寝てしまうだろう。もうリビングにいる必要が無くなったってしまった事に溜息を付いた。
先程の兄を慕う健気な妹の顔はそこにはもう無い。
ポケットからスマートフォンを取り出し、画面に写った色の無い無表情が白い髪をより際立たせて不気味さを醸し出していた。
連絡先の欄から、結城向日葵ゆうきひまわりを表示させ、そのまま電話を発信。
長いコールの後にようやく電話が応答される。
「……。」
彼女は何も言わない。
「もしもし向日葵?」
「……。」
スピーカーの向こうからは何も聞こえない。だんまりを決め込む向日葵を挑発する様に指先でコツコツと音を鳴らした。
「もしもーし?」
長い静寂の後にポツリと声が聞こえる。
「……なに……?」
「居るんなら返事してよ。」
「……なんの用?」
その声にはいつもの覇気は全く感じられない。
「いや、あれからどうしてるかなーって思ってさ。」
「……あんたはこれで満足なんでしょ?」
「ううん、まだ。あのね向日葵、さっき涼とゆっくり話したよ。もう向日葵とは話さない様にきつく言っておいたから。涼も納得してた。」
「――……っ!」
途端に声にならない声を電話の向こうで感じた。
「だからね、明日からもう学校に来ないで欲しいの。もう涼と絶交するんだし、別にいいでしょ? 向日葵には他に学校に来る理由なんて、なんにも無いんだから。」
「……。」
電話の向こうから沈黙以外の何も聞こえてこない。一瞬画面に目をやれば、未だに通話中。電波は良好。雑音すら聞こえて来ないクリアさに笑みが零れた。
「話はそれだけだよ。じゃあね向日葵。バイバイ。」
決まって私達はいつも、別れの挨拶しかしない。
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