14話 齟齬
深い溜息の後、これが人生で何度目の溜息であろうかなんて途方も無い事を考えながら、また溜息を付く。この不毛なイタチごっこの原因は、今日行われるであろう鬼の生徒会長様が待つ生徒会会議でも、唯ゆいの唐突に髪を奇抜な色に変えた事についてでも無い。
勿論、相も変わらず素っ気無い態度を取る妹や、怒り心頭の生徒会長様も十分に今後懸念の対象なのには変わりがない。
しかし、今現在付いた深い溜息はそれら以外の、もうじき迫りくるであろう一学期中間試験に向けたものだ。
一般的な学生ならば、将来を据えて勉学に励むのかもしれないが、俺の場合は我が家特有の完全テスト点数制のお小遣い制度の為に他ならない。もしここで赤点など取ろうものなら絶望が待ち受けている事は明白。都合の良い数学の様にマイナスとマイナスを掛けてもプラスにはなってくれない。
向日葵ひまわりのおかげで今日のところは栞しおり先輩に喝を入れられずに済んだものの、これから連日みんなの向日葵ちゃんに起こして貰うのも気が引ける。早いうちに新しい目覚まし時計を購入しなければ。
俺のこの昼休み中、止まりそうも無い溜息を眺めている雄介ゆうすけが釣られた様に溜息を付いた。
「俺はお前に溜息だよ。」
「は? なんで?」
「学院3大美女であるところの、結城ゆうきに起こして貰い、テスト期間中は蛍光院けいこういん先輩の個人レッスン。もしかして、夢乃白亜ゆめのはくあとも何かあるんじゃないだろうな?」
「杞憂だな。俺はテレビに興味は無い。」
今、雄介が言った通りテスト期間中には、栞しおり先輩に面倒を見て貰っている。勿論、俺が栞先輩に近づいて「勉強教えて下さい」なんて言う筈も無く、睨むライオンと草食動物の関係性に近い。強制的に赤点を取る事を固く禁じられている。
この誉れ高い蛍光院学院けいこういんがくいんの生徒会副会長が赤点など取ろうものなら折檻どころじゃ済まない。最悪、去勢もあり得る。
そもそも、自分の意志でこの地位に就いた訳では無いと言うのにこの仕打ち。理不尽此処に極まれり。
そうは言っても、全国模試で日本トップレベルの数字を叩き出す栞先輩の個人授業はまるで目から鱗が落ちる程貴重であり、高等部に入ってから俺の高校成績と共にお小遣いが跳ね上がった事は誠に感謝している。
「あの二人も不憫だな……。」
唐突に雄介がボソリと呟いた。
「おい、やめろ。その鈍感主人公に向けた様な発言。」
「いや、そのまんまだろ?」
「ふざけんな。鈍感主人公ってのは、全く気付いて無いんだよ。俺は違う。」
「え? お前実は二人の気持ちに気が付いてたの?」
「勿論気が付いてる。それが俺の勘違いって事にな?」
「それはご愁傷さまな事で。」
片方は机に突っ伏し地面を眺め、片方は天井を仰ぐ。昼時の軽口。これが存外楽しい。
あの二人は俺に良くしてくれてはいるが、それは俺に限った話では無い。人気者故に、誰に対しても優しい。
傍から見ていれば、向日葵や栞先輩と男子が校内で二人きりで笑っている場面など珍しい事でも無く、毎朝の登校も、勉強会もそれらの延長線と言ってしまえばそれまで。それを勘違いして学院トップ3に入る様な女の子に告白しようものなら、玉砕は目に見えている。
1000人を超える高等部の中に、男子は約半分の500人。一般的には、一人に対して好きな人物も一人だけ。その確率たるや、たったの0.2パーセント。そんな物にその人との友好的な関係性を賭けるくらいなら、俺は後ろに座る優し気な女の子に賭けるという理屈。
「まったくだな……。」
キーンコーン……。
5時限目の始まりを知らせる鐘の音が、不意に俺たちの軽口を終わらせた。
―――――
「今日はこのくらいにしておこうか。」
栞先輩のいつもの一言に生徒会室に安堵の籠った騒めきが広がる。本日の生徒会会議も無事終了。明日は休日。
今日も青が少し掛かった綺麗な黒髪を揺らしながら凛とした佇まいで、栞先輩がいつもの様に、此方に笑みを作りながら労いの言葉を掛けてくれた。
「お疲れだったね。涼君。今日はそれなりに時間が掛かってしまった様だ。」
気が付けば空は暗い。ネクタイを少しだけ緩めた。
「もうすぐ体育祭も近いですしね。これから忙しくなりそうだ。人手が足りるかどうか……。」
「大丈夫さ。困った時は、いつでもうちの生徒会副会長に頼ってくれていい。」
「いや、それ俺! 俺が困った時の対処法にならないっすけど!」
「ふふっ。君の困る顔を見るのが私の趣味だからね。」
「あんたスゲー事言ってんな! しかも本人の前で!」
「ふふふっ。冗談だよ。さあもうすぐ下校時間だ。」
「栞先輩、たまには一緒に帰りますか?」
その言葉を聞いて、栞先輩は少し寂しそうな表情を映し出した。
「済まない。まだ学院の業務が残っていてね……。また誘ってくれると嬉しい。」
「そうっすか。じゃあお先に失礼します。」
気が付けば唯の姿も見えない。もう既に帰路に着いたらしい。
最近は会話が無いのにも加え、登下校も一緒にしていない。今までもそこまで頻繁に共に下校していた訳でも無いが、気が付けばそこにいる様な感覚があった。最近はめっきりそれも無く、数日関わりが無いだけで少し寂しさを感じてしまう俺は、もしかしたらシスターコンプレックスの毛があるのかも知れない。
下駄箱で使い古されたローファーに慣れた手つきで履き替える。
きちんと手入れされている所為か、形はまだ崩れてはいない。外に出れば、もう上着は必要の無いくらいの気温。もうじき訪れるであろう過酷な夏に向け、未だに照明の下で汗を流す生徒達に目を向けた。
少し長引いた会議のおかげで、もうこの時間に下校中の生徒は少ない。ポツポツと我が家に向かって行く流れに、見知った後ろ姿。少し赤が掛かった茶色いショートカット、両手で鞄を持つ仕草は、見慣れている筈なのに少し新鮮ささえ感じるくらいに女の子らしい。
彼女が驚く様にと足音を立てずに忍び寄り、軽く背中を押した。
「よ! 向日葵ひまわり!」
「ひゃぁあ! りょ、涼ちゃん!?」
向日葵は俺の想定していた驚きより、遥かに大きな驚きと共に勢いよく振り返る。元々整っている大きな目は更に大きく開かれ、頬が一気に朱に染まる。
「も、もう! なんでいきなりそういう事するの! もう! 涼ちゃんのばか!」
「あはははっ! 想定以上の反応、ご馳走様。」
「もう知らない!」
怒った様に踵を返し、一人で先に前方を歩く。それでもその背中が遠のく事は無いようだった。一定の距離を取りながら、同じ距離を同じ速度で歩く。
腐っても幼馴染。その背中にいつもの元気が無いのは見て取れる。
「なんかあったか?」
一瞬肩がビクリと震える。
途端にこちらを振り向けば、そこにあるのはいつもの向日葵の笑顔。
「ううん! 涼ちゃんこそ、今日は生徒会終わるの遅かったんだね。」
「あー、まあ体育祭も近いしな。そろそろ忙しくなってきそうかな。」
昨日に続いて二日連続の向日葵との下校。昔は当たり前だったことが、今では酷く珍しい事の様に感じる。
最近一緒にいる時間が少なくなったからか、向日葵の印象が一段と昔のそれとズレが生じていく感覚。こう見えて、向日葵は昔は小さい頃は口が悪く、高飛車な性格の女の子だった。
友達が居なくて、近所の友達と遊んでも喧嘩ばかり。
昔から運動神経がずば抜けて良く、誰にも負けない変わりに誰からも好かれない。本人も相手を対等だなんてこれっぽちも思っていない様だった。
当時は俺もその中の一人で向日葵の事があまり好きでは無かった事をよく覚えている。今ではイジメと取られても可笑しくない事を平然とやって来る怖い子。そんなイメージ。
誰も向日葵の横には立てない。強すぎる存在の前には人間、皆同様に媚びを売る。周りのその反応が向日葵の態度をさらに激化させる。そんな悪循環。
ガキ大将なんて生易しい物じゃなく、昔は皆、向日葵を恐れていた。
只一人、唯ゆいを除いて。
「お疲れさまだね。でも明日は休みだからゆっくり出来るね!」
「そうだな~惰眠は十分貪るつもりだけどな、明日は出掛けようと思ってるからさ。」
「どっか行くの?」
「ああ、ちょっとな。明日って向日葵は部活か?」
「うん。明日はテニス部の練習だよ。」
「そっか~明日、新しい目覚まし時計買いに行こうかと思ってたんだけどさ。向日葵、暇なら付いて来てくれないかなーって思ったんだけど、普通に考えて部活か。」
今回、向日葵から貰った時計を壊してしまったという理由もあり、また選んでもらえたらと思って居たのだが、やはり高校生ともなるとお互いに忙しいという理由もあり、気恥ずかしいという理由もあり、最近めっきり向日葵と出掛ける事は少なくなったので、俺も少し誘いずらい。
「え!えっ! それって……デ、デ、デー……」
急に向日葵は顔を真っ赤に染め、口をもごつかせた。
「ん? デデデー?」
「あー! 急に思い出したよ! 明日は部活無いんだった! そうだった!」
思いついた様に手をポンと叩く。
「え? そうなのか? テニス部なんかあったのか?」
「え!? う、うん! あったよ! 沢山の事柄が大波の様に押し寄せて来たんだよ!」
「え!? テニス部に何が起こったの!?」
「と、兎に角! 明日偶然たまたま暇になったから、買い物行けるよ!」
「あ、ああ。分かった……。テニス部大丈夫かよ……。」
何やらテニス部には俺の想像も付かない事態に陥っているらしいのだが、そのおかげか明日の休日は久々にも向日葵ひまわりと新しい時計を買いに街に出ることになった様だ。
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