私の気持ちがだいじなの

さっちゃん。

彼は私を、さっちゃんと呼ぶ。

私が彼に、そう呼んでほしいと頼んでから、彼はずっと私をさっちゃんと呼び続けている。


「さっちゃん」

「うん」

「苦しい?」


私は彼の名を呼ばない。


「苦しい。怖くて、苦しい」

「いいこいいこ」


彼が持ってきてくれた蒸しタオルを、頭からかぶる。

今夜は怖くてお風呂に入れそうにない。蒸しタオルは、広がった髪も冷や汗も抑えてくれて、ありがたかった。

出会ったときから彼は、よく気のつく子供だった。それが私に対してだけだと知ったのは、自分の名前、そして彼の名前の由来を聞かされたときだった。


花西美佐。私の名前。

「さっちゃん」の「さ」は「美佐」の「さ」ではない。聞いた人が美佐からとった呼び名だと思ってくれるので、美佐と名付けられたことは良かったと思っている。しかし私の意図は名字のほうにある。

私の生まれは山奥の、時代から取り残されたような村だった。井戸や鶏小屋は珍しくない。妖怪の類も根強く信じられており、私などはクリスマスのサンタクロースを信じなくなっても、節分の鬼のことは信じていたほどだった。なにしろ村では、他でもない私の先祖が鬼だったと、まるで常識のように言われていたのだから。

「花西」は本当は「花災」と書くのだと、私は大人から聞かされた。花という字は、化けるにくさかんむり。化物に冠をかぶせた様子で、くさかんむりの縦ふた画は、冠から突き出した二本の角をあらわしているそうだ。私はぶすくれた。可愛いと思っていた花の字が化物なんて、しかも角が突き出してるなんて、可愛くなくなるではないか。まだ災の意味を知らなかったからマシだったが、それでも頬をふくらませて、ヤダヤダと拗ねた。しかし大人は、まあまあ、と笑い、私の仲良しの男の子…彼の名前の由来も一緒に教えてくれた。花西だから、鬼の子だから、あの子と一緒にいられるんだよ、と。


彼の名前は、財下幸丸。

貝を下にして幸丸を乗せた、何代も見ないほど潔い「贄」の名付けだと、大人たちは感心していた。


災を知らない私は贄も知らなかった。

ひらがなで「かさいみさ」「さいかゆきまる」と互いの名前を書くことができた。遊ぶものがないと「かさいかさいかさいかさいか」と繰り返し、互いの名字をまぜこぜにして遊んだ。


ゆきまるくんとあそべるのは、みさがおにのこだから?

なら、おはながおにでも、ゆるしてあげる。


聞いた当初は、その程度の認識だった。


小学校に通う頃には、まわりみんなに「幸丸くんは美佐ちゃんの」だと認識されていた。あくまで「美佐ちゃんのなかよし」「美佐ちゃんのかれし」ではなく「美佐ちゃんの」である。あまりに普通に私のだと認められ、私自身「幸丸くんは私の」だと当然のように受け入れていた。

中学校に通う頃には、贄の意味を知り、幸丸と自分の関係に背徳感を覚えるようになった。財下は災禍を背負った名前だとか、花西は地主で財下はしもべだったとか、そんな話は私の中二心をくすぐった。しかし、お盆にだけは「リアル生贄を捧げられた私」なんて面白がるような心のゆとりもなくなった。私の親戚と幸丸の親戚が重なりすぎていることを思い知らされ、現実に冷めてしまうから。私の両親には長らく子供ができず、もうできないかと皆が思っていたところに私を授かったという。幸丸のお父さんとお母さんは、私が母のおなかにいると分かった翌週にお見合いで出会い、ひとつき後に結納を済ませたらしい。私が生まれた初夏の日の、ほんの数か月後に、幸丸は生まれた。

鬼だの贄だの、あほくさい。けれど、鬼や贄に踊らされる人々は、鬼の子が生まれるとなったら慌てて贄の子を作ってしまう。分かりやすすぎる事例が幸丸の生まれだし、私が詳しく知らないだけで、重なった親戚たちも、似たようなものなのだろう。鬼があほくさくても、贄があほくさくても、人はあほくさいで片付けられない。

背徳感で遊んでいられた中二病は、現実すぎて早々に治ってしまい、私は中二病に頼らずに気持ちの折り合いをつけるしかなくなった。幸丸は私のために生まれた。幸丸を生むために幸丸のお父さんとお母さんは結婚した。幸丸は私のだ。私が望もうが望むまいが幸丸は私のなんだから、受け入れるしかない。私は認めた。


転機は、進路指導とともに訪れた。

幸丸が都会の進学校を希望したのだ。幸丸は頭が良くて、きっと受かると判定された。

都会の進学校は村でも有名で、そこに行くのは本来なら祝福されることだった。けれど私は不愉快だった。幸丸は私のなのに、私から離れるつもりなのかと。とっくに一緒に遊ぶ歳ではなくなっていたが、当然のように私は不愉快だった。不愉快だったから幸丸を見もしなかった。私のじゃなくなろうとする幸丸が悪い。


だから気付かなかった。

幸丸が孤立していることに。

幸丸のお父さんとお母さんが、村のスーパーに来なくなったことに。

幸丸が家で喧嘩を繰り返し、学校でもひとりですさんだ目をしていたことに、私は気付かなかった。


幸丸の現状を知ったのは、同級生の何気ない言葉からだった。

「罰当たりなんだから」

ごはんをラップで握っただけの幸丸の昼食、それを机に出した途端、男子が幸丸の机に座った。幸丸は、素早くごはんを男子の尻から回避して、教室から出ていった。男子の舌打ちとともに聞こえたのが、同級生が幸丸を……幸丸を見て言った「罰当たり」という言葉だった。

「ほんとそれ」

そう言ったのは私だった。幸丸の罰当たり。

私のなのに。何のために生まれたと思ってるの。村のルールを守らない罰当たり。おじさんとおばさんの結婚を無駄にする罰当たり。


罰当たり……?

何、罰当たりって。

唐突に心が冷えた。


今、私は、何を考えた?

幸丸は罰当たりだと考えた?

罰当たりだから昼食を潰されても仕方ないと考えた?

むしろ当然の制裁から逃げた幸丸を罰当たりだと考えた?


めまいがした。

いつから?いつから私は幸丸を見下していた?いつから幸丸を蔑んでいた?

うつむくと、私のお弁当があった。竹のお弁当箱に、きっちり詰められたごはん、梅干し、卵焼き、焼いたお肉。

私は席を立った。目の前のお弁当を食べる気にはなれなかった。無理、吐く。その場にいるのも嫌だった。ここの空気を吸いたくなかった。

教室を飛び出す私の後ろから声援が飛んだ。

「よーし罰当ててこーい!」

私への善意にあふれた声援。鬼の子が所有物を取り戻すため動いたことを喜び、楽しく応援する声。

気持ち悪い。


階段を駆け下り、その裏に回った。思った通り、幸丸はそこに隠れていた。階段下のホコリっぽい空間で、幸丸はラップごはんを後ろに隠すようにして、駆け出す構えを取っていた。それは幸丸が嫌がらせに慣れていることを、何も見ていなかった私にも知らしめるものだった。

追ってきたのが私だったことが意外だったのだろう。駆け出そうとした幸丸は動きを止め、私を見つめた。

私は口を開いた。

幸丸。


「…………」


呼べない。

口から、なんの音も出せないまま、金魚のようにくちびるだけが動く。

財下くん……嫌だ。最初から贄の漢字を作るための名字で、この子を呼ぶのは嫌だ。

幸丸。とんでもない。ただの財下に幸丸なんて名付けたから、この子は贄にされてしまったのに。贄にするための名前なんて呼びたくない。


「花西さん」

「あのっ」


表情が分からない彼が、私の名前を口にする。

怪訝なのか、怒っているのか、それすらも読み取れない。どうしよう。ひどいことをした。ずっとひどいことをしてきた。私なんて化物だ。冠かぶせられて、ちやほやされていい気になった鬼だ。花災だ。こんなの嫌だ。もう嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。


「さ!」


口から絞り出した、一文字。

財下くんと呼ばれると思ったのか、こちらをみつめる目を、勇気を振り絞って見つめ返して、震える声で頼んだ。


「さっ……ちゃん、って、呼んで」


子供か。幼児か。さっちゃんって。

けれど、それしか浮かばなかった。

財下幸丸を呼びたくない私は、花西美佐でありたくなかった。


「私、かさいで、ごめん、かさいみさ、もう、やめる、さっちゃんって、よんで、ごめんね、ごめんなさい、ごめん、かさいやめるから……」


私は泣いていた。

立ち尽くして、財下くんとも幸丸とも呼びたくなくて、自分がこの人の災いなんだと自覚して、もう災いになりたくなくて、だから災いだって忘れないように、災からさっちゃんと呼んでもらおう。まわりには美佐からさっちゃんだと思ってもらおう。私だけはもう繰り返さない、こんなひどいこと、もうやらない、もう忘れない……


「さっちゃん」


顔を上げると、彼がラップごはんを差し出していた。


「ごはん、たべよう」


かじりついた米のかたまりは、涙の味しかしなかった。

本当にただ米を包んだだけの昼食を、彼と私は交互にかじった。


鬼と贄。ふたりとも安らかに過ごすため、私はその立場を利用した。鬼は鬼っぽく、贄は贄っぽく振る舞えば、鬼の所有物である贄に手を出す者はいなくなる。

私は彼に勉強を教わった。彼は私の教材として扱われた。私がそう扱った。彼の名前を呼ばないことも、教材扱いだと思わせれば、かえってまわりは満足した。

私が彼と同じ都会の進学校に合格したとき、彼は褒められたらしい。花西の娘を育てた優秀な贄として。

そう、私の贄という建前さえ保てば、彼はどこにでも行けたのだ。


「さっちゃん」

「うん」

「はみがきしようねー」


過去に飛んでいた意識を戻す。

相変わらずシトラスの香りが強いけれど、髪の浮きはおさまっていた。

彼が、おさめてくれた。


「ねぇ」

「はーい」


ゆるふわが板についた彼が、首をかしげてみせる。

そんな彼に、恐怖を吐露する。


「私、鬼?」

「さっちゃんはさっちゃんだよー」

「あなたは、あなただよ」

「そだよー」

「あなたは、私のじゃないよ」

「そだよー」


彼の言葉がしみわたる。

そうだ、彼は彼。私のなんかじゃない。

はっきりさせておかないと、もっとこわいことになる。


「電気へんなの、私のせいかな」

「かもなー」

「スマホに妬いて壊しちゃったのかな」

「かもなー」

「鬼になりたくないよ」

「ならないよー」


彼の手が、私の頭をなでる。

もう髪は浮かない。


「さっちゃん、つらかったなー」

「そんな……」

「やきもちやいてかわいいなー」

「いやいやいや」


呑気すぎるだろう。何だこいつ。


「やきもちでスマホスパークさせたら妖怪じゃん」

「さっちゃんはかわいい妖怪だなー」

「火事になるかもしれないよ」

「ならないよ」


語尾が伸びなくなった。


「さっちゃんは、ぼくを危ないめにあわせない。スマホが割れても、ぼくは怪我しなかった。ススがついても、燃えてなかった。ぼくにおいしい照り焼きチキン食べさせようと思ったら、ちゃんとおいしい照り焼きチキンができた。怒ったときはチキン生焼けにしちゃったけど、チキンを炭にはしなかったでしょ?」


説明モード搭載のゆるふわな彼。


「だから大丈夫。安心して寝ようねー」


涙が出てきた。

嫉妬に狂った女は鬼になるという。けれど私は鬼って言葉に過敏なんだ。気にしすぎなんだ。謎の帯電も放電も怖いけど、鬼は関係ないじゃん。だって私は、さっちゃんだもん。鬼なんかじゃないもん。


「ピカチュウ」

「さっちゃんピカチュウになっちゃったのー?」

「ピッピカチュウ」

「モンスターボールはいれるの、便利なー」


ああ、本当に。

モンスターボールに入って、わけのわからない電気とオサラバしたい。ボールの外に電気が漏れないなんて素晴らしい。


「そしたらさっちゃん、こわくないねー」


この人は、どこまで私の思いを見透かしているんだろう。

怪奇現象を怖がりながらも、いつしか私は眠りに落ちていた。

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