うるま

第1話

その塔は、いつもそこにある。


 いつからだろうか。僕は父に尋ねる。父は自分が生まれた時に塔は既にあったこと、そして自分も少年だった頃に父親に同じ質問をしたこと、帰ってきた答えは同じだったことを教えてくれた。

 僕は学校の先生に訊いてみることにした。

 サンドイッチをオレンジジュースで流し込み、玄関へと向かう。

僕が一歩歩く毎に、床はギシギシと音を立てる。この家は大きな木造の一戸建てだが、どうしようもなく古い。しかし、僕だけが文句を言うわけにはいかない。何故なら、この島にあるほとんどの家は木造で、一戸建てで、古いから。

 愉快な音を鳴らしながら歩く僕に、後ろから声がかかる。

「秋、気を付けて行ってらっしゃい。」

 母だ。この時間に母が起きていて、更に自らの力で立っているのは珍しい。というのも、僕の母は病気だからだ。癌と言うらしい。どんな病気かは知らないが、とても厄介だということは子供の僕にもわかる。母の髪の毛はもう一本だって生えていないし、四日に一回ほど、嘔吐が止まらない夜がある。また、午前中は大抵自分の寝室で寝ている。だから僕は、母が登校前の僕に声をかけてきたことに驚いた。そして嬉しかった。

「うん。行ってきます。」

 笑顔で言って、家を出る。


 この島唯一の小学校までは三十分歩く。父は車で送ることを定期的に提案してくるが、その都度断っている。理由は二つある。

 一つ目は、恥ずかしいから。だって、そうでしょ?皆が歩いて学校まで来ているところをクラスの中で学校まで一番遠いからって、一人だけ車で来ては根性なしだと思われる。

 二つ目は、単純に歩きたいから。僕は学校までの道のりが好きだ。特に、家から十分ほど歩いたところで通る海岸。僕はいつもそこで少しの間立ち止まり、海を眺める。美しいその海は、同時になぜか、恐怖の対象にもなる。理由は言葉では上手く言えない。リンゴを赤いと思うように、マラソンを嫌だと思うように、初めから『そう』なのだ。


 今日も海岸で海を見た。五分が経過して、僕は再び足を学校に向けて動かし始める。

 先生に塔の質問をしたのは放課後だった。クラスメイトの前で質問をするのは少し恥ずかしかったから。僕の四人のクラスメイトが教室を出た後も、僕は自分の席に座り続けていた。先生が放課後に教室の様子を見に来るのは知っていたので、それを待った。

「島の真ん中のあの塔は、いつからあるんですか?」

 先生は優しく笑って僕の隣の席に座った。

「たまにいるのよね。塔に興味を持つ子が。」

 僕は不思議に思って言った。

「興味がない方が変だよ。だって、あの塔は僕が生まれる前から当たり前のようにあって、中には入れないし、雲よりもっと高いからどこへ繋がっているのか分からないし。」

「ええ。そうよね。あの塔について知っている人は本当に少ない。いえ、ひょっとするといないかもしれない。残念ながら私も、あの塔については大したことは知らないわ。」

「なんだ・・・。」

 僕は残念に思った。だって先生は普段、何でも知っていますよって態度で先生をしているもんだから、当然塔についてもたくさん知っているのかと思っていた。

「あぁ、そんなに悲しい顔をしないでちょうだい。」

 先生は僕の頭を撫でて言った。一体誰のせいだと思ってるんだ。

「あのね、秋君。先生は君の知りたいことは教えてあげられないけれど、あなたのその興味は無くしちゃだめよ。みんなは塔についてなにも知らないことを当たり前だと思って過ごしてる。その当たり前のことに疑問を持つって、とても良いことなのよ。」

 何を言っているのかイマイチ分からなかったが、褒められているようなので悪い気はしない。


 先生は塔に興味を持つことを良いことだと言っていた。ならば今度は人に訊くのではなく、自分で調べてみよう。そう思い、僕は学校を出た後、家に帰らず塔へ行った。

 すぐ近くにあると思った塔は、目指して歩くと意外と遠く、学校から十五分も歩いた。

 僕はノートと鉛筆をランドセルから取り出した。調べたことを書き記しておくためだ。まずは塔の大きさから調べてみることにした。塔は円柱の形で、周りの長さを図るには、僕の三十センチの定規では無理だったので足で図ることにした。二十歩。それだけ歩いて一周する長さだった。僕はそうノートに書く。次は塔の高さだが…。真下から見上げた塔は、それはそれは長くて、大きくて、クラクラした。仕方がないので高さに関しては、雲より高いところまで伸びている、とだけ書く。次、色。クリーム色。硬さ。硬い。出入り口。無し。

 さて次はどんな情報をノートに収めようかと考えていると、後ろで足音が聞こえた。

 振り返ると、そこには老人がいた。確か文也のおじいちゃんだ。小さい島だと大抵は顔見知りだ。

「こんにちは。」

 僕は礼儀正しく挨拶をする。

「こんにちは。」

 彼も返してくれる。

 しかし、こんな場所でなにをしているんだろう。ここには塔しかないのに。

「秋君はここで何を?」

 先に訊かれてしまった。僕は塔について調べていたことと、それから自慢げに、集めた情報を彼に教えてあげた。彼は感心した様子で耳を傾けてくれていた。

「文也のおじいちゃんこそ、ここで何をしているんですか?」

 話すことに夢中で頭の隅に追いやられていた質問をする。

「塔に呼ばれてね。」

 これは驚いた。今確かに彼は塔に呼ばれたと言った。

「塔と話ができるんですか?」

 ついつい大声が出てしまった。だがそんなこと気にしてられない。

「いいや、一方的に呼ばれるのさ。塔からね。あなたの番だと。あなたが塔を上る番だと。」

 なるほど。塔は一方通行に話しかける奴らしい。

「でも、塔も無茶を言いますね。だってこの塔、出入り口がないですよ。」

「あぁ。だが君も、年に数人がこの塔を上ることは知っているだろう?」

 確かに僕は父からそう聞いていた。しかし実際に出入り口がないのだ。僕は父が嘘をついたか、それとも父もだれかに騙されたのだと思っていた。

「塔が呼んでいる。私はもう行くよ。」

 そう言って彼は塔に近付く。するとどうだろう。なんと彼の目の前の壁が開いたのだ。彼は塔に入る前、こちらをもう一度見て、年季の入った笑顔を披露した。そして中にある階段を上りはじめた。僕も後を追ってみようかと考えたが、開いた壁は彼を通すと直ぐに閉じてしまった。僕は今起こったことをノートに書き、家に帰った。


 玄関の戸を開けると、いつもと違うのがすぐに分かった。嫌な雰囲気だ。父が玄関に座っていて、僕の目を見る。

「あぁ、秋。良かった。間に合いそうだ。」

「何の話?」

 僕の声は震えていた。もう、分かる。父を見て充分に。僕にとって、そして父にとって良くないことが起きている。そしてそれは恐らく…。

「母さんが、母さんの具合が良くないんだ。秋が家を出た後に酷く吐いてしまって、病院へ行ったんだ。」

 今までもそんなことは何度かあった。しかし、父の表情は、母が病気だと分かったあの日と同じくらいに険しく、悲しかった。それでも僕は言った。

「そんなこと、今までも何度だってあったじゃない。数日後にはまた元気になって家に戻ってくるんでしょ?」

 僕の目には既に涙が溜まっていた。

「違うんだ、秋。今度は。今回は…。」

 そこまで言って父は立ち上がり、僕を通り過ぎ、車に乗り込んだ。かかったエンジンの音は、僕に早く来いと言っていた。

 僕は車に乗り込む。父親の隣の席へ。車が発進する。病院に着くまで、父は何も言わなかった。僕も何も言わなかった。しかし、僕らは互いに相手の気持ちが痛いほどに理解できていた。僕も父も泣いていた。


 母は見るからに弱っていた。朝の母も弱々しかったが、まるで別人のようだ。僕は怖くなり、目の前の女性が母でないことを願った。しかし、彼女の口から僕の名前が漏れたとき、僕は逃げ道を失った。


「手を握って。」

 母の要求に僕はすぐに応じることができなかった。怖かったのだ。母の弱さをその身で感じることが。

「頼む。」

 数十秒の沈黙の後、父が言った。


 母の手を握る。

 細くて弱い。嫌でも感じてしまった。死を。

 だが同時に、温かかった。

 海みたいだな、と思った。



 母は弱々しく立ち上がる。





「塔が呼んでいるわ。」



 母は病室を後にする。僕も父も、追いかけなかった。母の最期の言葉は早朝の空気のように透き通っていて、それでいて、誰をも拒絶する鋭さがあった。


 僕は母の背中を見送りながら、どうか、塔の行きつく先が安らぎをもたらしてくれますようにと、心から祈った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

うるま @orangemogmog

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る