第23章 疾走する少女

猫科の一番小さな動物、つまり猫は、最高傑作である。


レオナルド・ダ・ヴィンチ



十月二十七日 午後四時三十分


 私と理真りまは、美緒みおの家へ向かうべく車を走らせていた。

 しばらく走ると理真の携帯電話が鳴った。


「由宇、お願い」

「オッケー」


 私はダッシュボードに載っている理真の携帯電話を取って、「中野なかのさんからだ」ディスプレイに表示された発信者の名前を呟いて、スピーカーモードにしてから応答した。


「もしもし。安堂です」

「ああ、安堂さん」中野刑事の声が車内に聞こえ、「新しい情報が入ったので、お伝えしようかと。今、お忙しいですか?」

「大丈夫です。お願いします」

「分かりました。今日、南中学で改めて先生方に聞き込みをしたんですけれどね。近野こんの教諭が、事件が発覚した日に学校に宿直したということはご存じですよね」

「はい。中野さんと一緒に行ったときに、そんな話を聞きましたね」

「その宿直の最中に近野教諭が、グラウンドに勝手に入り込んでいた男を引っ捕らえたっていうんですよ」

「グラウンドに?」

「ええ。近所に住んでいる大学生なんですけれどね。サッカー部に所属している男で、それまでもよく、南中学のグラウンドに勝手に入って練習をしていたらしいんです」

「その日も、勝手に入り込んだけれど、いつもと違って近野先生が宿直していたから、見つかってしまった、ということですね」

「そうです、そうです。で、近野先生は、勝手に学校敷地内に入るんじゃない、と注意をして、一応連絡先を聞いて返したそうなんですよ。事件に関係があるとは思わないので、警察に報告もしていなかったそうです」

「それが、今日の聞き込みで発覚した、と」

「そういうことです。それでですね、僕は、そいつが事件のあった日にもグラウンドに入り込んで、何か怪しいものや、うまくいけば犯人を目撃しているんじゃないかと思って、連絡先を聞いて聞き込みに行ったんですよ。そうしたら、やっぱりでした。その大学生は事件の日、十月二十三日にもグラウンドに入り込んで練習をしていたそうなんです。そこで、その大学生は、アラーム音のような音を聞いたっていうんですよ」

「アラーム音? 何でしょう?」

「僕が思うに、形塚先生がしていた腕時計のものじゃないかと」

「腕時計のアラーム、ですか」

「はい。学校の先生方に聞いてみたら、ビンゴでした。殺された形塚先生は、いつも腕時計にアラームを設定していたそうです。大学生も、ちょうど体育用具室のある方向から、そのアラーム音は聞こえたと証言しましたから。間違いないでしょう」

「腕時計のアラーム……それは、何時頃のことですか?」

「時間ははっきりと分かります。形塚先生は、残業があっても、決まった時間になると学校を出て、仕事は自宅に持ち帰る主義だったらしく、そのためのリミット時刻になると、アラームが鳴るようにしていたそうです。午後七時半です」

「……えっ?」


 意外そうな声を出すとともに、理真はウインカーを出して車を路肩に停車させた。中野刑事の声は続き、


「大学生に聞いても、アラーム音が聞こえたのは、ちょうどそのくらいの時間だったと言いますし、間違いないでしょう。大学生は、それを聞いて、誰か人がいるのかと思って、すぐに帰ったそうですけれど」

「午後七時半に、アラームが?」

「そうです。何人かの先生方が実際に聞いたことがあると証言しています。残業中の職員室で七時半になると形塚先生の腕時計からアラーム音が鳴って、それをきっかけに形塚先生は必ず帰宅していたそうです。どうですか、安堂さん。形塚先生の腕時計が一時間遅れていたことと、何か関係があるんじゃないですか? ……安堂さん?」


 理真はハンドルから手を離し、考え込むような顔をしていた。


「……中野さん、ありがとうございました」

「お役に立ちましたかね? それじゃあ、僕は一旦署に戻るので」


 そこで通話は切れた。


「理真、今の話が、どうかしたの?」

「由宇、おかしい」

「え? 何が?」

「七時半にアラームが鳴ったっていうことが、だよ」

「……えっと」


 どういうことだ? 私の考えがまとまる前に、理真がこちらに体を向けて、


「いい、由宇、私たちの推理では、明日奈ちゃんか美緒ちゃんが、形塚先生を殺したあと、死亡時刻を誤認させるために腕時計の針を六時にして、そのうえで壊した、ってことになってるんだよ」

「……そうだね。本当は五時半にしたかったんだけど、電波時計だから融通が効かなくて、本当の死亡時刻七時マイナス一時間の六時にしか合わせられなかった、ってことだったよね」

「だったら、午後七時半にアラームが鳴るわけがない!」

「……あ! そうか! もうその時間には、腕時計は壊されているはず」

「そうだよ。壊れた腕時計からアラームが鳴るはずがない」

「針は止まっても、アラームの機能は生きていたとか?」

「……確認してみよう」


 理真は携帯電話を掛けた。


「……もしもし、安堂です。捜査本部ですか。すみません。どなたでもよいので、証拠品で確認して欲しいことが……」


 通話を終えた理真は、


「駄目。一昨日、昨日と証拠品のある部屋で仕事をしていた警察官が何人かいたけど、午後七時半にアラームが鳴ったことはないって。実際に腕時計も調べてもらったけど、内部機構まで完全に壊れてて、アラーム機能も死んでるって」

「じゃあ……」

「七時半の時点で、形塚さんの腕時計は壊れていなかった、ということ……七時に形塚さんを殺して、針を動かして腕時計を壊した、という私の推理が根本から崩れたことになるわ」

「理真……」


 意味もなくフロントガラスの向こうを見つめたまま、唇に指を持っていきかけた理真だったが、


「――とりあえず、今は美緒ちゃんのことを優先しよう」

「そうだね」


 理真は再びハンドルを握り、アクセルペダルを踏み込んだ。



 理真と私を乗せた車は、南中学校方面に向かっていた。途中、西中学校の校区内を走り抜ける。車が交差点に差し掛かろうとしたとき、理真が、アクセルペダルから足を離して車の速度を緩めた。


「どうしたの?」


 私が訊くと、理真は、


「……美緒ちゃん」


 と、フロントガラスの向こうに視線を向けて呟いた。私も見つけた。そこは、つい数時間前に明日奈に呼び出された公園だった。その公園のベンチに、今度は美緒がひとりで座っていた。車を駐めて、私たちは公園に入った。


「美緒ちゃん」


 名前を呼ばれた美緒は顔を向け、声を掛けた人物が理真だと分かったためか、ベンチから立ち上がり掛けた。が、


「待って」


 すぐに呼び止められて、中腰の体勢で動きを止めた。


「安堂さん……江嶋えじまさん……」


 私たちと視線を合わせないようにしながら、美緒はベンチに座り直した。


「どうしたの? こんなところで」


 ここは西中学校の校区であるため、南中学に通う美緒の家とは少し距離がある。どうしてこんなところにいるのだろう。やはり、明日奈と何かあったのだろうか。理真からの質問にも、美緒は黙って地面を見つめるだけだった。


「ねえ、少し、いいかな」


 理真は、なおも声を掛ける。


「安堂さんたちこそ……」美緒は、自分の足下から視線を離さないまま、「どうしたんですか。よく私がここにいるって分かりましたね」

「たまたまね……ねえ、座ってもいい?」


 理真のその言葉には、美緒は黙ったまま頷いた。

 ベンチには、美緒を真ん中に、彼女の右に私が、左に理真が腰を下ろしている。


「安堂さん」ようやく美緒が口を開いた。「明日奈に、何かあったんですか?」


 理真は、美緒越しに私と一度目を合わせてから、


「そういえば、ここ、明日奈ちゃんの家の近くだね。美緒ちゃんは、明日奈ちゃんのところに遊びに来たの?」


 質問をはぐらかした。だが、美緒はそれについて何も言うことはなく、


「ここ、明日奈のお気に入りの公園なんです。ううん、お気に入りだった、って言ったほうがいいのかな……」

「どういうことなの?」

「この公園に、明日奈が可愛がっていた猫がいたんです……ランタって言う名前の」

「ランタ、か、かわいい名前ね。その、ランタがいなくなっちゃったの?」


 理真が訊くと、美緒は唇を噛んで、


「殺されました……」


 理真と私は顔を見合わせる。


「ミケちゃんが見つけてくれたんです。あそこの……」と美緒は公園隅の植え込みに目をやって、「向こうに……最近ニュースになっている、猫をたくさん殺してる犯人にやられたんです、きっと……」


 美緒の目に涙が滲んだ。


「犯人、捕まったんですよね」

「えっ?」

「猫を殺していた犯人」と美緒は赤くした目を理真に向けて、「明日奈が言ってたんです。今日、何匹も猫を殺していた、ランタも殺した犯人が捕まるって」

「明日奈ちゃんが、美緒ちゃんにそんなことを……」


 明日奈は犯行の自白とともに、冬科ふゆしなが小動物殺傷犯であると告発した。自分が冬科を告発することだけは、美緒に話していたのか。


「美緒ちゃん、さっき、明日奈ちゃんがどうなったか、って私に訊いたわよね。明日奈ちゃんと何か話をしたの?」


 理真はハンカチを美緒に差し出した。黙って受け取った美緒は、涙を拭って、


「だって……明日奈……私のこと……」何かを訴えかけるような目をした、が、「どうなんですか? 犯人は捕まったんですか?」


 気を持ち直したかのように表情を引き締めると、改めて猫殺しの犯人の処遇を尋ねてきた。「何も喋るな」と明日奈に固く言われていたことを、頑なに守り通しているのだろう。理真は、美緒の目を見て、


「確かに、明日奈ちゃんは警察に来て、ある人物が小動物殺傷犯だと告発したわ」

「やっぱり。で、どうなったんですか?」


 理真は首を横に振って、


「逮捕は出来ていないわ」

「どうして?」

「証拠がないのよ」

「証拠って……明日奈は見たんです、きっと。だから……」

「それは分かる。でもね、駄目なのよ、それだけじゃ」

「そんな……」


 美緒の瞳が再び滲んできた。ハンカチで目を拭って、美緒は、


「じゃ、じゃあ、証拠って、何があればいいんですか?」

「そうね……その人が猫を殺したという証拠。例えば……その人の衣服には、動物の血液が付いているのが確認されたのね。それが、殺された猫の血液と一致したら、あるいは……。でも、今まで殺された動物たちは、もう火葬されているし……」

「血……殺された……猫の――」


 美緒は、立ち上がると、突然走り出した。


「美緒ちゃん!」


 私と理真も、慌ててあとを追う。美緒は公園を出て、道路を走り続ける。


「理真、車で追いかける?」

「駐車場まで戻ってたら見失うわ。こっちも走って追いかけよう」

「オーケー」


 威勢のいい返事をしたが、十数メートルも走るときつくなってきた。美緒は小柄な体をしていても、やはり元気の盛り中学生だ。私と理真は、彼女の背中を見失わないように追いすがるのが精一杯だった。


「理真……美緒ちゃんは……どこに……行こうとしてるの?」

「多分……この先は……」


 荒い息を挟みながら、私たちは会話した。その美緒は、四つ辻を曲がったところだった。私たちもその先に出ると、眼前に門が見えてきた。この門には見憶えがある。ベージュ色の人造大理石で作られた表札には〈高宮たかみや〉と彫られていた。門扉は開け放たれている。美緒が押し開けて入ったのだろう。私と理真は膝に両手をついて、肩で息をして呼吸を整えてから門をくぐった。門から玄関までは数メートルのアプローチが延びていたが、私たちはその途中で曲がった。その先の広い庭の奥に、美緒を見たためだ。庭に入った私と理真は、ゆっくりと歩きながら芝生を踏んだ。


「美緒ちゃん、何をしてるんだろう?」


 美緒は庭の隅に生える木のそばで、こちらに背中を向ける格好で何かをやっている。


「……穴を掘っている? いや、何かを掘り出そうとしてるの?」


 理真に言われてよく見てみると、美緒はスコップを手にして、木の根本にその先端を突き立て、土をすくっては脇に除ける、という作業を反復している。

 ある程度まで掘り進めたのか、美緒はスコップを投げ出すと地面に膝を突いて、穴の中に手を入れた。その間に私と理真は、美緒のすぐ背後にまで辿り着いていた。美緒の肩越しに、彼女の掘った穴が見える。その底には、土を被った薄茶色の四角形の物体が埋まっていた。美緒は、泥だらけになった手で、その物体を持ち上げた。それは段ボール箱だった。重そうに持ち上げた段ボール箱を地面に下ろすと、美緒は荒い息を吐いてその場に座り込んだ。


「美緒ちゃん」


 理真が声を掛けた。


「安堂さん……」振り向いた美緒は、地面に置かれた段ボール箱を指して、「ここに……ランタがいます」

「ランタ……殺された猫ね」

「はい……ここに入っているランタの……遺体の血と、犯人の服に付いていた血を……比べてみて下さい……」


 地面に座り込んだ美緒は涙声で訴えた。ランタが入っている? この段ボール箱は、猫の棺ということなのか?

 理真と私は、屈み込んで段ボール箱をゆっくりと開けた。そこには、綺麗な花で飾られた、尻尾の先端だけが白い黒猫の亡骸があった。理真が猫の頭部にかかっていた花を除けると、そこには明らかに人為的に付けられたと分かる無残な傷口が開いていた。

 段ボール箱は、収められた猫に比較しては大きく、亡骸の周囲はスペースを埋めるようにタオルが敷き詰められている。蓋部分と側面と、箱の五面を見回した理真は、


「由宇、持ち上げるの手伝って」


 私と理真は片膝を突いて左右から箱を持ち、地面から一メートルほど持ち上げた。猫の亡骸にしては重いと感じた。理真が箱の裏面を覗き見たので、私も同じようにした。


「これは……?」


 そこには、送り状を剥がしたと見られる跡がある。この段ボール箱は宅配便か郵送に使われたものらしい。本来はこちらが天面だったようだ。送り状は完全に剥がされてはおらず、宛先を記した部分が僅かに残っている。住所のあとには、〈南中学校 御中〉と印刷がされていた。箱を地面に下ろすと、理真は猫の周りを囲むタオルに触れていった。理真の手が止まる。


「理真?」

「やっぱり……由宇も思ったでしょ。猫一匹が入ってるにしては、重いと思った」


 理真はタオルを取り去った。


「あっ! これって……まさか?」


 その下にあったものを見て、私は呟いた。理真は人差し指で唇に触れて、数秒間黙考してから、


「……いくつか確認することはあるけれど、これで、全部分かった」


 タオルの下に隠されていたもの、それは、高さ二十センチ程度の、本を読む少女のブロンズ像だった。その台座部分の一角には、どす黒い血痕がこびりついていた。

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